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教えない教育とその真意(「きぼう新聞」インタビュー・第6回)

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教えない教育とその真意(「きぼう新聞」インタビュー・第6回)

教えない教育とその真意(「きぼう新聞」インタビュー・第6回)

2021/09/30

 

9/25からこの寺子屋blogでは、2017年に「きぼう新聞」に6回にわたって連載された、わたし井上へのロングインタビュー記事をご紹介しているんですが、今日はいよいよ最終回(第6回)になります。インタビュアーは安永太地くんです。

 

【これまでの記事一覧】


第1回「算数プリントで人生をデザインする塾・・・?」

 

第2回「井上さんのルーツと〝教えない教育〟に出会うまで」

第3回「教えない教育とは?」

 

第4回「たんたんと、ていねいに、こつこつと。」

第5回「30年積み上げて新たに気づいたこと」

 

(記事、ここから)

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前回の話は時間軸と空間軸の関わり、現在という時間の捉え方など初見の方には非常に難しかったと思います。インタビュアーの僕ですら何回も何回も読み直しました(笑)。 

さて最終章に入るのですが、前回の記事(30年積み上げて新たに気づいたこと)の対話の続きから始まるので、今号を読まれる前に前回の記事をもう一度読み直されることをお勧めします。最終話は、らくだメソッドの根幹、いや、井上淳之典さんの生き様に迫っていくことになります。 

 

mmmmmmmmmmmmmmmmmmm

安永:今の話、今の気づきは、らくだメソッドとはどう関係があるんですか?

 

井上:そうですね。吉本隆明さんの考えを知って、他の教材にないらくだメソッドの特質について心底腑に落ちたところがあって...それは平井さんがこの教材をご長男、つまり生身の人間を相手に、実地で実験しながら作られたっていうエピソードが、実は一番の核心なんだと。 

わたしも進学塾の時代からずっと教材研究をしてきていろんな教材を見てきたんですが、こんな教材はホントにレアで、ほとんどないんです。吉本さんは、対人関係を「共同幻想(集団との関係)」「対幻想(目の前の人との関係)」「個人幻想(自分自身との関係)」というふうに3つの次元で整理されたんですが、誰もが例外なく母親から生まれるということから、3つのうちでは「対幻想 (ペアの関係)」 が一番最初にあって、対人関係すべての根源だと書かれているんですね。「個人幻想」 でも「共同幻想」でもなく、親子二者間の「対幻想」という、対人関係の根源となるような私的な係わりから生まれたことが重要なんだと。 

 

安永:なるほど!対人関係の問題は、煎じつめれば「対幻想」の問題に帰結していくというお話はわかりますし、らくだは平井さんと息子さん親子の対幻想の中で生まれたものなのでしょうが、それって結局どういうことなんでしょうか?

 

井上:らくだメソッドを扱えるっていうのは、目の前の一人ひとりを見るってことなんだと気づいた。この関係がコアにあるので、個人的な能力の開発よりも、どう関わるかを土台に考えないとこの教材を扱えないわけです。目の前の学習者の声をちゃんと聞いて臨機応変に対応する。その子その人が潜在的にやりたい、こうありたいなぁと思えることをスッと提案できるかどうか。どういう方向に伸びようとしているのかが分からないとそんな提案はできませんから、インタビューが決定的に重要になってくる。でも、それって指導者と学習者という関わりだけでなく、人間関係全般というか、普遍的に言えることですよね?夫婦間の問題とか親子間の問題とかもたぶん同じ。 

 

安永:らくだメソッドは「計算力」とか「読み書き」どうこうだけでなく、「人とどう関わるか」を価値としているってことですか?

 

井上:それも1つだということですね。「あの人の関わり方ってなんかいいなぁ」って思えることが1つの価値。それをシステムにしているのがたぶんこのらくだメソッドで、そのことが腑に落ちたんです。そして、こういうことって実は子どもたちだけの課題ではなく、むしろ大人の方が顕著な課題ですよね。 

 

安永:そうか...だから大人の方もこの教室には集まってくるんですね。ただ、ちょっと頭がいっぱいでクラクラしてきました(笑)。 

 

井上:そりゃそうです。わたしも教育の仕事を始めてから30年以上になるんですが、気が遠くなるほどの長い時間をかけて解明してきたことなので、もしこの話が一瞬でスッとわかったら、そりゃ大変ですよ(笑)。 

 

安永:こんなところまで腑に落とせて、よくこんな塾が出来ましたね(笑)。

 

井上:わたしが言うと手前味噌になってしまいますが、わたしだからできたところはあるかもしれません。 

吉本隆明さんという人は、もともと化学がご専門で、物書きとしての人生の大半を独学で積み上げられているんです。大学教授とか公職には一切就かず、「心とは何か?」「言葉とは何か?」「宗教とは何か?」 「国家とは何か?」という、ふつう一生かかっても答が出せないような難しい問いへの回答を、まったくの0からひとりで素手で組み立ててきた人だから、表現はとっつきにくいし、いわゆるアカデミックな世界に染まった人たちには、何が言いたいのかよくわからないところがあるように思うんです。

でも、わたしには教育の仕事やピアノ、IT、ファシリテーションなど、いろいろなことを「独学」で積み上げてきたプロセスがあるから、こうして出会えたんじゃないかと。吉本さんは詩歌などの文学、わたしは音楽というジャンルの違いはありますが、理系人間でありながらアート志向だったことなど、ふりかえってみると、吉本さんという人に出会えるまでの伏線がたくさんある。そうした接点が全部積み重なって今がある。 

 

安永:だから、寺子屋塾はここにしかないし、井上さんにしかできない。そんなどこにでもない場所になるんですね。

 

井上:そう。でも、だからね、「どこにでもない場所」というのは、そのままで「どこにでもある場所」になる。わたしは自分が高校生の時に1か月以上も学校を休まなければいけないような厄介な病気をしたり、仕事をいろいろ転々としたり、人生は何のためにあるのか悶々としたり、自分は何がやりたいのかわからず行き詰まったり挫折したりって、苦しいこともイッパイ経験してきたんですが、そういうプロセスはだれにでも起こり得ることだし、それは全部OKなんだよ!ってことです。たぶん全部わたしに必要なことだったんです。 

mmmmmmmmmmmmmmmmmmm

この連載の第3章で「教えたいことがない人には“教えない教育”はできない。」と仰有っていた。 

井上さんが教えたいこと、それは「どんな経験も失敗も全部OKなんだよ、それが全部必要なことだよ。」です。確かにそれを言葉で直に教えられても、教わる側は素直に受け取れないだろうし、その意味の深さや重みも感じられないような気がする。だから、教えないんだと思います。 

だからこそ、教わる側が受け取る状況が整って問いを投げかけた時、ようやく教えたいことがその真意のままで教えられるし伝えられる。本当に教えたい大事なことだから、こういう教え方になるんだなぁって改めて思いました。 

 

【特派員後記】

読者の皆様、最後まで読んで頂きありがとうございます。 

さて、「算数プリントで人生をデザインする塾」 の意味がお分かりになったでしょうか?それとなく、全容は見えたのかなぁと思います。僕は通塾しながら問いが生まれたり、「できない」にぶち当たることが多々あります。でも、なんだろう、焦らずに1つ1つ自分のペースでその問いや「できない」に向き合えばいいよ、とそんなことを肌で感じたような気がします。これらの記事で問いが生まれた方は是非、じかに寺子屋塾を訪ねてみて下さい。教室といっても授業をしていないので、 突然の来客もウェルカムだそうですよ♪ 
 

<完>

※2017年10月10日発行「きぼう新聞」第75号より一部加筆修正し転載

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