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唐棣之華、偏其反而、豈不爾思、室是遠而(「論語499章1日1章読解」より)

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唐棣之華、偏其反而、豈不爾思、室是遠而(「論語499章1日1章読解」より)

唐棣之華、偏其反而、豈不爾思、室是遠而(「論語499章1日1章読解」より)

2022/04/10

今日は最高気温が24.7℃まで上がり、

初夏をおもわせる良い天気だったので、

夕方伊坂ダムまでウォーキングに行ってきました。

 

写真の花はそのときに撮影したものです。

 

日曜は古典研究カテゴリーの記事として、

易経、論語、仏典などについて書いているんですが、

伊坂ダムに咲いている桜を観ていて、

論語に、ニワザクラの花に触れた章があるのを

おもいだしたので、

その話を紹介しようとおもいます。

 

論語を499章とするのは、

新注(宋の朱子が『論語集注』が代表的なもの)

によるもので、古注(漢、唐の時代の注釈)では

子罕・第九にある通し番号234と235は、

連続したものとして読まれていました。

 

他の章は新注に従って読んだんですが、

この2章だけは古注に従って続けて読み

孔子の心情について考えています。

 

白文→訓読文→カナ付き訓読文→ひらがな素読文まで

別々に、口語訳文以下を一緒に記しています。

 

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[要旨(大意)](234・235通し)
人は、同じ学問を積み志を一にしても、別の道を歩み別々に死にゆくものだ。しかし、本気になりさえすれば、人と人とを結びつけ、新たなモノが生まれるような場をつくることは可能だ。


【子罕・第九】234-9-29
[白文]
子曰、可與共學、未可與適道、可與適道、未可與立、可與立、未可與權。
 
[訓読文]
子曰ク、與ニ共ニ學ブ可キモ、未ダ與ニ道ヲ適ク可カラズ、與ニ道ヲ適ク可キモ、未ダ與ニ立ツ可カラズ、與ニ立ツ可キモ、未ダ與ニ權ル可カラズ。
 
[カナ付き訓読文]
子(し)曰(いわ)ク、与(とも)ニ共(とも)ニ学(まな)ブ可(べ)キモ、未(いま)ダ与(とも)ニ道(みち)ヲ適(ゆ)ク可(べ)カラズ、与(とも)ニ道(みち)ヲ適(ゆ)ク可(べ)キモ、未(いま)ダ与(とも)ニ立(た)ツ可(べ)カラズ、与(とも)ニ立(た)ツ可(べ)キモ、未(いま)ダ与(とも)ニ権(はか)ル可(べ)カラズ。
 
[ひらがな素読文]
しいわく、ともにともにまなぶべきも、いまだともにみちをゆくべからず、ともにみちにゆくべきも、いまだともにたつべからず、ともにたつべきも、いまだともにはかるべからず。
 
【子罕・第九】235-9-30
[白文]
唐棣之華、偏其反而、豈不爾思、室是遠而、子曰、未之思也、夫何遠之有哉。
 
[訓読文]
唐棣ノ華、偏トシテ其レ反ス、豈爾ヲ思ハザランヤ、室是レ遠ケレバナリ、子曰ク、未ダ之ヲ思ハザルナリ、夫レ何ノ遠キカ之レ有ラン。
 
[カナ付き訓読文]
唐棣(とうてい)ノ華(はな)、偏(へん)トシテ其(そ)レ反(はん)ス、豈(あに)爾(なんじ)ヲ思(おも)ハザランヤ、室(しつ)是(こ)レ遠(とお)ケレバナリ、子(し)曰(いわ)ク、未(ま)ダ之(これ)ヲ思(おも)ハザルナリ、夫(そ)レ何(なん)ノ遠(とお)キカ之(こ)レ有(あ)ラン。
 
[ひらがな素読文]
とうていのはな、へんとしてそれはんす、あになんじをおもわざらんや、しつこれとおければなり、しいわく、いまだこれをおもわざるなり、それなんのとおきかこれあらん。
 
[井上の口語訳文](234・235通し)
先生(孔子)が言われた。「一緒に同じ学問をすることはできたとしても、一緒に同じ道を行くことができるとは限らない。一緒に同じ道を行くことができたとしても、一緒に同じ仕事ができるとは限らない。一緒に同じ仕事ができたとしても、同じ志をもって共に人生を歩めるとは限らない。」
昔の詩に「庭桜の花が ひらひらと舞っている 君のことが恋しいけれど なにぶん家が少し遠いのだ。」とある。先生は言われた。「この男は本気で恋しいとは思っていないのだ。もし本気だったなら、距離など何の問題にもならない。」
 
[井上のコメント]
前半の「権」は、はかりの分銅のことで、ここでは「物事の軽重を判断し、臨機応変に対処する」の意。よって「與(とも)に権(はか)る」を、「互いに補い合える関係をつくる」と解して、「未可與權」を「同じ志をもって共に人生を歩めるとは限らない」と意訳してみました。
また、後半に登場する詩は、今ある『詩経』に見当たらず断片しかのこっていない「逸詩」と呼ばれるものです。部分的に引用された逸詩は、詩全体の姿が不明なために解釈も難しいのですが、唐棣はニワザクラ(ニワウメともスモモともいう)のことで、ふつうの花とは逆に、咲いたあとに花びらが合わさって蕾のようになることから、古注では、権道、つまり常道には反するけれど臨機応変な対処により、正義に適った結果をもたらすことのたとえとしてこの逸詩を引いたのではないかと注釈されているようです。


九去堂はこちらのページに、孔子が亡くなった日と伝えられている3/9がちょうどニワザクラの咲く時期であることから、この詩は孔子辞世の句とし、『詩経』に入っている道理がないと断じているんですが、前半の言葉は、子路や顔回に先立たれ、自分の妻や息子にも先立たれ、そして死にゆく自分の姿に絶望した嘆きの言葉と解することには何ら不自然さはないので、この説もさもありなんとおもわせる説得力があります。
この2つの章は別々のものとして解釈することもできますが、ひとまとまりとして捉えることで、孔子が繰り返し語っている「仁」への理解が深まるように感じました。仁という漢字は、人偏に漢数字の二と書きますから、小倉紀蔵『新しい論語』に「仁とは〝あいだのいのち〟である」と記されているとおり、二人の人の間に新たないのちが偶発的に立ち現れることだからです。上古代語カタカムナの世界で言われる「フトマニ(対向発生)」や、吉本隆明さんの言われる「対幻想」は、おそらくいずれも「仁」につながっていて、対向発生、対幻想の場づくり実践というのが、教育に関わる者の重要な役割であるようにおもいました。
  
[参考]
「学ブ」とは、人間が君子になる道(孔子は「古の道」といい、カタカムナでは「マノスベシ」)を、人から教えられて、それを受け入れ、共振を起こすことである。「習フ」とは、教えられたヒビキを、その時、その時に、自分の判断行為として出して実習することである。(「学」と「習」)
それが出来て来た時、人間は心からの「説(よろこび)」を感じ、教えてくれた人と、心から親和することが出来る。「朋」とは、そのような同じ志をもって。共に学ぶ者である。
酒をのむ友、幼なじみの友などが、遠方より来てくれても、『楽しからずや』といってもよいが、孔子のいう「よろこび」の意味は、その程度の軽いものではない。
なぜなら孔子は、学んで、学んで、学んで、教えてもらった人と同じ波動量まで自己を鍛錬向上し、共振波動をもち得て、心からの生命のよろこびを知ったのである。それ故、稀に、同じ志をもつ朋があって、(顔回のような人と、)会って話すことができれば、そのよろこびはいよいよ大きく、心からうちとけた楽しさとなる。
ひとたびそうなれば、もう、多数者から正しく理解されなくても、人が自分を何と言おうが、何もいきどおることは無い。「人知らずして慍(いきどお)らず」という言葉も、決して悲壮感で力んでいうのではない。静かな述懐である。
本当に何もかも打ちあけて打ちとけられる人間関係は、互いに同じ共振波動をもたなければあり得ない。そしてそれこそ、孔子のいう通り、ヒトのミチを「学ぶ」者の、最高の幸せ、最高の人間関係、まことに「楽しからずや」である。
人は、一人では、生きられない。(奇しくも、最高の「仁」は、「フトマニの二人」を意味する。)そのような人間関係(対向発生)から、ホントウの善い「美」が発生する。そのような人間関係をもつことこそ、人ノ道(マノスベ)を学ぶ者の、最高の生き甲斐である。そういう「人間」になる為に、私共は学び、習うのである。


※宇野多美恵・相似象会誌第11号別冊『感受性について 補遺3』P.113~114より
 

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