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吉本隆明さんによる3つの幻想領域について

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吉本隆明さんによる3つの幻想領域について

吉本隆明さんによる3つの幻想領域について

2022/01/25

為末大さんの2022.1.20付けblog記事

「自己責任論と社会責任論」をめぐって

4回にわたって書いてきました。

 

年末からこのblogに書いてきた記事をずっと

読んで下さっている方なら

きっと気付かれたんじゃないかと

おもうんですが・・・

 

昨年11月半ばにこのblogに

4回に分けて書いた記事

ガッキーと源さんの結婚を予感していたわけ」の

続きを、年末年始の休み中に書き始めていて、

為末さんが2022.1.20に書かれたblog記事

「自己責任論と社会責任論」に

4回にわたって言及してきたのは、

その内容が結局、

 

TVドラマ『逃げ恥』を

吉本隆明さんの『共同幻想論』で

リフレーミングしながら観る

 

というのが具体的にどういうことなのかを

書きたかったからなんです。(^^;)

 

というのは、為末さんが書かれた
「個人か?社会か?」というテーマは、

古くから西洋哲学がテーマとしてきている

「個と全体」にダイレクトにつながっていて、

人間の関係意識を

「個人幻想(自己幻想)」「対幻想」「共同幻想」

という3つに分けて捉えるというのは、

西洋哲学で永く普遍的なテーマとされてきている

「個と全体」というテーマに対する

吉本さんとしてのアプローチだったんですね。

 

この、西洋哲学における

「個と全体」というテーマとは、

具体的にどういうことかというと、

宇田亮一さんの

『吉本隆明「心的現象論」の読み方』より

以下、ご紹介します。

 

人間の個体は必ず死に絶えるのに、

人類全体の生命は、まるで

永続するかのようにみえるのはなぜか。

個々の人間が持つ時間(生誕から死まで)は、

せいぜい100年足らずであるのに、

人類全体が持つ時間は、

それをはるかに超えて続いていく。

全体とは何なのか。

 

個が持つ時間を「人生」とよび、

全体が持つ時間を「歴史」とよぶとすれば、

「歴史」には意味があるのか。

 

「歴史」は個々の人間の存在が

前提であるにもかかわらず、

単なる個々の人間の総和ではなく、

個々の総和以上の

客観的な摂理と意味を持っているようにみえるが、

それは本当なのか。

 

本当だとすれば、それはなぜなのか。

 

吉本さんの『心的現象論・本論』の

了解論、了解の水準、了解の空間化、了解の様式には、

ヘーゲル、ニーチェ、マルクスから

フッサール、サルトル、メルロ=ポンティなどの

数多くの哲学者がこのような問いと

どのように向き合ってきたかが

詳しく書かれているんですが、

結局、吉本さんは

「個と全体」の内容そのものではなく、

「個」と「全体」の関係の仕方

に着目されるわけです。

 

この〝関係の仕方〟とは、どういうことかと言うと、

 

「社会」とは、

個の総和ではなく、

ある種の普遍性を抜き出した

〝概念〟にすぎない

 

という立場に立つということで、

そのことを吉本さんは〝幻想〟と呼んだわけです。

 

ただ、「幻想」という言葉を使ったときには、

「根も葉もないウソ」とか「存在しない虚構世界」

「夢、まぼろし」という意味を

含んでしまうことがあるので、

ちょっと注意しなければいけません。

 

なぜなら、ここで言う「幻想」とは、

人間の思考が生み出す「観念」のことを

指して言っているからです。

 

でも、「観念」と言ってしまうと、

「現実世界を、現実通りに受け取る」という

意味合いに受け止められてしまうことがあり、

「観念」と「幻想」には

微妙なニュアンスの違いがあるのです。

 

つまり人間は、

現実世界をありのままに受け取ってはいなくて、

現実を自ら意味づけ、あるいは、

自他問わず、誰かによって意味づけられた

世界を生きているわけですから、

敢えて吉本さんが

「個人観念」「対観念」「共同観念」と言わず、

「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」という風に

「幻想」という言葉を用いて表現した意図を

汲み取って頂きたいのですが。

 

たとえば、Aさんという人がいたとして、

そのAさん一人とか、少人数の集まりであれば

ダイレクトに話すことはできますが、

日本国民全体とダイレクトに話したり、

関わったりするということはできません。

 

つまり、「日本社会」とか「国民全体」というのは、

結局、人間の概念的な次元の産物であって、

個人とは次元が異なるものだというわけです。

 

それで、そうした人間の関係意識を

「個人幻想(自己幻想)」「対幻想」「共同幻想」

という3つの幻想領域として捉えるという考え方が

生まれたんですが、

正直、この話はあまりピンと来ないとおもいます。

 

以下も

宇田亮一さんの

『吉本隆明「心的現象論」の読み方』からの引用です。

 

たとえば、今、仕事帰りのOL が

「うーん、お腹がすいた。ラーメンが食べたい」

と思う時、彼女の心の中には

「個人幻想」が前景に押し出され、

「対幻想」や「共同幻想」は後景に退いている。

 

今、若い父親が自分の赤ちゃんをあやし、

赤ちゃんがニコっと微笑み返す時、

あまりの可愛らしさに

「目に入れても痛くない」と思う。

この時の親子の一体感において、

彼の心の中には「対幻想」が前景に押し出されて、

「個人幻想」や「共同幻想」は後景に退いている。

 

今、野球場でひいきのチームが9回裏に

劇的な逆転勝利をおさめた。

あまりの嬉しさにファンが一斉に立ち上がり、

見知らぬ隣の人と肩を組み、

応援歌を大声で歌った。この時の一体感、

高揚感、開放感が「共同幻想」である。

ファンの心の中は

「共同幻想」が前景に押し出されて、

「個人幻想」や「対幻想」は

後景に退いているということができる。


以上、3つの場面は、たった1人の“ヒトの心"で、

すべて起こりうることである。

 

“ヒトの心”の前景が、場面場面で入れ替わる。

ある時は「個人幻想」だったり、

ある時は「対幻想」だったり、

ある時は「共同幻想」だったりする。

 

しかし、私たちは、

今、心の前景が「個人幻想」なのか、

「対幻想」なのか、「共同幻想」なのか、

といったふうに意識しながら

生きているわけではない。

 

だから、“3つの対人関係” というとらえ方には

実感が伴わない。
 

宇田さんは、カメレオンの肌の色や

運転者が気付かないうちにチェンジしている

オートマ車のクラッチにたとえて、

わたしたちは無自覚のうちに

この3つの幻想領域をギアチェンジしながら

生活していると説明されています。

 

今日はここまで。

 

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