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「自己決定」「自己責任」って言葉の真意がなぜ伝わりにくいか(その2)

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「自己決定」「自己責任」って言葉の真意がなぜ伝わりにくいか(その2)

「自己決定」「自己責任」って言葉の真意がなぜ伝わりにくいか(その2)

2024/04/13

昨日投稿した記事の続きです。

 

引用した部分の宮台真司さんの言葉のなかに、

次のような箇所がありました。

 

欧米では新自由主義を反省した上で語られていた

こうした 「自己決定」や「自己責任」が、

「共同体を拒絶して、何ものも頼らず、

すべて自分でやることだ」というふうに

誤解されてしまった。

 

同じ言葉を使っているのに、

「自己決定」「自己責任」という言葉については、

どうして欧米と日本との間で、

このようなズレが生じてしまうのか、

歴史的な背景も踏まえながら

詳しく考察している書物に、

松尾匡さんの『自由のジレンマを解く』

あります。

 

ちなみに本書は、

ポータルサイトSYNODOSに連載された記事を

編集してまとめられたもので、

モト記事は現在でもweb上で公開されています。

 

松尾さんが書かれている内容は、

わたしがこの記事で書こうとしている内容を

理解する手助けになるもので、

読まないと理解できないことはありませんが、

昨日の宮台真司さんの文章を読まれても、

書かれている内容に

ピンと来なかった方や、

こうしたテーマに関心のある方は、

試しに次の2記事をアクセスしてみて下さい。

「自己決定の裏の責任」と「集団のメンバーとしての責任」の悪いとこどり

「流動的人間関係vs固定的人間関係」と責任概念

 

以上2記事でだいたい概要は掴めますし、

前編にあたる記事や続きともweb上で読めるので、

著者の記事一覧からどうぞ!

 

繰り返しますが、

松尾さんの文章を読むことはマストではないので、

スルーして頂いて構いません。

 

 

また、この寺子屋塾ブログでは

度々ご紹介している為末大さんのブログでは、

次の記事が類似したテーマに言及していて、

参考になるかもしれませんから、

未読の方は読んでみて下さい。

2022.1.20「自己責任論と社会責任論」

 

 

さて、本記事の本題に戻ります。

 

らくだメソッドの開発者である平井雷太さんは、

「セルフラーニングは一人ではできない」

常々言われていました。

 

つまり、セルフラーニングとは、

他者の存在や他者との関わりを前提とし

その関わりの中で学ぶ学習ですから、

わたし自身は「自学自習」と区別して使うように

心がけてきましたし、

「一人だけで孤独に学ぶ」意味ではありません。

 

あるとき、ひとりの塾生に

セルフラーニングという学習スタイルについて

わたしがキャッチフレーズのように

頻繁に使っている

〝自分で決めて、自分でやってみる学習〟という

言い回しに対しての印象を聞いたところ、

「冷たい感じがする」という言葉が返ってきて

驚いたことがありました。

 

たしかに〝セルフ〟という再帰代名詞は、

日本語に翻訳すれば、

「自分で」「〜自身」という意味になるんですが、

平井さんが言われる

「一人ではできない」という

セルフラーニングにとっての根幹部というか

最も大切な大前提の部分が、

その塾生には全く伝わっていなくて、

関係性を切り離すような意味で受け取られていると

気づかされたわけです。

 

そのあたりについては、

次のつぶやき考現学も参考にしてください。

〝自分〟を意味する漢字になぜ「我」と「己」があるのか(つぶやき考現学 No.81)

 

宮台さんも、昨日の引用した記事の終わりの方で

 

「自己決定」と「自己責任」を、

「包摂」に向かうために使うか、

「排除」に向かうために使うか、という違いに

敏感にならないと、

自分自身がこれらの言葉によって

「排除」される側に回ることになる

 

と書かれていましたが、

結局のところ、日常言語の意味というものは、

大部分合意できていても、

人によって解釈が微妙にズレているので、

厳密に一律に定義することは不可能です。

 

どういう目的でその言葉を使っているか、

その〝動機〟を確認することは大事でも、

日常言語のレベルでは、

概ね合意できていさえすれば、

大きな問題に発展することにならないこともあり、

どうしても丁寧な確認を

すっ飛ばしてしまいがちなんですね。

 

 

べてるの家の向谷地生良さんが書かれた

『安心して絶望出来る人生』(NHK生活新書)には、

べてるの家の「当事者研究」に触れたところで、

「自己決定とは、自分だけで決めないこと」

という謎のフレーズが出てきます。

 

この文章だけを読むと???な表現ですが、

その前後をよく読まれれば、

昨日、今日と記事に書いてきた

「自己決定」「自己責任」という言葉をめぐっての

ズレにつながる話なんだと

お分かり戴けるのではないかと。

 

たしかに、他者から一方的に

決めさせられるような関わりであっても、

決めた人自身がどこまで納得しているのかは、

それこそ0か100かどちらかだけに

割り切れるものではないでしょうから、

そういう曖昧な「自己決定」も、

「自己決定」であることには違いありません。

 

でも、「自己決定」を採用している目的が、

「あんたが決めたんだから、

責任もあんたがとりなさい」ということなら、

自分で決めたかどうかという問題以前に、

自己決定のプロセス以前に

対等でない人間関係が潜んでいるわけですから、

自分で決めたかどうかに着目するよりも、

そのことで浮き彫りにされる〝関係性〟こそを

問題にすべきでしょう。

 

結局のところ、何を前提とし、何のために、

どのようなプロセスで「自己決定」するのかが

重要なわけです。


以下の文章は

『安心して絶望出来る人生』からの引用です。

(引用ここから)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

・・・しかし、「当事者研究」とは、この活動によって専門家の関与が不要になったり、影響力を排除することを意図したものではありません。「自分自身で、ともに」の理念にある「共に」の中には、当然のように専門家との共働と連携が含まれます。けれど大切なのは、専門家の持っている知識や技術と、当事者自身が持っている経験や知恵は、基本的に対等であるということです。そこに優劣はありません。そのことを通じて、専門家も当事者も本来の役割を取り戻すことができるのです。


ここで、どうしても触れておかなくてはいけないのは「当事者研究」における「当事者」の意味についてです。精神障害者も含めて障害者は、長い間、「自分のことは、自分が決める」という基本的な権利を奪われてきた人たち(『当事者主権』中西正司・上野千鶴子著 岩波新書)であるといえると思います。

 

俗にいうこの「自己決定」の視点は、今や、あらゆる福祉サービスやケアの大原則として広く普及しています。その自己決定論を背景として専門家が当事者とかわす言葉の中に、「あなたはどうしたいの……」という問いかけが、あらゆる場面で見受けられるようになりました。しかし、その問いを投げかけられた当事者の多くは、「自分が決めたのだから、その結果責任はあなた自身が背負うことになります」という背後にあるメッセージに緊張を覚え、恐怖を感じるといいます。


実は、浦河では全く正反対のことが、当時者性の原則として受け継がれてきました。それは「自分のことは、自分だけで決めない」ということです。それは、いくら「自己決定」といっても、人とのつながりを失い、孤立と孤独の中での「自己決定」は、危ういという経験則が生み出したものです。


それは、自分自身が最も力を発揮できるのは、自分の無力さを受け入れ、さまざまなこだわりやとらわれの気持ちから解放され、自分自身と人とのゆるやかな信頼を取り戻すことができたときだということを、知っているからです。


自己決定とは「自分だけでは決めない」という、人とのつながりの確かさがあってこそ、成り立つ態度ということもできます。その意味で「当事者」であるということは、単に医学的な病気や障害を抱えたことのみをもっていうのではなく、自分自身の「統治者」になろうとするプロセスであるということもできます。

 

向谷地生良・浦河べてるの家『安心して絶望できる人生』P.66~68より

 

 

この続きは明日に!

 

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