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井上さんのルーツと〝教えない教育〟に出会うまで(「きぼう新聞」インタビュー・第2回)

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井上さんのルーツと〝教えない教育〟に出会うまで(「きぼう新聞」インタビュー・第2回)

井上さんのルーツと〝教えない教育〟に出会うまで(「きぼう新聞」インタビュー・第2回)

2021/09/26

昨日からこの寺子屋blogでは、2017年に「きぼう新聞」に6回にわたって連載された、わたし井上へのロングインタビュー記事をご紹介しているんですが、今日はその2回目となりました。
 

この記事を初めてアクセス下さった方は、前回の記事をぜひご覧いただいた上で本日分をお読み下さい。インタビュアーは安永太地くんです。
 

第1回「算数プリントで人生をデザインする塾・・・?」
 
 

(記事、ここから)

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教えない教育、算数プリント、セルフデザイン ...と前回の中にも聞きたいことが山ほどあるんですが、まず、それらに出会うまでの井上さんにつ いて聞いてみますね。 

 

mmmmmmmmmmmmmmmmmmm

 

井上:わたしのルーツをお話しすると、父方の祖父は歌舞伎役者で、祖母は学校の先生をしていました。親父は子役で初舞台を踏んだことがあっ たそうです。そんな親父は地方公務員でしたが、昭和6年生まれという世代の人間にしては珍しく、職場でバンドを組んでアコーディオンやギターを仲間と一緒に演奏するような人でした。だから、子どもの頃から音楽っていうのがわりと当たり前に身近にあった。だから、自然と音楽が好きになって、音楽家になりたいと思ったけど、音楽の勉強を始めたのが高校1年生だったので、さすがにそこからプロを目指すのは難しかった。でも、音楽家は無理でもピアノの調律や修理の仕事ならばできるんじゃないかと、ピアノのエンジニアを目指す専門学校の夜間部に入り、昼間は楽器店でアルバイトをして過ごしました。そんなふうに20代前半は音楽に関わる場所で飯が食えたらなぁと思ってたんですが、高校時代にかかった病気がネックとなり、音楽の道は結局3年で諦めました。

 

安永:その後は? 

 

井上:そこから180度方向転換してコンピュータの世界に入り、全くゼロからのスタートでした。音楽の繋がりで、ピアノ調律専門学校の同級生の紹介から、コンピュータの会社をやっていた方と知り合って、とりあえずは何でもやってみようという感覚でした。80年代前半は、小型のコンピュータが家庭や会社に入り始めた頃で、プログラマーの仕事を3年ほどやって、当時目標に置いていた国家資格の第1種情報処理技術者も合格できたんですが、この仕事を自分の一生の仕事にしたいとは思えなかった。仕事をしていた会社の社長が病気になったため、自分の意志ではなく離職せざるをえなくなってしまったんですが。それが25歳のときです。 
そんな感じでフラフラしていると、また専門学校時代の同級生から「いま進学塾にいるんだけど、急にやめる人が出たのでちょっと手伝ってくれないか」と連絡があり、本当に自分でも腰掛のつもりだったんですけど、そんなきっかけで、小中学生対象の進学塾で専任講師の仕事に就いたんです。それまでの5年で5回も転職していて、同じ職場が1年以上続いたためしがなかったんだけど、進学塾で専任講師の仕事は何と7年も続いてしまったんですね(笑)。 

 

安永:ところで、井上さんは勉強できたんですか?

 

井上:できましたね(笑)。小学校のときはだいたいクラスでトップでした。中学のときは13クラスあって結構人数が多かったんですが、だいたい学年で10番以内には入っていました。 

 

安永:勉強が好きだったんですか?

 

井上:ぜ〜んぜん(笑)。 

 

安永:親からやらされていたとか?

 

井上:ぜ〜んぜん(笑)。親から「勉強しろ!」って一度も言われたことがありません。小学校のときは、家の机に座って教科書を拡げた記憶がほとんどないし、中学生になってからも、テスト中だというのにゲーセンに入り浸って遊んでばかりいたけど、それでも成績はそこそこ良かったからか、親から叱られたことはなかった。音楽のこともピアノもITでも何でもそうなんですが、だいたい独学で身につけているんです。

 

安永: 独学ってどうやって生まれたんですか?

 

井上:それがよく分からないんですよ。ただ、親は本当に干渉しないというか放任主義というか、ほったらかしでした(笑)。ただ、あくまでわたしの仮説なので本当かどうかわからないんですけど、歌舞伎役者の祖父の血をひいているからかなぁって。なぜなら、そもそも芸事ってのは、人から盗むことはあっても、人に教えてもらうものじゃないんですよ。ただひたすら自分でやるしかないって世界。その血を受け継いでいるんじゃないかって。ピアノも自分で練習するしかないし、どんなに素晴らしい先生のところに習いに行っても、自分で弾かなきゃうまくならないんですよ。 

 

安永:そういう姿勢が井上さんの祖父の時代から、大前提としてあったかもしれないですね。 

 

井上:勉強はそもそも嫌いだったし、コツコツやるのは得意ではなかったけれど、自分でやるというのは当たり前だったんです。だから、人と比較したりとか、あまり考えなかったですね。 

 

安永:人から教えてもらうのではなく、独学で学んだ井上さんが教える進学塾で仕事することについて、ギャップみたいなものはありましたか? 

 

井上:だから、進学塾の仕事はホントに腰掛のつもりだったんです。でも、大学へ行っていなくて、教育についても専門的に勉強したわけではないから、人に教えることはすごく大変で難しいことだと感じました。最初の頃は、子どもたちから「あの先生、なに言ってるのかわからん!」という苦情が出たりして、塾長からもよく叱られていました。でも仕事として面白かったし、まあ3年は続けてみようと。そして3年経った頃には、子どもたちからの苦情も聞かれなくなり、自分でも教えることに自信が持てるようになっていって、塾長から「新しく教室を出すから教室長をやらんか?」と言われ、その教室長をやることに。そして、3年やって「そろそろかなぁ」って感じですよね。 

 

安永:「そろそろかなぁ」っていう感じで仕事を辞めちゃうんですね(笑)。 

 

井上:楽器店の時にもITの時にも自分にはここじゃない別のところがあるんじゃないか、自分は別の場所に行くべきじゃないかという考えが頭の どこかにあって。そういうところはたぶんわたしが頑固だからなんでしょうね。まわりのことよりも、自分の考えの方を貫いてしまう。でも、進学塾での7年目には、次のステージが見えてきていたんです。 

 

安永 : 次のステージというのは?

 

井上:教育の仕事に就いてみて、そのことの大切さや意義には触れていたし、やりがいある仕事だと感じてはいたけど、自分が子どもの時に進学塾というものに行ったことがない人間だったし、進学塾は自分のやりたいことじゃないなぁと思っていて。でも、それは進学塾の存在自体に対する疑問ではなく、そこが自分の本来の力を発揮できる場所じゃないなと。進学塾がいまの社会の中で必要な機能を果たしていることは分かったんです。でも、ここで一生やっていこうとは思えなかった。自分には自分に相応しいもっと別のやり方があって、それを教育の世界で果たせるんじゃないかなって思った。とはいえ、明確な教育理念のようなものが自分の中にあったわけではないし、具体的にどうすればいいっていうのは全くなかった。ただ漠然と「ここじゃないなぁ...」という感覚だったんです。で、その時に自分がヒントにしたのは、「生活次元」ということ。高校時代に病気したことをきっかけに、食べ物と身体のつながりや病気と健康というテーマについて独自に研究してたので、もしかしたら、「日常の生活」っていうところに、わたしなりの教育スタイルを見つけるカギがあるんじゃないかというところまでは突き止めていた。 

 

安永:自分を活かせる働き方が他にあるってことですか?

 

井上:自分の個性を活かせる働き方というか、自分の興味関心もそうだし、自分が本当に100%このために生きてるって思えて、それを実感できる場があるんじゃないかって。それで、進学塾を辞めて単身上京し、東京にある日本CI協会(マクロビオティック、自然食の普及団体)で2年弱過ごす中で平井雷太さん(らくだメソッド開発者)や清水義晴さん(未来デザイン開発者)と出会った。 

 

安永:何か分からないけど、自分が求めているものを求め続けた。興味関心に心を寄せて行動した先に、求めるような方々がいた、と。

 

井上:そうですね。そして、出会った人たちに共通している姿勢が「教えない」ということだったんです。 

 

mmmmmmmmmmmmmmmmmmm

 

...と、ここまでが井上さんの人生前半で、ここからが本題の「教えない教育とは?」になります。次号を乞うご期待!《第3回へ続く》

 

※2017年8月10日発行「きぼう新聞」第71号より一部加筆修正し転載より

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