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三木成夫『内臓とこころ』

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三木成夫『内臓とこころ』

三木成夫『内臓とこころ』

2023/03/17

本の紹介記事が続きます。

 

とはいえ、書いている内容、テーマはといえば、

結局のところずっとひとつのことというか、

同じところをずっとぐるぐる

回っているような感じではあるんですが。

 

昨日投稿した記事で紹介した崎谷医師の

『グズな大脳思考 デキる内臓思考』に書かれている

 

「内臓思考」が「大脳思考」の土台である。

 

という考え方の根拠は、

いったいどこにあるのかについて補足したく、

本日の記事内容は、

『グズな大脳思考 デキる内臓思考』の巻末に

参考文献の1冊としても挙げられていた

三木成夫さんの『内臓とこころ』の紹介です。


昨日書いた記事の最後に

引用して挙げた重要箇所の抜粋に、

次の文がありました。


動物の基本構造は、

中心が食と生殖を営む植物性の「内臓系」で、

後からそれを取り囲むように感覚・運動をつかさどる

動物性の「体壁系」(脳・神経・筋肉)が

できたのです。(P.101)

 

実は、この内容は『内臓とこころ』に

書かれている話で、その内容を説明する図版は、

三木成夫さんがつくられたものなんです。

 

『グズな大脳思考 デキる内臓思考』にも

同じ図が載っているんですが、

昨日の記事には、『内臓とこころ』に掲載されている

オリジナルの方を使わせて頂きました。

 

昨日の崎谷さんの本には

「内臓系」と「体壁系」のつながり、構造や

「こころのはたらき」と「アタマのはたらき」とが

どういう関係になっているのかについて、

さらっと結論だけしか書かれていませんから、

そこをもう少し詳しく掘り下げてみようというのが、

今日の記事の主旨です。

 

たとえば、わたしたちは

「こころの病」とか「メンタルのトラブル」

という言いまわしをよく耳にします。

 

わたし自身もうつ症状で、10年以上にわたり、

長く苦しんだ経験があるんですが、

結局、病んでいるのはこころではなく、

大脳の使い方のまずさというか、

内臓と大脳のアンバランスな状態が、

その背景、原因として横たわっているんですね。

 

結局のところ、「アタマ」と「こころ」が

いったいどういう役割分担になっているのか、

「内臓系」と「体壁系」のつながり、構造を

正しく知ることが大事なんだと。

 

くわしくは昨年11/27に

次のblog記事に書きましたが、

人間の精神作用を表した〝五蘊無常無我〟

お釈迦さまはそのことに気づかれて、

五蘊観を説かれたわけです。

 

 

最後に、三木成夫『内臓とこころ』第Ⅱ章から

「こころとあたま」という中見出しのある

核心部分を引用してご紹介しますが、

この本は本当に重要なことが書かれていますし、

今では文庫になっていて入手しやすいので、

これを読んで関心を持たれた方は、

ぜひ原本を入手されて読んでみて下さい。

 

とりわけ、最後に紹介されている、

仏画の光背の中心が、アタマにあるものと

心臓にあるもの、そして両方あるものがある

という話など、本当に興味深いものです。


(引用ここから)

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こころとあたま
さて、ここで話を本題に戻さなければなりません。それは、このような「内臓系」と、私どもが「こころ」と呼んでいるもの、との関係についてであります。今日、ここで私が「内臓の復興」を、下の話まで動員して、声高く叫んでおりますのも、もとをただせば、この「こころの復活」を希念する......それだけの理由からです。 いったい「こころ」と「はらわた」とは、どんな関係にあるのか......? このために、まず〝あたま〟と〝こころ〟と呼ばれている二つの言葉につい て考えてみる必要がある。


これは、私たちのいわゆる〝精神〟を支える二本の柱ともいわれていますが、この両者は、いかにも対照的です。〝切れるあたま〟とはいうが〝切れるこころ〟とはいわない。また〝温かいこころ〟はあっても〝温かいあたま〟はない。つまり前者の「あたま」というのは、判断とか行為といった世界に君臨するのに対して、後者の「こころ」は、感応とか共鳴といった心情の世界を形成する———一言でいえば、あたまは考えるもの、そしてこころは感じるもの、ということです。


さて、ここで大切な問題が出てきます。それは、このアタマといいココロといい、これは私たちの祖先が、遠い遠い上古代の昔から、ずっと用い続けてきた日常の言葉ですが、あの大陸から漢字というものが入ってきた時、どうしてこれらに「頭」と「心」の二字が当てられたのか............という問題です。


その答えは明らかです。当時の人たちは、おそらくだれ一人として異議を唱えることなく、アタマの座を「頭脳」に、そしてココロの座を「心臓」に、それぞれ置いていたのでしょう。アタマといえば脳ミソ、ココロといえば心臓というのが、かれらにとっての肉体的な実感だったに違いない。こういう自然発生的な、そして時の重みに堪えてきた事実というものには、やはりなんといっても真実が含まれている......。


本日の話も、じつは、こうした祖先の人たちの智慧にあやかった......つまり、さきの図で説明しました「脳=体壁系」「心臓=内臓系」という図式をそのままここに持ってきて、これに加えただけのものです。結果は明らかです。〝アタマ〟が前者の体壁の世界に属したものであるとすれば、あとの〝ココロ〟は、あくまでも後者の内臓の世界に根を下ろしたもの......と、こうなるわけです。


ここで皆さん、さっきの話の〝内臓波動〟の出来事を思い出してください。あの天体の回帰と歩調を合わせて、内臓のうねりが食から性へ、また食から性へと、あの地球的な振子運動を続けているさまを............。この大宇宙と共振する小宇宙、いいかえれば内蔵された宇宙のリズムを、上古の人たちはその動物たちの「ココロ」と呼んだのでしょう。ですから宇宙のリズムは、とうぜん「天のココロ」ということになるわけです。ちなみに古代中国の人たちは、この大小宇宙の交響の波を三本の波模でで表わした。

「気」の文字ですが、これがまさに「ココロ」となるのでしょう。「気は心」の本来の意味はここにあると私は思います。


さて、このように見てまいりますと、この内臓波動のひとつの象徴として、心臓の鼓動を取り上げるのは、もうとうぜんでしょう。はらわたは、みなうねります。はじめの膀胱も胃袋も、そして子宮も............。しかし、これらの波動も、心拍の持つこの圧倒的なリズムの前にはさすがに印象が薄い。「ココロ」に「心臓」の象形文字を当てるのは、やはり私は、人情の常ではないかと思うのです。古代インドの人たちは、この大宇宙の宿された心臓を、とくに聖なるものとして、あの泥沼に浮かぶ蓮の花すなわち「蓮華 pundarika」にたとえ、これを一般の心臓 hridから厳しく分けているのです。いわゆるお題目の、これが真髄ですね......。


ここで皆さん、ひとつ大切なことを申し上げます。私がこれまで教わってきたもののなかで、やはりいちばんずっしりとくるもののひとつです。それは「思」という象形文字の意味。これはいったいなんだと思いますか?


まさに「あたま」が「こころ」の声に耳を傾けている図柄です。上の「田」は脳ミソを上から見たところ。下の「心」はもちろん心臓の象形です。


つぎの図は、さまざまの光背を示したものです。これをよくごらんになってください。光の中心が明らかに二つあることがわかる。そのひとつは心臓です。他のひとつは、脳の前頭葉を象徴する白毫の一点です。心のきずながプッツリと切れて、はてしない天上の彼方に脳のアドバルーンが上がり続けてゆく.........これが人類歴史に共通する、ひとつの図式であるといわれていますが、この問題に深入りすると際限がないので、問題提起だけにとめておきます。

 

如意輪観音像(平安時代)

 

普賢菩薩像(平安時代)

 

楊柳観音図(江戸時代)

 

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