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独学のすすめ(谷克彦『食と暮らしの技術』序文)その3・最終回

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独学のすすめ(谷克彦『食と暮らしの技術』序文)その3・最終回

独学のすすめ(谷克彦『食と暮らしの技術』序文)その3・最終回

2023/02/16

昨日の記事の続きで

一昨日から谷克彦さんの『食と暮らしの技術』から、

「独学のすすめ」と題された序文を

紹介しているんですが、

今日が3回目でこれが最終回となります。

 

第1回は一昨日の記事

第2回は昨日の記事にあります。

 

(引用ここから)

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ところで、試験前に友人たちが訪ねてくる理由があった。週に1回、数学演習の時間がある。 問題集の一連の問題のうち、後半を解ける人はほとんどいなかった。解ける問題は、皆んなが競って黒板の前にノートを持っていき、ただ解答を写して戻ってきた。他の学生がやれる問題がなくなってから、教授が残った問題をやれる者はいないか、と訊ねる。そのときに、私とK君の2人がほとんど出ていった。ノートを持たずに、問題集のみを持って黒板で解いた。したがって時間がかかった。もっとも、今まで見たこともない問題を、いきなり解いてくるわけでもなかった。暇の少しでもあるときに、問題を見て、どのような方針なら解けるかを推察していたからである。むずかしい問題は、問題そのものを記憶して、散歩に出かけた。竜安寺から仁和寺御室あたりの京都のきれいな景色を眺めながら、ぶらぶら歩いては思索をし、解答の方針を見つけては帰った。そして、難解なものは必ず一度、きちんと計算をしてみた。自力で解けた問題に関しては、ノートにメモを取らなかった。解けないものだけ、メモしておいた。そのような問題のみ、黒板に出て解いていたのである。

私は、毎年、夏休みの2ヵ月と春休みの2ヵ月と10日間、学校が比較的に暇な折も帰郷せず、教室と実験室をフルに利用した。木造校舎の陽のよく射しこむ大教室を使うことが多かった。大きな広い黒板は、数学の問題を解くのに最適で、紙には書き切れないほどの長い方程式には重宝した。問題を解くのに演算に相当の紙面を割くが、黒板は消しては書き消しては書き、何度でもいいから、安心である。

皆んなからは、いつ見ても私が学校に居て、何かをやっているように見えた。それでいて、成績が非常に悪いということは、想像ができなかったらしい。そのうちに私がクラスでトップだという間違った噂が出た。それはあまりありがたくなかったので、ある試験のとき、白紙の答案を見せながら提出した。いっぺんに有名になってしまった。

講義にも出ない。テキストもノートもない。こんなことだから、専門科目になればなるほど、何もわからなくなっていた。このままでいったら、とても卒業はおぼつかない。しかし、私にとっては、工夫に工夫を凝らした勉強方法であり、目いっぱいの努力でもあったので、立てた方針は変えたくなかった。

私は、卒業証書が欲しくて大学にきたわけでもない。研究者になるために、勉強をしようとやってきたのであるから、その本来の目的を大切にすべきだと思った。卒業ができなければ延長して、7回生でも8回生でもやればよい。そう思うと、気が楽になっていた。

私が、「独学」にはきっと何か大きな利点があるに違いないということに、明らかな解答を得たのは、大学の高学年になろうとしている頃であった。独学は、精神的にきびしさはあったが、大きな利点がある。学校教育のなかで勉強してきた人は、期末試験を受けて、ある程度の点数が取れれば、進級してゆける。そして、次第に高等なところまで昇ってもゆける。しかし、これでは、基礎に十分な時間をかけていないので弱い。独学者には、進級試験というものはない。やさしいところが徹底的によくわからなければ、次の段階に至ってもまったくわからず、基礎を理解したうえでなければ高等学問は無理である。独学者は、学校教育を受けた者よりも同じ過程に何倍もの年数をかけて、やっと同等になる。したがって、独学者が学校教育を受けた者に追い着いたときには、その基礎の緻密さがはるかに異なっているのだ。基礎が緻密であれば、はるかに応用がきくのは当然のことだろう。研究者の道は、創造の道である。創造には師がなく、闇のなかの手探りに似ている。独学者は、最初から手探りで進んでゆくのであるから、一つひとつ物を当ててゆくのには馴れている。もうひとついえば、発明や発見は、たくさんの知識の集積だけをもっていても仕方がなかった。ひとつの研究テーマがあれば、それに必要な知識は確実に把握しなければならないが、その研究をこなすのに関係のないものは、たとえ自分の専門科目でも不必要で、手を出すべきではない。その代わり、テーマをこなすために欠かせぬ基礎は、専門であろうとなかろうと、また得手不得手にも関係なく、きちんと確実な学習を必要とする。自然界には、専門なんてありえない。大学のカリキュラムをみれば、そのほとんどの科目が不必要で、こんな程度の高い、むずかしいものに時間をかけて勉強する根拠がわからない。大学生のうちに研究テーマをつかむ人は、きわめて少ない。だから、大学では、もっともっと基礎的なものに徹底的に時間をかけるくらいでよい。大学教育で得た知識や技術は、研究テーマが決まったならば、たいていそのほとんどが、不必要であることに気がつくはずだ。研究テーマが決まると、そのテーマをこなすに必要な知識のみを集めてゆく。そこには、専門は関係ない。つねに、自分固有の判断を交えた確実な知識が必要となるのだ。書物で読むよりは、実験でつかむことのほうが基本であり、確かなことである。不確かなものの上に、不確かなものを積み重ねてゆき、さらに推論をしてゆくと、事実から大きくはずれてしまう。そんなところからは、発明も発見も出てくるわけがない。確かなものの上に確かなものを積み重ねるのでなくては、推論もアイデアもあったものではない。実験は、理論に先行する。現代の学校教育をまともに受けてしまうと、先入観が強くなり過ぎて、創造性に乏しくなってしまう。私は、恩師からいろいろ学ぶことができた。その研究には、オリジナリティーがあった。また、そういう研究テーマにつねに専念されていた。恩師は、「現状の大学教育制度では、発明、発見の才能は伸びない。しかも、この制度悪は、社会の要求に支えられているのだ。したがって、社会が......」という。学校教育制度に、かなり大きな欠点があることは、私も知っていた。しかし、学校制度を早急に改めようとしても、今の私の研究には間に合わないことであった。他へ責任を転嫁したところで、問題は解決しないではないか。2次的、3次的原因は、外にあるかもしれないが、本質的、根本的な原因は、そのものの内にある。学校教育制度が悪ければ、どうやって自分はその弊害を逃れるかの方が大切である。社会が悪ければ、どうやって自分は、この悪い面の影響を受けないようにするかの方が大切である。それは、自分自身の問題なのである。解決策は、それを踏まえての抜本的なものであろう。私は、高校卒業以来、「自分はどうしたらよいのか?」「自分の勉強態度はどこが悪いのか?」「どこをどのように直したらよいのか?」「自分の生活姿勢のどこが悪いのか?」のくり返しであった。民間の会社と違って、大学は真理探求の場であると思っていた私も、大学にはもっと現実的な制約があって、自由な研究テーマを追求する道はほとんどないことを知った。のちになって考えてみれば、当然のことでもあった。ほんとうにオリジナリティーに富む研究をしたいのなら、あるいは真理の探求をしたいのなら、独自の道を歩んでゆくはかはないことを知ったのである。そこで高校時代の反省のうえに立って、私は、実質的、実践的なもののみ求めていった。それは、私自身のためにやってきたにすぎない。(谷克彦『食と暮らしの技術 実践健康ノート』より 序 独学のすすめ)

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(引用ここまで)

 

3回にわたって紹介してきたこの文章へのコメントは

明日の記事に投稿する予定です。

 

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