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庄司薫『バクの飼い主めざして』のこと

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庄司薫『バクの飼い主めざして』のこと

庄司薫『バクの飼い主めざして』のこと

2022/07/22

金曜は読書関連の話題を投稿しています。

 

昨日7/21の記事では現状把握の大切さや、

情報リテラシーの基本として、

「事実と意見を分ける」という話を書いたんですが、

その関連で紹介しておきたい本をおもいだしたので

今日はその話を。

 

ところで、薬師丸ひろ子さんの誕生日6/9に書いた

17才の私はずっとそこにいる という記事に

次のような話を書きました。

 

音楽家の坂本龍一さんが、5年ほど前に書かれた

WIERDのインタビュー記事で、

60才を過ぎても18才の頃に考えたことと

同じようなことをやっているというか、

若い頃に考えたことが、その後の人生の方向を

決定づけているということを話されていました。

 

わたし自身のことをふりかえってみても、

高校2年生のときに大きな病気をして

ちょうど17才ぐらいの頃に考えていたことが、

その後の人生の大事な核となっています。

 

学校を長期休まなければいけないような病気になって、

寝ている時間が長くなると、

出来ることが音楽を聴くことと、

本を読むことぐらいしかありませんから、

わたしが本好きになったのは、

自らそう望んだことというよりは、

そうならざるを得なかったと言った方が近いでしょう。

 

それで、その頃に嵌まってた作家の一人が、

『赤頭巾ちゃん気をつけて』で芥川賞を受賞した

庄司薫さんだったんですが、

一時期は彼の書いたエッセイ集

『バクの飼い主めざして』

『狼なんか怖くない』を毎日のように持ち歩いて

バイブルのように読んでいました。

 

それで、この『バクの飼い主めざして』の中味を

最も象徴しているとおもわれる

「時代の児」の運命 という文章を

まるごとご紹介しようとおもうんですが、

それでも、その当時の自分がその書かれている内容を

どこまで正確に理解できていたかというと

正直自信はありません。

 

いま読みなおしてみても、書かれている内容については

古さをまったく感じないのですが、

50年以上も前に

庄司さんがこのような内容の話を書かれていることに

強い衝撃と驚きを感じています。

 

この頃から、「これからの人生においては、

情報というものとどう向き合っていくかが

大事になっていくんだな」ということを

自分は意識し始めていたようなんですが、

とにかく、今日のところは、

庄司さんの文章をじかに読まれて

庄司ワールドを感じてください。

 

わたしが結局のところ

庄司さんから何を学んだのかということや、

この文章内容に対しての詳細コメントは、

後日に記すつもりでいますので。

 

(引用ここから)

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「時代の児」の運命 庄司薫
ぼくは時々、ぼくたち人間の一人一人が、どの時代のどういう国に、具体的にどういう状況下で生まれるかは全くの偶然であることにしみじみと思いを馳せて、極端な運命論者になることがある。

 

科学技術がいかに飛躍的に発展し、文明の変化にいかに多様な加速度がつこうとも、どうやら人間の寿命や適応能力を含むいわば生存能力みたいなものにはそう変りはないらしい。とすれば、ぼくたちの幸不幸とは、結局のところそのいわば「時代の児」としての動かしがたい運命を、最終的に「ツイていた」と思えるかどうか、にかかってくることだろう。

 

ところで、このぼくにとっては、その「運命」としての主たる生存期間は、泣いても笑ってもこの20世紀の後半になるらしい。この時代にこの日本に生まれ育ち、とにかくいろいろな意味でこんな具合に生きていくことが、このぼくにとってほんとうに「ツイていた」ことになり得るかどうか。そして1970年代とは、とりあえず算術的意味に於ても問題の20世紀後半のどまん中に当るわけだ。

 

この価値の相対化と情報洪水とが同時進行する20世紀後半の、その中心となる70年代の特徴の一つは、その表面における、敢えて言えば「どうでもいいこと」の領域における、目まぐるしいばかりの変動にあると思われる。そして、このような変動のさ中では、たとえばすべての価値は、新しさの交代、刺激の交代という形でいわば消耗品としてとらえられることになる。

 

問題はこれが、果して「どうでもいいこと」の領域にだけとどまるかどうか、ということだ。何故なら、「何を着、何を食べるか」といった、本来人間にとって「どうでもいいこと」から人間を現実に解放するはずだった科学技術が、いまや公害という形でぼくたちを脅かすように、「どうでもいいこと」の領域における価値のアナーキーが、ぼくたちの魂まで荒廃させることがあるのだから。

 

従ってここでまず重要になるのは、とにかくすべての変化を「可逆的」なものとしてとどめるための一種の抑制力だ、とぼくは思う。本来がプラスチックであるべきプラスチック製品が、「不可逆的」なゴミとして累積し始めたのは現代の象徴的な皮肉だけれど、本来「どうでもいいこと」の領域に属すべきさまざまな変化が、ぼくたちの運命に残されたささやかな可塑性にまで不可逆的かつ決定的影響を与えることになってはたまったものではない。

 

従ってぼくたちは、来るべき世代に何を遺すかという課題についても、むしろ「何を遺すべきではないか」という形で考えることの方を重視すべきかもしれない。同じことを、すでにこの1970年代を生きる「時代の児」としてのぼくたちの問題として言いかえるなら、このぼくたちの運命を、いかなる目まぐるしい変動のさ中にあってもなお客体化して見つめる抑制力をどう鍛えるか、と言ってもいいだろう。

 

具体的に言うと、われわれはもはや、うかつに何かを作ったり何事かを為したりするべきではないのかもしれない。われわれの歴史は、これまで一種の自明の理として、何かを「つくる」こと何事かを「なす」ことを美徳としてきた。おそらくは、この世界は測りしれないほど巨大な自然に溢れていて、そのなかでは、何事にしてもわれわれの手と知的工夫の加わった人工物が増えるのは善いことだ、と考えられたせいにちがいない。

 

ところがいまや、たんに物質的な「もの」ばかりでなく、精神的・抽象的領域においても思想や行動の成果が許容量を越えて累積しようとしている。ここではもはやわれわれは、「むだ使い」 や「使い棄て」をやむをえない美徳として採用せざるを得なくなっているほどなのだ。ここから、「つくる」こととは正反対の「こわす」ことを美徳とするに至るためには、ほんの「小指で一突きくれてやる」程度のことでいいのではあるまいか。そしてぼくたちのこの時代は、こういった「小指の一突き」の破壊衝動に溢れた不安を加速度的に蓄積している、と言ってもいいのだ。

 

このような状況の中にあっては、ぼくたちに要請される抑制力は、一種の二正面作戦をとらざるを得なくなる。すなわち「つくらない」でいることに耐える抑制力と、さらにそのための欲求不満が「こわす」ことへと爆発するのを阻止するための抑制力として。

 

ぼくたちの伝統が、「つくる」ことは言うまでもなく、「こわす」ということさえ含めて、とにかく何事かを「なす」こと、とにかく行動することに意義を与える一種の先入観を持っているとすれば、「つくる」ことを抑え「こわす」衝動をも制するということは、要するに行動しないという形での行動、といった逆説的方法が常に直面するもどかしくウサンクサイ困難を抱えこむということになる。われわれにとってほとんど本能的な「つくる」喜びをあきらめ、しかも「こわす」ことによる玉砕的快感をも慎しむなどということは、そもそも「生きること」の拒否なのではあるまいか、と。

 

従ってここに言う抑制力とは、このような「抑制」する自分自身に対する、自らのそして他者からの激しい批判やウサンクサそうな目差しに耐えることをも意味するにちがいない。

 

ところで、このように困難な抑制力を鍛えるということは、ぼくには、想像力を鍛えるということとほとんど同義に思える。人間とその形づくる世界についての想像力を鍛えること、敢えて言葉を選べば、他者に関する想像力を鍛えることこそ、われわれのそれぞれの多様な思想と行動に辛うじて「可逆性」を保証するその抑制力を育てることなのではあるまいか。

 

公害といいまたハイジャックといい、さらには押しボタン戦争の可能性に至るまで、現代の科学文明の発達は、ぼくたちひとりびとりの個人に、もし「決断」さえすればその独自の行動の成果を巨大に増幅する可能性をもたらした。そしてその一方では、価値の多元化した現代においては、ぼくたちの必死の決断や信念に基く行動も、その普遍妥当性は全く保証されず、しかもその現実的な効果に至ってはまことに多様で予測困難になってしまった。つまりいまや、ぼくたちそれぞれのほんの「小指の一突き」が、いつどこで誰にどれほど巨大な「とりかえしのつかない」一撃となるかもしれない、といった根本的に不安定な状況ができあがってしまったのだ。

 

従ってここでぼくの考える想像力とは、ぼくたちが、このぼくたちそれぞれの「小指の一突き」について、その複雑多岐にわたる効果を他者の立場に立って能うる限り執拗に思いめぐらす力、とでも言いかえることができるだろう。そしてこれが、ほとんど果しない無限の努力を意味するのは残念ながら明らかだと思う。しかもここでの要点は、ちょうど公害対策と同じく、その効果に疑わしいところが少しでも予測された場合には、ぼくたちは勇気を奮ってその「小指の一突き」を抑制しなければならない、という点にあるのだ。これは、ぼくたち人間にとって、もしかすると神業とでもいうべき難事なのではあるまいか、とぼくは思う。そして、このような事情を知った上で、なおこの想像力を鍛えるという努力を続けることは、それ自体が余りにも空しい困難に思えて当然なのかもしれない、と。

 

しかし、ノアの大洪水を乗り越えた箱舟は松の木で造られたけれど、価値の相対化と同時進行する現代の巨大な情報洪水を乗り切る箱舟は、結局のところぼくたち一人びとりがその心の中に育てた他者への想像力、執拗なまでの抑制力に支えられたやさしさ、とでもいったものを素材として造る他ないのではあるまいか。そしてこの場合、そこにおける恐るべき困難とは、それこそこの20世紀後半を生きる「時代の児」としてのぼくたちの運命と考える他ないのではないか、とぼくは思っている。(月刊雑誌『中央公論』1970年12月号所収)『バクの飼い主めざして』より

 

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