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らくだメソッドはなぜ計算問題中心なのか?(その1)

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らくだメソッドはなぜ計算問題中心なのか?(その1)

らくだメソッドはなぜ計算問題中心なのか?(その1)

2023/03/20

昨日投稿した記事では、

いま寺子屋塾に在籍して学んでいる

板倉匡利くんが3/3に書いたblog記事 

【わかっていないからわかるためにやっている】

を紹介して、その記事に対する

わたしのコメントを書きました。

 

それで、板倉くんが3/3に書いてくれたモトの記事、

つまり、わたしが2/27に書いた次の記事

わからせようとしないことで安心感が伝わる

らくだメソッド

の終わりの方に

 

なぜらくだメソッドのような

レアな教材が生まれたのかということや、

らくだメソッドの具体的なつくりに関することは、

3月になったら、開発者である平井雷太さんの

著書に書かれている内容などもご紹介しながら

詳しく書いてみようとおもっています。

おたのしみに!

 

という約束を記したんですが、覚えてましたか?

 

それにしても、

「1月は往く、2月は逃げる、3月は去る」と

はいうのは、本当に上手く言ったものですね。

 

今日は20日ですから、

3月もはや下旬に入り、

あっという間に去って行きそうなので、そろそろ

その約束を果たさないと・・・ということで、

らくだメソッド開発者である

平井雷太さんが1997年に出された著書に

『見えない学校 教えない教育』があるんですが、

その第2章より、らくだメソッドを

生み出したプロセスや全体的な構成など、

具体的なつくりに触れている箇所をご紹介します。

 

第2章は全部で90ページ弱あり、

そのうち約半分ぐらいの分量を

紹介しようと考えているので、内容を引用するだけで

4〜5回分ぐらいの記事になりそうなんですが、

まずは、第2章「教えない教育」より、

らくだメソッドはなぜ、

計算問題中心なのかについて書かれた部分を。


(引用ここから)
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「応用問題は力がつく」という迷信
私が作った「らくだメソッド」は、教科でいうと算数・数学に国語、英語の3科目がありますが、その内容はというと、算数・数学は計算問題のみ。国語は漢字、英語は英写文しかありません。単語をそのまま覚えるように、ある日本文を読むと、そっくりそのままの英文が書けるように教材が作られています。


教室にいるとお母さん方からいろいろな質問を受けますが、その代表的な質問の一つが、「うちの子は計算はできるのですが、文章題ができなくて困っています。お宅の教材には文章題はありますか?」です。しかし、そんなお子さんの状態を見せていただくと、ほとんどの場合が「計算ができない」のです。たとえば、中学1年生でお母さんが「うちの子は計算だけはできるが、文章題はできない」と思っている状態の子が、小学5年相当の分数の加減算のまとめをやってみると、私の作った基準で目安15分のところ1時間以上かかってしまう子はザラにいます。

 

場合によっては小学1年相当のたし算のまとめのプリントであっても、中学1年生の半数近くは目安5分のところが5分台でできません。確かに、「全然できない文章題」に比べれば、計算のやり方を知っていてそこそこはできているのですから、お母さんの言うことに間違いはないのですが、ほとんどの場合が、私が考えている「スラスラ計算ができる」状態とはほど遠いのです。私の作った「らくだメソッド」には、1枚1枚のすべてのプリントにわたって目安時間が示してあり、その時間でできればそのプリントが「できた」としているのですが、段階を追いながら確実に力をつけてきている子でなければ、どのプリントをやっても目安時間で合格することはまずありません。


そこで、私が「らくだメソッド」を作るときに、プリントの中に入れる要素は中学教材までは計算だけとしたのですが、プリントの中に計算問題だけしか入れなかった理由はどうしてなのか。また、プリントの中には計算問題だけしか入れなかったにもかかわらず、「らくだメソッド」で学年以上の単元にすすんでしまうと、「文章題ができる」ようになってしまうのはどうしてなのか、その理由も書いてみたいと思います。


世間の常識は、「計算はやさしい、文章題はむずかしい」と思われているようですが、果たして本当にそうなのでしょうか? 私の考える基準で「計算ができる子」で、文章題ができない子には今までほとんど会ったことがありません。しかし、計算がスラスラできていなくても、文章題で式を立てられる子は結構います。果たして本当に文章題はむずかしいのでしょうか? 文章題を解くとき、ほとんどの場合、基本問題が例題になっていて、その例題を見ながら、機械的にそのまま数字を当てはめれば、文章題が解けるように問題が作られています。そして、応用問題には、それらの基本問題のいくつかのパターンがまぜこぜに入っているだけですから、文章題を見たときにどの基本問題のパターンであるかを見分けることができれば、どうしてそのような式を立てると答えが出るのか意味がわからなくても答えが出るようになっているのです。いったい何が「応用問題」なのかと思ってしまいます。


しかし、「応用問題」を、「例題を参考にせず、教えられずに、自分の力で解く問題」と定義すると、「らくだメソッド」は計算問題であっても、学年以上を学習するときは、すべて「応用問題」となってしまいます。というのは、「らくだメソッド」は計算問題ばかりであっても、文章題のように、例題があって、それを参考にして解くようには作られてはいないからです。教えてもらったことのない問題でも、やり方を自分で工夫しながら、わからないときは答えを見て、解き方を自分で工夫して考えて解いていくやり方をしますから、計算問題を解いていながら、自分の学年以上の単元でもできてしまうのです。つまり、「らくだメソッド」で学んで学年以上にすすむと、解いたことのない問題ばかりを解くことになりますから、教えられなくても解く体験を重ねることで、できないからやらないではなく、初めて出会う文章題にも抵抗がなくなって、文章題ができるようになってしまうのでしょう。


文章題を解くことで、「思考力が育つ」とか「考える力が育つ」 と思っている方がいるかもしれませんが、果たしてそうなのでしょうか? 文章題であっても、図形や証明問題であっても、模範解答が決まっているのですから、答えを見ないで、どうしてそのように書くとそれが模範解答になるのか、そのプロセスを理解しながら、その模範解答を書けるようになれば、そのような問題はできてしまうのです。そういう意味では計算問題を習熟していくプロセスとなんら変わりません。

 

なぜ、かけ算九九プリントにしたか
それならば計算問題だけでなく、文章題をプリントに入れてもなんら問題はないように思われるかもしれないのですが、いくつかの障害がありました。
ひとつは問題数です。B4用紙1枚のプリントに入れることができる文章題の問題数は限られていて、 計算問題のように50題から100題入るなんてことはまずありえません。B4のプリントに入る問題数が少ないということは、プリントを何度か繰り返しながら、やっているうちに次第に時間が短くなっていく実感はそれほど得ることができませんし、内容がわかっていなくても、同じプリントを何度か繰り返すうちに式や答えを覚えてしまい、スラスラできているようになっても、それはわかっているように見えているだけで、本当は何もわかっていない状態であることがわかったからです。そればかりではありません。例題を参考にして、問題を解かせると、何も考えずに答えが出てしまう場合がありますから、そうやって解いた場合には、あてずっぽうで式を立てる場合もあって、ちょっとひねった問題になると途端にわからなくなり、よく考えることもせず、「わからない」と言ってすぐ聞く、「わからない」からやらないという状態になります。


そういうタイプの生徒が時間をかければ、できるようになっていくかと言えば、どうもそうでもないようです。ちょっと考えて、わからなければ問題を解くことをあきらめ、自分で考えることを放棄し、わからないから聞いてくるという安易なパターンになります。そうなると自学自習どころではありません。また、どの子もわからないときには、そんな状態になるのかと言えば、そうではなく、自分で考えて、わからないからわかろうとして問題を解こうとする子もいるのですが、「わかる、わからない」と関係なく問題を解く子の場合には、文章題のプリントを繰り返してやっても、それで問題そのものが「わかっていく」ようにはなかなかならないのです。


また、かけ算の意味をプリントを使って身につけさせようとしたことがありますが、プリントだけでは無理がありました。「1( )あたり量」〔( )には単位名が入る〕という概念を、授業を行わず、教えることをせず、プリントをやることで気がつくとかけ算の意味がわかってしまう、文章題を数多く解かなくても、意味がわかることで文章題が解けてしまう。そんなことがプリントでできないかと挑戦したこともあったのですが、失敗しました。「1( )あたり量」がわかれば、文章題の中に「1( )あたり量」があるかないかを見つけて、それがあればかけ算。場合によっては、「1( )あたり量」でわるわり算。文章題の中に「1( )あたり量」がなければ、「1( )あたり量」を求めるためのわり算と、例題を解かなくても、立式のメドがたちやすくなるのです。しかし、この「1( )あたり量」をプリントで伝えることに苦労しました。

 

かけ算の本来の意味は、  1(  )あたり量×いくつ分=全体量 なのですから、

 

1皿あたりりんご3個という「1(皿)あたり量」を、〔3個/皿〕と書くと、


1人あたりしっぽ0本を、どう書きますか? 〔       〕
1箱あたり色紙100枚を、どう書きますか?〔       〕
車1台あたりタイヤ4個を、どう書きますか? 〔       〕
等々の問題を出して、さまざまな単位の組み合わせで、〔0本/人〕〔100枚/箱〕〔4個/台〕と書けるような練習をプリントを使って何度か行いました。一時的に「1( )あたり量」が書けるようになったとしても、わかって書けているのではなく、たまたまわかって書けているように見えていただけで、何もわかっていないため、1皿あたりりんご3個という1(皿)あたり量を、〔3個/皿〕と書くところ、〔3個/1皿〕とか〔1皿/3個〕〔3皿/個〕というような信じられない解答を書く子がたびたびでたのです。


「1(  )あたり量」という概念が伝わっていれば、このような間違え方はしないと思うのですが、なかなかそうはなりません。プリントで何度繰り返しても、繰り返すことで計算が確実にできるようになっていくようには、「1( )あたり量」は定着しないのです。しかし、どのように「1( )あたり量」というものを書いたらいいのか、わかってしまった子はまず間違えません。このような体験から、「わかる」をプリントだけで伝えることに無理があることも実感したのでした。


そこで授業をせず、教えることをせず、「プリントだけで学ぶ学び方」は、「わかる」よりも「できる」を重視した学習の方法であることに気づいたのでした。
そこでできたのが、
かけ算九九のプリントでした。かけ算九九の意味をいっさい排して、徹底して、確実に誰でもが「できる」ようになっていくプリントです。「わかる」ということは人によって、ものすごく個人差のある問題で、「わかる」と「できる」を同時にしなくても、たとえば、「どうして3×0が0になるのか?」と疑問を持ったときに「わかる」に興味が向かって、そのときにそれに関係のある本を読めば、それがその人にとっての「わかる」ときと判断していいのではないかと思うようになったのです。


そんなことを考えながら、教えることをせず、自分の力だけで確実に力をつけていくことができるものとして、「計算問題」以上に最適なものはないと思い至ったのです。そして、「計算問題」だけしか入れずにプリントを作成していったのですが、そんなプリントを子どもがやっているのを見ると驚きの連続です。初めてやったときには、設定した目安時間の3~4倍かかっても、同じプリントを繰り返し学習していれば、必ず目安時間に近づきます。つまり、時間を計ることによって、どの程度自分の身についたか、その習熟状態が自分自身で手にとるようにわかってしまうのです。誰でも自分の状態がわかることで、誰でも自分の学ぶべきプリントを自分で決めることができるようになってしまったのでした。そうなると、どの子も自分ができる状態にならなければ、先にすすみたがりません。できない状態のままで、先にすすみたがる子は1人もいないこともわかってきました。


人から言われたことだけを言われたままやる学習から、自分が必要だと思ったことを自分で決めてやっていく学習への転換です。計算問題だけをプリントにしたことで、「人から言われて、言われたことをやる学習」から「自分で決めて、自分で決めたことをやる学習」にすることが可能になったのです。
 

平井雷太『見えない学校 教えない教育』第2章 教えない教育 2.なぜ、計算問題なのか? より

※原文で「らくだ教材」となっている箇所を「らくだメソッド」としました

※この続きは明日投稿予定です

 

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