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講演録『教えない教育、治さない医療』(その6)

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講演録『教えない教育、治さない医療』(その6)

講演録『教えない教育、治さない医療』(その6)

2023/04/26

講演録『教えない教育、治さない医療』(その5)からの続き

 

井上:平井さんの500名の生徒さんの中には、大人の方が随分いらっしゃるということをうかがったんですが………

 

平井:1割ぐらいですね。

 

井上:大人の方が算数のプリントをやって、例えば小学生の足し算引き算というようなことをやって、いったいどんなところが面白いのでしょうか。

 

平井:だから、最初はぼくも、物好きな人がいるなって思ってただけですね。だけど、それは、あとで、いろいろ見てると、こういうことかなって思ったことはあるんですよ。あの、それは子どもでもそうなんですが、たとえば、ぼくの場合には、その子が掛け算九九のプリントを、自分で選んで90回繰り返すときに───90回っていうと3カ月ですよ───何にも気にならないですね。全然!それから、大人の人が、20代で、保育園で保母さんの助手で入っていて、その人は、ずっと特殊学級を卒業していて、何であの人は特殊学級だったのか、いまだにわからないんだけれども、算数ができないって思い込まされているわけですね。それで、彼女なんかは、小学校2年生の3けた引く3けたの引き算を3カ月ぐらいやったんですね。それでも、やればちゃんとできるようになる。で、特殊学級をでた人が、ぼくのところに2年通って、小学校の課程を全部終えたんです。だから、あの人は小学校に今入ったら、6年生で通信簿は5段階評定で5でしょうね、たぶん。完璧でしたから。

 

だから、そうすると、何が言いたいかって言うと、今までは学校で「算数を学ぶ」ということをやっていたわけです。でも、ぼくがなぜ何回繰り返してやっても気にならないかっていうと、「算数を学ぶ」から「算数で学ぶ」というふうに、発想を変えたからです。だから、掛け算九九のプリントを90回、3カ月繰り返して、掛け算九九ができるかできないかということは、どうでもいいんですね、ぼくにとって。やっていれば勉強ができるようになるのは当たり前ですから、別に健康になることを目的にしないことと同じように、勉強ができるようになることは結果であって、それを全然目的にしていないですね。その人がやることで何を身につけるかというと、90回繰り返す中で、「自分で決めて、自分で実現する」ということを学んで行くわけです。ようするに、そのことで集中力が育ったりとか、自分のことを自分で決めていく自己決定力が育ったりするわけです。ようするに、お先真っ暗な状態にいても、やり続けていればいつか必ず光明が差してくるんだっていうふうに、目の前の世界がパッと開けるっていうことを、体験したりとかね。学んでいることは、ようするに、掛け算九九のプリントであっても、それをただしているだけで、その人が得られるものというのは、その人の学ぶ姿勢次第で無限にある、と。そう思ったら、どこをやっていたっていいんですよ。一番おそまつな学びかたというのは、「できさえすればいい」と思ってやっている。それはもう、苦労して、頑張って、早く終わって月謝を少なく済むようにと。これはもう悲惨。一日8枚とか10枚とか、とんでもない───1日中やっているわけですね。こういうのをプリントに耽(ふけ)るという(笑)。短期間的には非常に集中してやるんだけれども、終わった後に何も残らない。3日で覚えたことは3日で忘れる、みたいなね。そんな風だと何も身につかない。

 

そういうふうに発想していると、らくだメソッドを一番楽しんでやっている人は、自分で決めたことが自分でできない人ですね。やろうと思ってもちっともできなくて、「何でできないんだろう?」って悩むわけですね。どういうふうにやったらやれるようになるかって、自分と向き合って、日々の中でこういうアホみたいなばかばかしい作業をして、これは写経と一緒で、だれにでもできるようなことをやるわけですから、そういうふうな中で、何が身についてくるかっていうと、意味のないことに意味を感じられる人は、何かを得ますね。これはあらゆることに応用がきく、ということかなと。こういうふうに考えると後で説明はつくんですが、でもそれぞれでしょうからわかりません(笑)。

 

井上:今のお話しはさきほど山下さんの方から出た、しつけということとすごくつながると思うんですけれど………。

 

平井:ですから、いいしつけというのは不可能だなと。できることは、自分で自分をどうしつけるかだと。「しつけ」というのは「し続(つづ)け」ですから、自分で決めたことを、どれだけし続けられるかであって、だれかにいいしつけをされたからじゃないんですね。「こういうふうに育てたら、こういう子が育つ」ということは現実にはあり得ない。そういう意味で言うと、ぼくは最悪の育ち方をしていますからね。ですから、しつけをどう考えるかによって随分変わるなあって思っていますけれどもね。

 

井上:それで、あの、先ほどちょっとお話があったんですけれど、今プリントだけではなくて。毎日書き続けるという事を平井さんご自身がなさっていると。そのあたりのお話しを、もう少し詳しくお願いしたいんですが………。

 

平井:詳しくですか。もうあまり時間がないですね……。

 

井上:ではちょっとだけ(笑)。

 

平井:えーっとですね。ぼくは19歳のときに、自分の親が本当の親でないことを知ったんです。そのときから、わき出るように詞を書き始めた。そのときに、これはぼくが書いているんじゃないな、と思っていたんです。何かの力によって書かされていると。そのあとも、定期的に一気に噴き出て来るようなことがあるんですね。いろいろなアイデアが、次から次へとわいてくるわけで、それを書きとめていたんです。それは『子育て廃業宣言』という本になったりしたんですけれど、でもそのときは、自分の気分でやっていたんですね、成り行きに任せて。えーっと、何て言ったらいいのか・・・頭を使っていないんです。書こうとして書くんじゃないことが、指の先から勝手に出て来ちゃうんですね。

 

それで、それを3年前に意識的に「よし!1日1個、何でもいいから書く」というのを決めたんです。ようするに、気分とかムードとかで書いていても、ただ流されているだけだから、そうじゃなくて、意識しながら1日1個、フッと思ったことを書きとめる、ということをやったんです。単語1個でもいいし、短文でもいいし、人の名前でもいいし、本のタイトルでもいいし、新聞の見出しでもいいし、ようするに、考えずにフッと今日1日どうだったかなって思ったことを書きとめるっていうことをやったんですね。そうするとね、し続けているとどういうことが起きるかというと、途中から文章になって、長い文章になって、どんどん変わって行くわけですね。で、もう1カ月もたたないうちに、センテンスを書いているわけですね。それで、とにかくどんなときでも1日1個書く、と。そのときに、日記にしておかずに、書いたことを人が読んでわかるように書く、と決めて書いたんですね。そうすると、その中で書いているうちに、何でこれをフッと気になって書きとめたかっていう意味が、書いているうちに出てくる。ちょうどワープロがあったから、ワープロというのは非常に便利で、頭を使わないで書いていると、あとから意味がついて来るわけですね。

 

それで、そういうことをし続けて、去年の10月から、ぼくの書いている量がめちゃくちゃ増えて来たから、それを読みたいという人にFAXで───だから、ちょうどワープロが流行ったり、FAXが普及するのと同時的だと思うんですが───とにかく読みたいという人がいるから、それを全部月・火・木・金と送るわけです。そうすると、書き続けているうちに、同時発生的にいろんなことが起きて来る。つまり、ぼくだけ書いているんじゃなくて、「面白そうだからぼくもやってみよう」という人が全国のあちこちに出てきて、書いたものをぼくのところに送って来たりとかするようになるわけです。そうすると、全国で50人とか100人とかという人が、同じ瞬間に何を考えているかが見えてくるわけ。そうすると、人の脳っていうのは、個人の脳ではなくて、地域が離れていてもかなりつながっているということがリアルに実感できるわけです。「何だこれは!」って思いましたね。でも、それって何ら特別なことじゃなく、やってみれば、たぶん地球は一つの生命体だっていうことが誰でもわかりますよ。次から次へと感応が起きていって際限ないんです。今ここにありますけど、これはこの10月1カ月間で書いたんですが、今、多いときは1日で1万字ぐらい書いているんですね。でも、ほとんど書いているという意識はないです。忙しくしているので、書くための時間をわざわざ作るということをやっていないので。例えばここへ来る間もフッと浮かぶから、浮かんだことを書きとめないと消えちゃうから、もったいないなと思って書いて残しているだけなんです。

 

だから、書かされているというか。ただ、ぼくがしたことは「書くこと」を自分で決めたことだけですね。そうすると、ぼくが子どもとやりとりしている、先ほどお話ししたようなことが、教室の中では日常的に起きているから、これは何かなとあとで考えてみるわけですね。そうすると、ぼくの教室にカメラが据えてあって、ぼくがやっている子どもとのやりとりが全部公開されている、みたいなことですね。教室の中にカメラがあれば、自分の行動というのが私的な行為ではなくて、公になっちゃうわけです。まあ、上野千鶴子さん(東京大学助教授)からは、「自我の垂れ流し」と言われてしまったんですけど(笑)、ようするに、先ほどの山下さんの「自我と真我」というお話しに関係があるかな、と聞いていて思ったんですけれど。だから、書くということは、私ではなくなっていくことですね。ようするに、世間の目にさらされながら生きる、みたいな。人との関係が、生徒とぼくとの関係が公になってくる。これがね、非常に面白いことで、家庭の中で子どもとどういうやりとりをしているかっていうことをお母さんが書き始めたら、「何やってるの!あんた!ばかなことばっかりやって、また!」というようなことは、たぶん言わなくなるでしょう。いつも何かをやっているときに、だれかの目があるわけですから。自分が公になってくるということは、人との関係の中で常に工夫をし、その中で生まれた気づきを書きとめて行くわけです。それはいわゆる反省文ではないんですね。その中で起きた気づきを書くわけですから。反省なんていくら書いたってまた繰り返すだけですから、「すみません!」なんて、本当は全然思っていないんです。

 

井上:時間がまいりましたので、一応前半の部分はこれで終わりということにさせていただきます。どうもありがとうございました。

 

講演録『教えない教育、治さない医療』(その7)に続く 

 

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