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「自己決定」「自己責任」って言葉の真意がなぜ伝わりにくいか(その3)

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「自己決定」「自己責任」って言葉の真意がなぜ伝わりにくいか(その3)

「自己決定」「自己責任」って言葉の真意がなぜ伝わりにくいか(その3)

2024/04/14

昨日4/13に投稿した記事の続きです。

 

昨日の記事では、べてるの家・向谷地生良さんの

著書『安心して絶望できる人生』から

引用してご紹介しました。

 

今日は午後1:30から寺子屋塾 中村教室で

ちょうどそのべてるの家のドキュメンタリー

映画『ベリーオーディナリーピープル』予告編6

ビデオ上映会を開催していて、

30年近く前の向谷地さんがその映像には

登場されていました。

 

昨日引用した箇所の中では、

最後のパラグラフに

大事なポイントは集約されていたようにおもいます。

 

自己決定とは「自分だけでは決めない」という、

人とのつながりの確かさがあってこそ、

成り立つ態度ということもできます。

 

その意味で「当事者」であるということは、

単に医学的な病気や障害を

抱えたことのみをもっていうのではなく、

自分自身の「統治者」になろうとする

プロセスであるということもできます。

 

 

『べてるの家の本』(上の画像)が

1992年に制作され

べてるの家のことが多くの人に知られるように

なりました。

 

でも、わたし自身もそうだったんですが、

本の場合は言葉の文章が主で

写真、図などを駆使したとしても

自己決定とは「自分だけでは決めない」という、

人とのつながりの確かさ と書いてあっても、

それを読むだけでピンと来る人は

おそらくはごく僅かの人たちでしょう。

 

べてるの実践を多くの人に知ってもらうためにも、

映画をつくろうという企画が持ち上がり、

1995年から撮影が始められたのが

『ベリーオーディナリーピープル』でした。

 

 

さてそれで、上映会後に行われた意見交換の場でも

「自己決定」「自己責任」をめぐる話題が

テーマになったんですが、

たとえばこの「自己決定」という言葉に含まれた

〝自己〟という言葉が

なぜ生まれたか、その成り立ちを

丁寧に追っていくことにしましょう。

 

多くの皆さんが、おそらく言葉は

モノの名前のことだとおもわれていますよね?

 

でも、よ〜く考えてみてください。

 

たとえば、〝自己〟という言葉でいうと、

自分ひとりだけしかいないのに、

わざわざ、その自分のことを

〝自己〟と名づけて呼ぶ必要があるでしょうか?

 

無人島で一人だけ生活しているような場ならば、

自分のことを〝自己〟と

名づける必要なんてありません。

 

でも、たくさんの人間がいるような場では、

一人ひとりの人間に名前がないと

どんな不便さがあるかを

想像すればわかることでしょう。

 

つまり、そもそも言葉というものは、

他と区別して示したり伝えたりする必要があって

生まれるものであって、

ものの名前ではないんですね。

 

もちろん、わたしは言葉が生まれる現場に

立ち合っていたわけでないので

あくまで想像でしかないんですが、

〝自己〟という言葉が生まれてきた理由は、

他の〝何か〟と区別して示す必要が

あったからではないかと。

 

でも、区別する対象となっていた

他の〝何か〟の方は、

時を経ることで

意識されることがだんだんと薄れていって、

〝自己〟という言葉だけが残ってしまったんだと。

 

だから、「自己」という言葉が何を示しているかを

厳密に考えようとするときは、

何と区別する必要があって使っている

「自己」なのかを意識する必要があるわけです。

 

たとえば、昨日の記事で引用した

つぶやき考現学に書いたことなんですが、

同じ「自分」を意味する言葉でも、

自分から見ている「自分」と

他者から見ている「自分」では異なるので

それを区別する必要があって、

「我」と「己」が生まれたのではないかと

想像したという話だったんですが。

 

結局、一昨日と昨日の記事に書いてきたように

欧米と日本との間で

「自己決定」「自己責任」という言葉に

ズレが生じるのは

自己とまわりとの関係性の違いに起因していて、

〝個〟と〝集団〟の関係性が

異なるからなんですね。

 

 

それで今日は、このテーマをもう少し深めるために、

3年前に塾生の太郎ちゃんこと

塩坂太郎くんがブログに書いていた

学習のふりかえり文を引用して紹介します。

 

(引用ここから)

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 2021-07-05
『「自己肯定感」の「自己」がどこにあるか』

 
らくだのプリントをやらなかった期間を

振り返ってみると、

いつの間にか、

自己認識が変わっていることに気づいた。

 

この学習を始める前に、
こうやって長く続けてきたことが、
できなくなったとき、
自分は自分とどう折り合いをつけ、
どういう選択をしていたのだろうか?という

問いが浮かんだ。


きっと、僕は「できない」という毎日を過ごす中で、
プリントを続けても意味がないとか、
教材費を払っているのにやらないなら

意味がないとか、
そうやって、適切そうな理由を添えて、

学習をやめるという選択をしていたのではないか。

と想像する。


なぜ、そういう選択になるのか?
それは、自分の認識の仕方(自己認識)に

よるものが大きいように思う。


できない現実を招く要因は、
自分に備わっている特性や自分の能力によって、
生まれていると思っていたし、
自分の能力を広げる(力をつけること)で、
できない現実が、できる現実に変わっていく。


だからこそ、「できない」を「できる」にするには

上昇志向が必要不可欠で、
努力をすること”でしか”、できる現実を創ることが

できないと思っていたように思う。

 

++ 

 

この数ヶ月間、僕は全くプリントには

手をつけられなかった。
でも、そのできない期間の自己認識は以前とは

ずいぶん変わっていたように思う。


それは、今、プリントに手をつけられない

自分であっても、
いつかできる自分が現れるだろう。と、

自分自身が変わるその時まで

じっと待てるようになった。そんな感覚だ。


このプリント学習を通してできない日を

たくさん体験してきた。
そのできない体験の中で、僕の目の前に現れる

「できない体験」を招くその要因は、
自分が自分と思っているその枠の外にあり、
自分が自分と思っているその枠の外が変われば、
自然とできなかった体験が、

できる体験へと変わる経験をたくさんしてきた。


だからこそ、僕は今の僕の能力や才能、
情熱や使命、そういう僕の内側にあるとされるものに
「できない要因」を紐づけることをしなくなった。


だからといって、できない体験を

自分の外的要因のせいにするわけではない。


自分という存在を、自分が自分と思っている

その自分の外側も含めて、自分という認識とする。


そういった外的要因まで

主体的にアプローチできる存在であり、
そのことによって、

自分はまた変容していくことができる。


そういう意味で、自己の捉え方が

広がりつつあるように思う。


++


この変化は、自己肯定感が上がったと

いうこともできるだろう。


今の僕の能力や才能、
情熱や使命、そういう僕の内側にあるとされるものに
「できない要因」を紐づけることを

しなくなった。と書いたように、
目の前に起こる受けいれがたい現実と

向き合った時に、
その要因を自分の内に紐付けてしまうことで、
自分自身を否定する恐れもある。


でも自己認識が広がることで、
自分の内と現実に起こる事実との

因果関係を断つことも可能だ。


自己肯定感という言葉を多く聞くけれど、
自己肯定感という言葉の“肯定”ばかりに

とらわれてはいけない。


この自己肯定感の「自己」の認識範囲が変われば、
肯定しようと自分を褒めたり、
自分のいいところを探したりせずとも、
自然と肯定している自分が現れてくるのだ。


と書きながら、この記事のタイトルを、

『「自己肯定感」の「自己」がどこにあるか』と

してみたいと思う。

 

モト記事はこちらからどうぞ!

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(引用ここまで)

 

太郎ちゃんはこの記事に

学習ということの本質、根幹に関わる

とても大事な気づきを書いています。

 

とくに寺子屋塾生の皆さんは、

一昨日、昨日と書いてきた記事の流れで、

前半部に書いた話との関連性など、

太郎ちゃんが言いたいことが何なのか、

そして、わたしが太郎ちゃんの記事を

なぜここに紹介したのか、

ちゃんと受け取れるまで、

繰り返し繰り返し読んでみてください。

 

※この続きはまた明日に!(^^)/

 

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