寺子屋塾

見たくないのはそこに関心があるから

お問い合わせはこちら

見たくないのはそこに関心があるから

見たくないのはそこに関心があるから

2021/09/22

毎朝、Facebookの個人のページに

【今日の易卦】と題して

このような写真を投稿しているんですが、

今日はこれについて。

寺子屋塾の教室には、

「何を聞いてもいい」というルールがあるんですが、

そう言われても、何を聞いたらいいのかわからないと戸惑う人も

現実には少なくありません。

 

それで、「あの、井上さんが毎朝投稿されている

サイコロが3つ並んでいる写真って、

いったい何なんですか?」てな感じで、

質問するとっかかりにしてもらえるように、

毎日の投稿には自分が

どうしてこういう投稿をしているのかについて、

詳しい説明を敢えてつけていない次第です。

易は、一般には「易経」とか「周易」とか言われ、

古代中国で成立した「四書五経」といわれる

古典の一つなんですが、

予備知識がまったくない人にとっては、

何が書いてあるのか、きっと

まったくチンプンカンプンではないかとおもいます。

 

わたしがこうして毎日易を立てるようになった

そもそものきっかけは、

こちらのblog記事に書いたとおりで、

お正月に初詣に行ったとき、

いつも引いているおみくじがなかったために、

自分で占ってみようとサイコロを振ったことでしたし、

日本では、易というと、

易者とか易占いという言葉を

連想される人が少なくないでしょう。

 

わたしも最初の頃は毎日どんな卦が立つか楽しみで、

それが当たるか外れるか、

その内容に一喜一憂していた時期もあったんですが、

こちらの記事に書いたような感じで

易の参考書に書かれた、

該当する卦の説明を読むことを

日課として繰り返していくうちに

易のもつ深い世界観が少しずつ

垣間見えるようになってきたわけです。

 

つまり、自分の心のなかにある、

自覚できない無意識領域に隠れていることや、

いまの自分に見えていない盲点や現状を

知るヒントになることが分かってきてからは、

未来を占って予測するとか、

その卦が実際に当たったか外れたかということは

次第にどうでもよくなってきて、

それ以後は、
自他を含むこの世界の現状把握と

人生哲学について学ぶようなつもりで

1日1回易を立てることを繰り返してるわけです。

 

 

たとえば、9/2の卦は「火沢睽」だったんですが、

その日に写真とともにFacebookに投稿した文はこんな風でした。

【今日の易卦(日筮)・連続投稿2072日め】
9/2(木)
38.火沢睽の初爻変、火水未済に之く
・かたくけいのしょこうへん、かすいびせいにゆく

 
[卦辞、読み下し文、直訳、大意]
睽。小事吉。

 
睽(けい)は、小事(しょうじ)は吉(きち)なり。

 
火沢睽の時は、小さいことを行なうのには吉。

 
「睽」は相背くの意。この卦は、上卦の離(火)が次女を、下卦の兌(沢)の三女を表し、女同士で反目している姿です。この卦の時は、統一がなされず内輪もめありとみなします。たとえば、家庭の中では嫁と姑の争い、会社の中では派閥争いといった感じで、万事に行き違いやズレが生じてスムーズに事が運びません。こういう時は、大きな事は行なわずに内部に目を向け、反目が小さなうちに対処し、調和を図る和解策を練ることです。ただし、火沢睽の場合、対立は本質的なものではないので、合わないことを必要以上に嘆いたり、過敏に反応したりするのは得策でなく、「人は人、自分は自分」で違いがあるのは当然と考え、ストレスをためないようにしましょう。

 
[爻辞、読み下し文、直訳、大意]
悔亡。喪馬勿遂。自復。見惡人。无咎。

 
悔(くい)亡ぶ。馬(うま)を喪(うしな)う。逐(お)ふ勿(なか)れ。自(おのずか)ら復(かえ)る。惡人(あくにん)を見(み)れば咎(とが)なし。

 
悔いはなくなる。馬を見失うが、追わずとも向こうから戻ってくる。悪人でも心を広くして会えば問題はない。

 
一度背いた者もまた戻ってくる時です。去る者は追わず、放任することです。また、気に入らぬからと避けて通るのは損になる時。

 
[キーワード]
・火沢睽:対立
・火水未済:未完成

 
[表面に表れたヒント]
・思い通りにいかない。にらみ合ったまま互いに意地を張り合ってしまう。
・だが、いつまでも続くものではない。あまり気にしない方がよい。
・強引な手段は事態を悪化させることになる。

 
[ヒントを解釈する指針]
・必要とする者が背いて離れ、望まぬ者が接近してくる。しかし、去る者を追いかけてはならない。いずれ戻ってくる。
・批判することを控えること。

 
[背後に隠された機微]
・事が成就しようとしているのに、今一歩の所で成就し切れずにいる。


※引用ここまで


2年前の今頃に、改めてこの「睽」という

卦の意味を考えていくなかで、

大きな気づきがあったんですが、
今日はそのことについて少し掘り下げて

書いてみようかとおもいます。

 

「火沢睽」の卦辞原文は非常にシンプルで

「睽。小事吉。」とだけあります。

 

「睽」は「相背く」の意味ですが、

相背くのにもかかわらず、

なぜ小さいことに吉と言えるのでしょうか。

 

この卦は、上卦・離(火)と下卦・兌(沢)の組み合わせで、

離(火)は次女、兌(沢)は三女の象徴でもあります。

 

つまり、本来は仲睦まじい関係にある姉妹であっても、

同居が日常になってしまうと、

ちょっとしたことでケンカして

波風が起きやすいといった状態

と言えばわかりやすいでしょうか。

 

人は互いに仲むつまじく、

協調するにこしたことはないのに、

親子や兄弟で仲が悪かったりするのは、

たとえば磁石のN極同士、S極同士が反発するように、

同質のものが双方に存在するからなんですね。

 

つまり、離(火)も兌(沢)もどちらも

「陰」の卦という点では同じ性質をもっているので。

 

「睽」という漢字は、反目や食い違いを表し、

目を背けて相手を見ないようにすることなんですが、

なぜ見たくないのか理由をつぶさに観察していくと、

そこに相手に関する関心があるからだ

ということがわかってきます。

 

「愛の反対は憎しみではなく無関心」

という話はよく聞きますが、

惹かれるのも、反目するのも、

じつはその根っこは同じで、

相手への関心がもたらすものなのでしょう。

 

「夫婦げんかは犬も食わない」

ってことわざがありますが、

相手を認めているからこそ、

仲が良いからこそケンカできるのでしょうし。

 

皆さん、自分の嫌なところって、

あまり見たくないとおもいますよね?

 

でも、どうして見たくないのか理由を

考えたことはありますか?

 

それって実は、自分に関心があるから・・・つまり、

自分が「好き」だから見たくないんですね。

 

他を思いやる気持ちと自己愛が葛藤したとき、

たいてい自己愛の方が勝ってしまうのと同じで、

ひとは自分のことが好きだから、

自分に対する過去の自分のイメージや

幻想の方を優先し温存させたいが故に、

リアルな自分の現実を知りたくない、

見たくないっていうふうにおもうわけです。

 

でも、いずれにしても

「いま、ここ」に生きていないわけで、

目を反らし葛藤していることで、

じつは無駄にエネルギーを使ってしまっているんです。

 

お釈迦さまは、

「他を拠り所とせず、

自らを灯火として生きなさい(自灯明)。

自分の身体、感受、心、

まわりの事象を観察すること(四念処)。

自らの好みに耽らずに極まりなさい」

と言って亡くなりました。

 

好き嫌いというところからなかなか離れられず

事実を直視できないのは、

「まずいところがあっても、きっといつか

誰かが何とかしてくれるさ」という

稚心がどこかに隠れているからなのでしょう。

 

それに、そもそもエネルギー自体が

不足している人にとっては、

葛藤することすら叶いません。

 

つまり、葛藤できるのは、

葛藤できるだけのエネルギーが自分の中に

余っているからとも言えるのです。

これは実にもったいない話で、

葛藤して浪費してしまうぐらいエネルギーが余っているなら、

それを別のことに使う方が得策だとおもいませんか?

 

易の基本的な考え方の中でも、陰と陽の対峙関係は

最も大切なキーワードだと言われています。

対峙とは対待、相対し相待つことで、

互いに対立しているように見えてそのじつ

互いに相手に寄りかかって依存しているわけです。

 

つまり、もうひとつ視野を拡げれば、

対立関係が維持されることで、

結果的に両者が共存することを

指向していることも見えてきます。

 

離(火)は炎上し、兌(沢)は下降するので

反目する面も持ちつつ、兌(沢)には「悦び従う」、

離(火)には「明に麗(つ)く」という徳があり、

「乖(そむ)きながらも、底流では繋がっている」

というわけです。

 

よって、天地万物は一面で背いていても、

別の一面では和合しようとしているとも言えるから、

多少の反撥は大目にみて、

過度に深刻に考えたり、

ことさらに煽り立てたりしないことが肝要・・・

よって、「小事には吉」となるわけなんですね。

 

易経は、英訳名は〝The book of Changes〟

つまり、その名の通り「変化の書」となるわけですが、

一貫して「陰」と「陽」という

2つの概念の組み合わせとその変化のみで

この世の事象すべてを解き明かそうとしています。

 

そのシンプルさが何と言ってもすごいところで、

それが4000年以上前の古代から今日まで

生き残っている所以でしょう。

【お知らせ】

寺子屋塾ではこの易を学ぶ講座を

近々に開講します。

詳しいことを知りたい方は直接井上までご連絡ください。

当店でご利用いただける電子決済のご案内

下記よりお選びいただけます。