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「自己決定」「自己責任」って言葉の真意がなぜ伝わりにくいか(その17・最終回)

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「自己決定」「自己責任」って言葉の真意がなぜ伝わりにくいか(その17・最終回)

「自己決定」「自己責任」って言葉の真意がなぜ伝わりにくいか(その17・最終回)

2024/04/28

4/12から書き始めた「自己決定」「自己責任」って

言葉の真意がなぜ伝わりにくいか

テーマにした記事も17回目になりました。

 

最初に設定したテーマ自体がかなり大きなもので、

このテーマで書いておくべきことが

すべて書けたというわけではありませんが、

4月も終わりが近づいてきていますし、

他のテーマで書きたいこともあるので、

今日の記事で一区切りとするつもりです。

 

【過去に投稿した記事内容】

(その1)宮台真司『中学生からの愛の授業』より

(その2)べてるの家+向谷地生良『安心して絶望出来る人生』より

(その3)「自己肯定感」の「自己」がどこにあるか(塩坂太郎ブログ記事より)

(その4)記事その1〜その3へのコメント

(その5)つぶやき考現学 No.65リライト

(その6)鈴木利廣弁護士へのインタビュー記事①

(その7)鈴木利廣弁護士へのインタビュー記事②

(その8)鈴木利廣弁護士へのインタビュー記事③

(その9)平井雷太『らくだ通信』より①

(その10)平井雷太『らくだ通信』より②

(その11)響月ケシー『開運思考法 苦しくない責任感』①

(その12)響月ケシー『開運思考法 苦しくない責任感』②

(その13)責任と覚悟(西尾亮ブログ記事より)

(その14)つぶやき考現学 No.64リライト

(その15)國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』

(その16)中動態の世界・読書ノート(廣安祐文ブログ記事より)

 

このテーマで書き始めたタイミングでは、

鈴木弁護士へのインタビューを紹介したり、

國分功一郎さんの中動態にまで言及したりして

こんなに長い連投記事になるとは

まったくおもっていなかったので、

想定外の展開が生まれたという意味では、

わたし自身にとっても

気づきや発見の多い

投稿記事だったようにおもいます。

 

結局、「自己決定」「自己責任」といっても、

それがひとつの手段であり、

入口にすぎなくて、

けっしてそのこと自体が目的にはなり得ないことを

何度か書いたように記憶しているんですが、

行き着いたところは、

言葉自体が持っている構造的問題でした。

 

寺子屋塾で実践しているセルフラーニング、

「自分で決め」「すすんで学ぶ」というときの

「能動」的あり方とは、

「肯定ー否定」「善ー悪」というような

対立軸として設定された

「能動—受動」の「能動」ではありません。

 

ただし、このことを言語レベルで

読まれた人にちゃんと伝わるように

表現していくのは、なかなかの難題なのです。

 

たとえば、昨日投稿した「中動態」の記事中で

シェアした廣安くんのブログ記事にも登場していた

ハイデガーの「放下」であり、

平井雷太さんはそれを「自然学習力」と言われ、

親鸞はそれを「自然法爾」と言い、

禅の言葉では「不立文字」となるのでしょうが、

こんな感じで書いていくとまさに

収拾がつかなくなりそうなので、(^^;)

最近手に入れて読んだ

言語に関する本を紹介することを以て

一区切りにすることにしました。

 

國分さんの『中動態の世界』はとても良い本ですが、

哲学書ですから、抽象的な議論が多く

哲学的な発想に馴染みが薄い方だと、

書かれている内容を日常レベルまで

落と込んでいくのは易しくないでしょうし、

日常次元の話と照らしながら読める

実用的な本としておもい浮かんだのが、

冒頭の画像に挙げた

『思考と行動における言語』です。

 

日系アメリカ人S.I.ハヤカワという

言語学者によって1941年に書かれ、

岩波書店から邦訳書の初版が出たのが

1951年なんですが、

原書は戦前に書かれている

一般的意味論の古典的名著。

 

この、版を多く重ねて長く読み継がれている

本書から以下引用して紹介するのは、

冒頭に置かれている

日本の読者に向けて書かれた序文で、

著者の生いたちや立場、言語に対する見識、

本書を著すに至った姿勢など

背景的な部分が垣間見えるとおもいます。

 

(引用ここから)

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序(日本語版のために)

私の著書が日本語に訳されて出版されることを知り、うれしく思っておりますが、序文を書くに際し、心懸りも感じております。著者というものは、読者に適切なものが書けるためには読者について知っていなければならない、というのが私の持論ですのに、私は、日本の読者の趣味・背景についてはまったく知っていないからです。


私はカナダで生れ、教育を受けました。幼年の頃、私は家で日本語を教わりましたけれど、学校に入る頃は、ほとんど日本語での教育はやめになりました。私の家族はカナダの他の邦人とはほとんどまったくかけはなれ、今日まで私は英語を話す社会に育って来ました。私が八歳の時、両親が私に日本語教育を授けるために家庭教師を雇ってくれたことを覚えております———かれはロッキー山脈の東の草原地帯の外れにある小都市、アルバータ州カルガリー市に住む数少ない日本人の一人でした。日本語のレッスンを受けるため学校から家に真直ぐに戻るようにきめられていた日にも、私は何とかしておそく戻って来ました。ですから家に着いた時には、たいてい、日本語のレッスンを受ける時間はなくなっていて———ただ、先生に叱られる時間があるきりでした。その後も、私に日本語を覚えさせようとする試みは、同様に不成功におわりました。私の祖先たちの言語や文化に対する私のレジスタンスについては、アメリカに来ている他の移住者たちの子供たちと大して違いませんでした。ともかく、レジスタンスは成功し、今日まで、私はカタカナもおぼつかなく、ひらがなはなおおぼつかなく、ただ20字か30字の漢字がわかる程度です。


こうしたわけで、私と現代の日本人の思考との間には、かなりのミゾができているのではなかろうか、と思います。この不利な条件が、このような序文があつかうべき、もっとも重要な問題は何であるかに答えさせることを妨げさせております。その重要な問題とは———

「今日の日本の思考と教育に、意味論 (Semantics) の必要性があるのであろうか?」と、いうことです。
そして、
「日本には、アメリカの学生たちが意味論について論じたと同様の問題の関心を持った何かの哲学体系か科学的運動が、あるであろうか、またあったであろうか?」


私は知りませんけれど、たしかに、日本にも、英語国でと同様の、意味論の大きな必要性がある、と、感ぜられるのです。意味のないコトバに影響を受けやすいこと、雄弁に熱をこめて言われた事を信じ易い傾向、事実で考えるよりも標語のようなもので考え易いこと、などは、英語国民や西洋人たちだけに特有の欠点ではなくて、人類の大部分の弱点であります。コトバによる自己陶酔の可能性は、言語のあるところ、常に存在します。 万人が文字を読み書きできること、新聞の大量購読、それとラジオとは、何百万の人々を一挙に、時には意味もないコトバで一さらいにし得ることは、現代のコミュニケーション技術の影響を受ける、あらゆる国々であり得ることです。宣伝の時代においては、民主的社会の市民たちは、かれ自身で、その判断に訴えて来る無数の訴えかけを判定評価する責任を持っているわけです。この理由から、われわれ意味論者たちは、次のように信じます、すなわち、言語とその働きというものについてのある種の基本的な事実についての知識は、一般の市民にとっては、九九の掛け算同様、 毎日の役に立つ常識である、と。そこで、私は、便利な役に立つしかたで、一般大衆にも、一人前の市民としてこの責任を分担しようとしている学生諸君にもわかり易いように、意味論についての紹介を試みました。日本の市民諸君が、聞いたり使ったりしているコトバについて判定を下そうとするに際しての諸問題は、決してアメリカの市民にとっての諸問題と、ひどくかけはなれてはいないと思います。


私の挙げたもう一つの問題———日本の哲学的または科学的思考において、意味論的問題が、まだ考えられていなかったか?———は、私から日本の読者に自分で答えて頂きたいとお願いする問題です。昔からの日本の哲学にも、ちょうどいま西洋の意味論の研究家たちが体系化しはじめているような、コトバの人を迷わせる性質や言語と思考との関係についての、多くの達見があるであろうことを疑いません。また、日本人の民衆智の中にある格言や物語の中には、意味論の原理の多くを裏付けるようなものがあるであろうと思います。あらゆる文化には、その盲目性の領域とともに、達見の領域もあるものだからです。意味論の中で西洋人の思考には目新しい多くのことも、東洋人の智慧にはすでに十分に親しまれていることがあるかもしれません。そうした事は、日本の読者が、この書を読んで自分で判断して頂ける事柄です。


意味論はまだ年若い科学です。意味論が前進するためには、多くの国々で、種々の文化的背景の中で、言語と行動の諸関係を研究している学者・研究家の人たちの協力を得なければなりません。日本の、文学・哲学・心理学・社会学の研究家諸氏が、この書を読まれて後、日本の生活・経験・思考を照らし合わせ、この書に述べられている意味論の諸原理を、進んで拡張し、訂正し、修正して下さることを、著者は切に希望しているものであります。(序はここまで)

 

次は本書の19章(最終章)に書かれた、

ポイントまとめのようなものです。

 

●地図はそれが代表する現地ではない。

 コトバは物ではない。
 地図は現地のすべてを表すものではない。

 コトバは何についてもすべてを言い尽くす
 ものではない。

 地図の地図、地図の地図の地図、等々は、

 現地に関係づけ、または関係なく、

 無限に作り得る。

 

●コトバの意味はコトバの中にあるのではない。

 意味はわれわれの内にある。

 

●文脈が意味を決定する。
 ・僕は魚が好きだ。

  (料理した、食べられる魚のこと)
 ・彼は魚を捕まえた。(生きた魚のこと)
 ・酒のサカナ。(魚でなくともよい)

 

●「である」(is)という語の正体を知れ。

 単なる助動詞(”he is coming”)として

 使われるのでない場合、

 それは評価錯誤(misevaluations)を

 定着させることがある。
 ・草は緑である。(だが、われわれの神経系が

  果たしている役割が述べられていない)
 ・ミラー氏はユダヤ人である。

  (抽象のレベルの混同に注意せよ)
 ・仕事は仕事である。(これは指令である。

  事実の叙述と混同しないこと)
 ・物はそれがある状態におけるものである。

  (これが言語の規則として理解されていないと、

  分類には、種々の方法があり、あらゆるものは

  変化の過程にあるものだという事実を無視する

  危険をはらむ)

 

●まだかけられていない橋を渡ろうとするな。

 指令的叙述と情報的叙述を区別せよ。

 

●「真」という語にある少なくとも四つの意義を

 見分けること。
 1)ある茸は毒である。(もしこれを「真」と

  呼ぶなら、その意味は、それが実証でき、
  また、されている報告である。
 2)サリーは世界で一番愛らしい少女だ。

  (もしこれを「真」と呼ぶなら、その意味は、
  われわれがサリーに対してそのように

  感じているということだ)
 3)あらゆる人間は生まれながらに平等である。

  (もしこれを「真」と呼ぶなら、その意味は、

  それがわれわれが従うべしと信ずる指令である、

  ということである)
 4)(X+Y)²=X²+2XY+Y²

  (もしこれを「真」と呼ぶなら、その意味は、

  この叙述は、代数と呼ばれる言語でなされ得る

  叙述の体系に合致する、ということである)

 

●「火に火を以て戦おう」としたくなった時は、

 消防士はたいてい水をもって戦うものだ
 ということを思い出せ。

 

●二値的考え方は、考えの始まりにはなるが

 舵取りの用具にはならない。

 

●定義に用心せよ。

 それはコトバについてのコトバである。

 できるだけ、定義で考えるよりも、実例で考えよ。

 

●見出し番号と日付を使え。

 いかなる語も正確には二度と同じ意味を持たない

 ということを思い出すために。
 ・牡牛1は牡牛2ではなく、

  牡牛2は牡牛3ではない・・・
 ・スミス(1963年の)はスミス(1964年の)

  ではなく、スミス(1965年の)は

  スミス(1974年の)ではない・・・

 

S.I.ハヤカワ『思考と行動における言語』19.内の秩序と外の秩序 より

 

 

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●2021.9.1~2023.12.31記事タイトル一覧は

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