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講演録『教えない教育、治さない医療』(その5)

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講演録『教えない教育、治さない医療』(その5)

講演録『教えない教育、治さない医療』(その5)

2023/04/25

講演録『教えない教育、治さない医療』(その4)からの続き

 

井上:今、平井さんの塾には500名の生徒さんがいらっしゃっていると伺ったんですけれども、ただ、教えない、何もしないというだけで、本当に自分ですすんでプリントをやるようになるかどうか、疑問に思う方がいらっしゃると思うんですね。そのあたりはいかがでしょうか?

 

平井:それはですね、ぼくが自分で自分の息子を対象にしてらくだメソッドを作りましたから、うちの息子がやってできなかったら、とにかく、ぼくに箍(たが)をかけたんです。怒鳴らない、叱らないと。この本にも───これは山下さんの本ですけれども、「なるべく精一杯に、なるべく怒らぬこと、なるべく将来のことを心配せずに、なるべくなり行きに任せて、なるべく元気に、なるべく陽気に……」と。これは、ぼくなんかはすぐ怒るので、すぐ怒鳴るタイプなので、絶対に叱らないと、「なるべく」程度でやっているとだめなんですね。絶対に怒鳴らない、叱らない、と決めたんです。すると、どうなるかというとですね、箍をかけることによって、子どもが先に進まなくなっても、ぼくが作ったプリントができなかったことについて、だれが問題でそうなったかっていうと、ぼくなんですよ。このプリントをやってできないのは子どもなんだから、子どもは悪くないんです、全然。その子が今どこの状態にいるのかをぼくが的確にとらえていないからですよ。この段階までできたら、このプリントは絶対にできるはずだと思って作ったにもかかわらず、できなかったとしたら、ぼくが悪いわけです。だから、プリントを作りかえたんです。もう何度作りかえたかわからないですよ。これで完璧だろうと思って作ってやると、またできない。うちの子は素直だから、できないとすぐ泣くわけですよ。「お父さんこんなのできない、もういやだ、やめる!」って言ってプリントをやるのをやめてしまう。でも、「うるさいな、ばかやろう!」って言えないから、絶対怒鳴らないって決めてましたから、ぐぐぐぐっと押さえて、身体にはよくないですが(笑)、なるほど、これはできないな、と。それで、どういうふうにしたらいいかと、そういうことを10年間続けた結果できたプリントだから、このプリントをやればだれでもできるかな、と思ったんです。

 

それで、ある時、ある出版社が、ぼくのところに来て、ぼくの作った教材を見て、普及をやりたい、これを使って全国展開をしたいって言い出したんです。その出版社が傾きかけていて、僕の教材を使って、起死回生を狙ったわけですね。朝日新聞の全国版にも大きく出て、1000人近くの人の問い合わせが来て、70人位の人が教室を開いたんですが、1年間でほとんどつぶれたんです。これは面白かったですよ(笑)。教室を開いた方にはお気の毒でしたが、教材だけがあっても指導できないということは、はっきりしたわけです。それはね、どうしてかというと、何もしないんだからと言って、ぼくは一切説明もしなかったし、問われない限りぼくは答えないから───問われてないのに話すと余計なお世話だから、だいたい。だから、質問されない限り、何も言わなかった。その出版社に全部教材を渡して、「いいですよ、どうぞ」って言って、すべてお任せして。で、結局その出版社から来た質問は2回だけでした。あとはその出版社の方で独自にというか、勝手にやったわけです。

 

それで、その教材を使ってやっている人達が何をやっていたのかな、と思って、生徒がどんどんやめて行く教室の人に、後からいろいろ聞いたわけです。そうするとね、何をやってたかというと、 子どもが「先生、いやだ、こんなのやりたくない!」というと、「ああそうか、やりたくないか」と言うだけ。「宿題持って行く?」と子どもに聞くと「いやだ!」って返ってくる。つまり、子どもの言いなりになってるだけですから、そういうことを1カ月やると、だれもやらなくなっちゃうんです。でも、ぼくの教室には、そういう子がひとりもいないんです。そうするとね、「押しつけない、強制しない、命令しない」指導とは、いったいどういうことなんだって、考えないわけには行かなくなるんです。

 

それで、さっき山下さんがおっしゃっていたように、どの患者が来たときに、どういうふうに言ったらいいか───ここへくる途中にもお話ししていたんですけれど、ぼくも一番そこに関心があるんですね。そうしたら、「マニュアルはできない、こういう患者に、こういう対応をしたらいいというのはない。その瞬間で決まる」とおっしゃてて、それで、じゃあその瞬間に何を伝えるか、と。それで、あるときは、ぼくが子どもとやりとりをしているのを、テープでずーっと記録して、事例集をたくさん作ってやってみたんですが、すると今度は、事例の方にはまりこんじゃう人が出てくる。事例に合わせて指導しようとしても、うまくいかないんですね。

 

それで、事例研究やったって何の意味もないっていうことがわかって、それで3年前から始めたのが「ニュースクール講座」というものです。その講座では、何をやっているかっていうと、上意下達的に情報を流さないってこと。つまり、「らくだメソッドの指導はこうすればいい」というような説明を一切しない講座を組んだんです。「評価しない、目標を持たない、疑似空間を作らない」という3つのコンセプトだけで───この講座の話をすると、すごく長くなるから省略しちゃいますけれど。とにかく、一人一人が全部、その子がやれるようになっていく対応の方法というのは、一人一人の中に全部潜んでいる。それを何かの意識がブロックしていてできないだけだから、それが表面に出るような関わり、関係の作り方をやっていけばいい、っていう。ようするに、自分の中に潜んでいる、頭を使わないで文章を書くということなんですけどね。そういうことをやると、何かと出会ったときに、フッと思いついたことを書いているうちに、自分が何を考えているかがクリアになってくる、ということがいくらでも起きるわけです。それを「考現学」と言っているんですが。

 

ただ、それを、あの、まあ、「気づき」みたいな関係の中で、例えば───えーっと、またしゃべりすぎかな───あの、ひとつだけ話しましょうか。ぼくの息子とのやりとりの中でね、「ああ、らくだ方式ってこれなのか」って思ったことがあって、何を書いたかというと、こういうことなんです。うちの近くに六義園という公園があって、これは一周1.3kmあるんです。ぼくはその頃マンションに住んでいたんです。ぼくの息子は、自転車に初めて乗れるようになって、六義園の公園の中をぐるぐる走り回っていたんです。だけど、ブレーキも使えないし、乗れるなんてもんじゃないんです。だけど、本人は乗れると思っている。意識として。それで、このマンションから友達のうちへ自転車に乗って遊びに行きたいと言ったんです、日曜日に。ぼくはずーっと日曜日は父子家庭やっていたんですが、「遊びに行きたい!」って息子が言うわけです。それで、「行きたい」って言ったときに、「おまえは乗れっこないんだからだめだ!」って瞬間、言いそうになったんです。そのときに、「押しつけない、強制しない、命令しない」ってことがフッとわいて───プリントを作ったときに、怒鳴らないって決めたから、プリントを作り直したように、子どもが「行きたい」って言ったときに、フッと浮かんでした対応があるんです。そうすると、その対応というのは、「ああ、なるほど」というか、押しつけと強制と命令をしないで、こういうふうな───これは、ぼくのなかに潜んでいた情報がわき出て来たわけで、頭で考えてした対応じゃないんです。瞬間的に出て来た対応なんです。それはもうその瞬間をカメラに撮っておきたいという感じになるわけね。「面白い、これは!普遍性がある!」って思うわけです。

 

それは何かって言うと、そのときぼくがやった対応というのは、情報の共有なんです。本人がやっぱりぼくも自転車では行けないな、って判断したのは、ぼくが息子に、じゃあ一緒にちょっと廻ろうって言って、ぐるぐる廻ったわけです。ぼくが先に自転車で行って、彼がこう、あとから追っかけてくる。それで、ぼくは角の交差点のところで止まったんですが、彼は通過していったんです。彼はまだ自転車を乗りこなせないですから、肩に力を入れて、下だけしか見ずに一心不乱に真っすぐに走っていたから。そこで、彼を呼びとめて、「おまえ、今、死んだぞ」って言ったんです。「今の瞬間、死んだぞ」って。教えずに、ただ「死んだよ」って言っただけです。そしたら、彼は後ろを振り返って、「あ、角で止まらなかった」って思っている。彼は、だいたい30メートルくらい前からブレーキをかけて、やっと止まれる状態だったんです。すると、こんどの曲がり角では30メートル手前から、必死になって、角では止まるってそれしか頭にないわけですね。それでやっと止まったわけです。その曲がり角を曲がって、今度は広い道で、こちらから車が来るんです。彼は下しか見ていないから、この道はしばらく角はないということで、安心して乗っていたら、突然に目の前に15メートルくらい手前から車が目に入った。ブレーキがかけられないでしょう、で、彼はどうしたかっていうと、あわてて飛び降りたんです、ブレーキをかけずに。車とあともう少しというところで飛び降りた。その後ぼくは何にも言わずに「行こう」って言ったら、彼は乗らないんです、自転車に。それで、 ずーっと引きずったまま自転車を押して帰って行ったんです。それで、ぼくは彼に───意地悪だから───「友達のうちに自転車でいかないの?」って聞いたんです。そうしたら、彼は「いやだ、行かない」っていうので「どうして?」って聞いたら、「ぼくは自転車に乗れない」って。彼はぐるっと一周廻って、ぼくの力量では自転車に乗って行けないんだ、という情報を手に入れたんですね。だから、ぼくが押しつけと強制と命令をしないで「行くな!」というのは、なぜぼくは行くなっていうのかという情報と、彼の持った情報がそろったから、彼は自分で判断して「行かない」と決めたわけです。でも、これがもし一方的に「行くな!」って言ったら、ぼくの目を盗んででも、ぼくがいないときに行っちゃいますからね。だから、自分で自分のことを決められる、という、「ああそうか、なるほど」というような、今みたいなことをぼくが話ができるのは、そのときに気づいたからです。「なるほど、 そうか」と思ったことを、ぼくは書きとめて残しておいたからです。これは『らくだが翔んだ』という本の中に書いてあるんですけれど、残してあるからぼくはこうして使えるわけです。そうすると、何がエッセンスだったかというと、そこで、情報の共有を───なぜ子どもが自分からすすんでプリントをやるかというと、ストップウォッチでかかった時間を計って、自分で採点をすれば、今、自分がどういう状態にあるかということが、自分でわかるから、ぼくが「ああしろ、こうしろ」と一切言わなくたってやるわけです。

 

講演録『教えない教育、治さない医療』(その6)に続く
 

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