寺子屋塾

改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その10)

お問い合わせはこちら

改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その10)

改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その10)

2023/06/15

昨日投稿した記事の続きです。

 

改めて、「書くこと」と「教えない教育」の

関係を明らかにするというテーマを設定して

書き始めたこの記事ですが、

今日で10回目となりました。

 

これまでのプロセスが見えないと、

いきなりこの記事を読まれても

主旨が伝わりにくいとおもいますので、

記事の最後に関連記事のリンク集を

貼り付けておきます。

 


昨日は、加藤哲夫さんの

『加藤哲夫のブックニュース最前線』のうち、

平井雷太さんの『らくだのひとり歩き』を

紹介している箇所の前後を引用しました。

 

わたしもその部分を読み返したのは

久しぶりだったので、

そこに何が書かれていたのか

記憶が朧気で憶えていなかったんですが、

再読してみて正直ビックリ!でした。

 

昨日の記事にも書いたんですが、

わたしが高校3年生の頃から人生の師として

ずっと私淑してきた高橋悠治さんの

最初の本を出した出版社が晶文社で、

その晶文社で編集の仕事を長くされていた

津野海太郎さんは悠治さんの

室内オペラ「可不可」で演出をされたり、
悠治さんが始めた『水牛通信』の編集で

長く関わっておられたりした方だったので。

 

また、今月になってこのblogで

ブレヒトの名言を採り上げた記事

書いたばかりだったので、

自分がこの記事をこういう形で

blogで紹介することが

だいぶ前から決まっていたかのような

錯覚に陥ったのでした。

 

〝いま〟に時間をフォーカスしながら

日々文章を書いていると、

時々こういうことが起きるんですが・・・

 

あと、昨日投稿したblog記事の

トップ画像の右側に、

加藤さんが2002年に出版された

『市民の日本語』という本があったんですが、

あれは何だったかをひとこと。

 

ちょうど1ヶ月近く前に、

吉本隆明さんが、

〝対幻想〟について説明されているところで、

自分ひとりの個人的なことについて書く

「個人幻想」的言語と

社会や国といったパブリックなことについて書く

「共同幻想」的言語だけだと

何かが足らない、不十分だと感じられたことを

いかに解決するかを考えられて、

親子、夫婦、兄弟姉妹などの家族や

恋愛関係といったものを「対の関係」として一般化し、

それについて書く「対幻想」的言語が

その間に必要であるという話があったんですが、

憶えていますか?

「対幻想的やりとり」ってどんなコミュニケーション?

 

もちろん、吉本さんがつくられた

3つの幻想領域分野とは、次元も観点も

ともに異なる表現ではあるんですが、

加藤哲夫さんが90年代後半から

2011年亡くなられるまでにされたお仕事の中核部分を

端的に表現するならば、

日本社会に「市民の言語」を使える領域を

根付かせようとされたことというふうに

わたし自身は受けとめていたためです。

 

 

さて、本日のメインコンテンツについて。

 

加藤哲夫さんの遺された文章から

「書く」ということに触れた内容のものを

いくつか紹介しようとおもっているんですが、

今日は1996年6月の「日刊考現学」に

載っているものを。

 

大阪にある正食協会の発行している

月刊雑誌『コンパ21』

(→現在は『むすび』と改題)の

「自分の頭で考えるために一番大事なことは、

自分の頭だけで考えないこと」と題された

原稿をご紹介。

 

1996年6月22日という日付があり、

おそらくは、その年の8月号か9月号に

掲載された文章かとおもわれます。

 

 

(引用ここから)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

自分の頭で考えるために一番大事なことは、

自分の頭だけで考えないこと


先日、 東京であるセミナーをやったときに、この「先入観、固定観念に縛られず 自分の頭で考えるにはどうしたらよいか?」という問いを参加者に投げかけて、回答をカードに書いてもらいました。いろいろな答えが返ってきました。


・他人のいうことはとりあえず1回は疑ってみる。
・自分の先入観、固定観念はつねに持っているもので、それはつきものと言ってもいいと思いますので、最近は考えないことにしています。
・考えてもたいてい失敗の方を選んでいるので、それよりも直感力を養うように努力した方がいいと思います。 
・先入観、固定観念を覆すようなことを考えだせばよい。それには常識を多分野において知っている必要がある。
・いいとか悪いとか、賛成や反対など気持ちの動いたときに、なぜそう思ったかを考えてみることから始めたい。
・何事も体験することが大切だと思う。
・自分をノーマルな状態、直感力が働く状態にしておくこと。

 

こうやってみると、いろいろな考え方があることがわかってきます。でも、「何事も体験することが大切だと思う」 と言って、オウムにとらわれた人たちもたくさんいますね。直感や感性を大切にと言う人もありますが、人の感性ほどまわりの状況に左右されやすいものはないので、これも結構危ないかもしれません。「先入観、固定観念を覆すようなことを考えだせばよい」と言っても、何が先入観か、何が固定観念か、わからないとダメですよね。実際、先入観、固定観念に縛られずに考えるって難しいんです。 だって、縛られているってわからないものですから。

 

まず、「人間の頭は先入観、固定観念の奴隷である。これは絶対に治らない」と自覚することが大切です。人の頭の構造は、常に以前経験したり、知識を持ったりしたことに即してものごとを理解しようというふうになっています。 知らず知らずのうちにものを考えるパターンができてしまっているのですが、自分ではそれに気がつきません。


これは、日常的な人と人のやりとりを見てみるとよくわかります。例えば、私が社員に何か指示をしたとします。しばらくして見ると、私が指示したことと反対のことをしているとか。あるいは、子どもに、「わかった?」と確認して、「うん、わかった!」と答えて、そのまま何も変わらないとか。


つまり、情報を伝える時、伝わる時を考えると、情報を受け取る時と発信する時の二度にわたって、ズレが生じる機会があるのです。情報のインプット時に「編集」が起きています。そして、アウトプット時にまた「編集」が起きます。テレビや新聞を見ても、その情報のすべてを記憶することはできませんから、「その人なりの理解の仕方編集」をして記憶します。そして、人に話す時や書く時も、いくつかの情報を「その人なりのパターン化した理解の仕方=編集」をして処理して発信します。これこそが、その人の先入観、固定観念なのです。ちょうど自分の顔を直接自分で見ることができないように、よほど自覚しないと見えないものです。


こうなってくると、「自分のやっていることは、自分が一番わからない」と定義しておいたほうがいいのです。 そうすれば、どうしたらよいか、自ずから考えられるようになります。つまり、「自分の頭で考えるために一番大事なことは、自分の頭だけで考えないこと」なんです。


人間の自我というものは、本当に狡猾にできていまして、自分が見たくないものは見ないで済ますことができます。オウム事件がそれを一層明らかにしましたが、人間は人を殺しても、それを「ポア」などと言い換えて、自分の意識から排除してしまうことができるのです。まわりの皆が「カラスは白い」と言っていたら、その中で「カラスは黒い」ということはとても困難なのです。それよりは、自分もカラスは白いと信じる方が楽なのです。


「カラスは白い」と一人の教組が言うと、それに賛成する人たちだけがその教組のまわりに集まってきます。黒いと言う人は切り捨てられるか、自分から離れていきます。そうして同質の人たちが「とりもち団子状態」の共同体を作るのです。この内部には、他者の視線がありません。居心地がいいのです。だから、「カラスは白い」が通用してしまうのです。


それでは、自分が見たくない自分を見るためにどうしたらよいか。自分が隠してしまっている自分に会うためにどうしたらよいか。そのためには、自分にとって耳の痛いことを言う人、あんたのやっていることはおかしいわよ!と言ってくれる人が必要です。でも、大部分の他人はあなたのことなんか無関心でしょう。ですから、そういうことを言ってくれるのは、本当にあなたのことを思ってくれる人か、それともあなたが嫌いで、隙あらばやっつけてやろうと思っている他者なのですね。

 

つまり、固定観念から逃れる方法はないのです。そういう人が言ってくれることは、自分が見たくない自分の姿ですから、それが本当の私と出会うということでもあります。何か、別のところにすばらしい光輝く本当の私がいるという物語が好まれますが、それこそこういう都合のよい自分の姿を自我が夢想しているだけなのです。

マインドコントロールや洗脳という言葉も話題になりましたが、ことはオウムやどこかの共同体だけのことではないのです。 唯一絶対の答えが先験的にあって、人々をそこに誘導するすべてのシステムは洗脳教育と言って過言ではありません。人はなぜ生きるのか?人生の意味は?などという決して正解のない問いに、唯一絶対の真理という言葉を持ち出して、人々が自分で悩み、問い続けることを奪うものも洗脳です。


洗脳されないための大事なポイントは、書くことです。同質の人の集団を作るためには、ひとり一人の違いよりも、「みんな同じよねぇ」が大事です。ですから、書くことにより、ひとり一人の異質性に目覚めることが重要な教育の課題となるでしょう。洗脳やマインドコントロールの集団は決して書かせません。書けば異質性が顕わになってしまうからです。


書くことを通してひとり一人の異質性に目覚めながら、他者からの批判を自己に繰り込むシステムを自分のまわりに作ること(あなたに同意する人ではなく、あれこれ文句を言ってくれる人を周囲におくこと)、それが「自分の頭で考える」ために最も大切なことでしょう。(了)

 

※続きはまた明日に!

 

【関連記事】

字を書くとは身二つになること

OPENな場で書くことはなぜ大切?

ブレヒト『真実を書く際の5つの困難』より(今日の名言・その60)

改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その1)

(その2)

(その3)

(その4)

(その5)

(その6)

(その7)

(その8)

(その9)

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
寺子屋塾に関連するイベントのご案内

 6/24(土) InterviewGame 4hour Session

 6/25(日) 未来デザイン考程oneday seminor

 7/9(日) 映画「VOP予告編4」ビデオ上映会

 7/29(土) 経営ゲーム塾C

 7/30(日) 易経初級講座 第13回
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

当店でご利用いただける電子決済のご案内

下記よりお選びいただけます。