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改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その5)

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改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その5)

改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その5)

2023/06/10

6/3からこのblogでは「書くこと」をテーマに

記事を投稿しています。

 

とくに6/6からは、改めて

「書くこと」と「教えない教育」との関係について

というテーマを設定していて、

今日これから書く記事は5回めになりました。

 

未読の方は、まず次の記事をご覧ください。

字を書くとは身二つになること

OPENな場で書くことはなぜ大切?

ブレヒト『真実を書く際の5つの困難』より(今日の名言・その60)

改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その1)

(その2)

(その3)

(その4)

 

さて、昨日投稿したその4では、その3で紹介した

らくだメソッドの開発者・平井雷太さんの

著書『「〜しなさい」と言わない教育』に登場した

「考現学」という言葉について、

そもそも最初に提唱した人物・今和次郎という人が

どんな人物だったか、

考現学とは何かについて紹介しました。

 

それで今日は、わたしが寺子屋塾を始めて

間もない頃に、どのような考現学を書き、

まわりの人と具体的に

どんなやりとりをしていたかという実例を

ご紹介しようとおもいます。

 

以下は、当時出していた

寺子屋塾の月刊通信『楽々かわらばん』第18号に

巻頭記事として載せたものです。

 

(引用ここから)

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だれにでも書ける考現学
毎号の表紙に「つぶやき考現学」と題した、詞のような文をのせています。この「考現学」は、日本で生まれた唯一の学術用語であり、明治時代に今和次郎という人が 「考古学」に対する言い回しから生み出した言葉なのです。つまり、土器の破片から古代を考察する学問が考古学ですから、考現学は現在を考察する学問ということになります。「学問」などとカタクルシイことを書くと、それだけで拒絶反応を示す方がいらっしゃるかもしれませんが、実は考現学はだれにでも書けるのです。なぜなら、考現学を書くポイントは、「頭を使わず考えずに書く」「目的を持たずただ書く」ことにあるからです。


らくだメソッドの指導では「評価しない」「今の自分を受容する」「情報を共有する」姿勢を大切にしていますが、考現学を書くことも、まったく同じ考え方でとりくんでいます。考現学に良いも悪いもなく、そもそも絶対的な評価など存在しないので書く内容は何でもかまいません。日々のできごとや、フッと思ったこと、読んだ本の気になった部分や、人と話したことなど、そういう言葉の破片にその人のリアルが反映されているわけですから、それを淡々と書きとめていくことが、その人の現状を浮き彫りにし、今の時代を考えることにつながるわけです。何を書いてもいいということであれば、日記と変わりませんが、日記と違う所は「他の人が読むことを前提に書く」というところだけです。


現在、毎日書いている考現学を、らくだメソッドの指導者や見えない学校ネットワークのメンバーだけでなく約30名ほどの方に月・水・金の週3回FAXで発信していますが、その中の半分ほどの人々とは、書いた考現学を相互に交換してきました。自分がフッと書きとめた考現学を、他の人に読んでもらうことで、その人が感じたことや思ったことが返ってきます。そしてその反応は、自分が思ってもみなかったものであればあるほど、また新たな気づきにつながり、気づきが気づきを生んでいく・・・こんなところに、考現学を書いてやりとりし続けるおもしろさがあるように思います。


今回はそんなおもしろさを皆さんにもすこし味わっていただけたらと、自分が6月12日に書いた考現学と、それに対してメッセージを返してくださった北海道浦河町の小山直さん(『べてるの家の本』の前書きを書かれている方)のお手紙をご紹介させていただきます。

 

 

1996年6月12日 (水)
ユーゴスラビアのピアニスト、イヴォ・ポゴレリチが今秋来日する記事を目にして
●ポゴレリチは1980年のショパンピアノ国際コンクールに出場したのですが、あまりに独創的な演奏のために予選で落選。しかし、そのときの審査員の一人で、ポゴレリチを支持したマルタ・アルゲリッチ(アルゼンチンのピアニスト)が、落選に抗議して審査員を突如辞任するハプニングがあり、ポゴレリチの名前を一躍有名にしてしまいました。

 

彼の演奏がどのように独創的なのかを具体的に説明してみましょう。たとえばショパンに「ピアノソナタ第2番」という作品がありますが、この曲の冒頭部分は「荘重に」(Grave)と記された遅いテンポの前奏で始まり、その後テンポが速くなって第1テーマが出てきます。 楽譜のその部分には「2倍の速さで」(Doppio movimento)という指示が書かれているのですが、 ポゴレリチはこれを3倍以上の速さで弾いているのです。日本人のピアニスト遠藤郁子さんは、あるラジオ番組の中で「ポゴレリチのショパン演奏は、正しくない演奏である」と評していたのですが、その話を聞きながら、「正しい演奏」とははたしてどのような演奏のことを言うのだろうか?楽譜に書かれたことを忠実に守ることばかりが「正しい演奏」なのだろうか?と問いが浮かびました。


多くの楽譜には、演奏に必要な指示が記され、言わば操作マニュアルのようなものです。演奏者にとってはなくてはならないものですし、作曲者の意図をそこから読み取ることもできるでしょう。しかし、もともと音楽というのは目に見えない「音の生き物」で、楽譜という形のあるもので完全に書き示すことは不可能だと思うのです。もちろん、過去の時代に作られた楽曲を、当時のスタイル通りに再現することは無意味な行為ではありません。しかし、作曲家とは演奏家をコントロールし支配する存在ではないのですから、作曲家も演奏家もともに芸術創造という視点から見るならば、同じ立場にあるはずです。演奏を単なる過去の再現ではなく、新たな創造行為と考えるならば、楽譜の指示を厳密に守って演奏することばかりが「正しい演奏」ではないように思うのです。楽譜はあくまで音楽を書きとめたものにすぎません。先に音楽があるのであって、先に楽譜があって、そこから音楽が創造されるのではけっしてないのです。


「ショパンが生きていた頃と、今は明らかに時代が違います。もしも今の時代にショパンが生きていたとしたら、この曲をどのように弾くでしょうか」とポゴレリチは言います。彼の演奏は、遅い部分は極端に遅く、早い部分はとてもスピーディでメリハリがハッキリしているというかドライです。 今までの演奏家が発見できなかったような部分に光を当て、斬新かつ大胆な解釈には時々ハッとさせられます。彼が今の時代をどのように把握し、どのように生きているかが彼の演奏からはひしひしと伝わってくるのですが、それは彼がショパンという過去の時代に生きた人間の作品を、他人事として演奏するのではなく、自分事に置き換え、今というこの瞬間を生きようとしているからではないでしょうか。

 

※あきのすけの日刊PU考現楽「らくらくネット」より

 

ショパン『ピアノソナタ第2番』の冒頭部分

井上淳之典様
中学生の時から四十才にもう少しで手が届く現在にいたるまで、日本のフォークに始まり、アメリカのフォーク、 ロック、ソウルからジャズを経て(いわゆる)ワールドミュージックと、大衆音楽にどっぷり浸かって生きて来たハズの私が、毎日のようにポゴレリチの弾くハイドンのピアノソナタと、ピレシュのモーツァルトを聴くようになってしまったとは、いかなる事情によるものでしょうか? それは私がどうして世界中の数多くの若者と同じようにポピュラーミュージックに魅かれてきたのかを考えれば、おのずと判ることのように思われます。

 

井上さんの紹介されていたポゴレリチのエピソード、正しい演奏に関するお話と、ショパン・コンクールでの落選のお話は、とても興味深いものでした。なぜなら、ロックでもジャズでも、スタンダードナンバーは幾多のミュージシャンによって何度でも取り上げられ、演奏されますが、それがすぐれた再演となっているかどうかの基準は、まさにそこに「新たな創造行為」があるかどうかにかかっているからです。ロックやジャズやソウルの世界では、オリジナル作へ向かっての「正しい演奏」を目指す者など一人もいないでしょう。それは彼の音楽家としての死を意味します。


私の知人に、私よりもさらに深く大衆音楽の世界に入り込んでいる人がいますが、彼は、やはりクラシックだけは聴きません。「あれは死んだ音楽だ」と言ってはばかりません。クラシック音楽を聴き始めた私は、決して彼の言葉に今は同意しませんけれども、少なくとも井上さんが紹介されているポゴレリチ音楽のエピソードは、クラシック音楽の世界には、創造性をスポイルさせるような状況もまた確実にあることを如実に示しています。私の知る限り、ロック、ポップスの世界の批評家たちは、楽曲に新たな解釈が付け加えられることこそが、もっとも肝要なことであり、「正しい」解釈など無いことを10人中10人が知っていると思います。ジャズの世界は微妙です。「これはジャズではない」という批評家達が確かに存在するからです。そういう批評家がいるということは、クラシックと多分同様そういう演奏者がいて、そういうリスナーがいるということです。そして事実として、ジャズは活力を急速に失って来ている音楽のジャンルです。


クラシックの愛好家の人たちには、にわかに信じられないことかもしれませんが、ポピュラー音楽の愛好家は、実に容赦の無い批評家です。現在、ポピュラー音楽の世界におけるワールドミュージックのレコードセールスの隆盛は、アメリカやイギリスのポピュラー・ミュージック―ロック、ジャズ、黒人音楽に必然的に訪れている停滞を、リスナーが敏感に聴き取り、まったく許してくれないからに他なりません。ちょっとでも立ち止まったら、すぐにソッポを向かれます。クラシックの世界では、20年30年と活躍しているマエストロがたくさんいるでしょう。ポップスの世界では皆無です。せいぜい10年です。それ以降は名前が残っているだけなのです。まことにきびしい世界です。ポピュラー・ミュージックの世界が巨大なビジネスであることが、こういう状況をまねいているのだと思います。そうであるようにです。新しい価値が生まれ死んでいくのです。

 

そんなポピュラー音楽の世界に、25年以上ものめりこんできた私が、急にクラシック音楽を聴き始めてしまったのです。我ながらどうしたことなのでしょうか。実は私自身、井上さんの考現学が届く前から、この事情を考えはじめていたのでした。今回の考現学は私にこの手紙を書かせるために届いたのです。


何故私はロック、ジャズ、黒人音楽などの大衆音楽に心が動かなくなったのか?一言で言うと、「楽曲の中に札束を数える音が聴こえてウルサクてしょうがない」からです。音楽は、結果として売れるのです。我々の商売と同じなのです。「売るため」の音楽が多すぎるのです。いや、売るための音楽だってむろんあっていいのです。例えばある演歌の歌い手は、曲が売れてお金になることを、何の照れもなく願っています。彼らは立派な「芸人」なのです。小賢しい「アーティスト」などではありません。特に我が国のポピュラー音楽の世界には、本当は「売れる」ことが気になっている自称アーティストが多すぎます。ようするに、「志」が低すぎるのです。私はそれに嫌気がさしてしまったのです。私が毎日のように今聴いているポゴレリチやピレシュやアシュケナージが、どのくらい音楽でかせぐものなのか、私は知りません。知らなくてもよいのです。何故なら、彼らがいくらかせごうとかせぐまいと、彼らの音楽には何の影響もないだろうからです。音楽への「志」がちがうのです。


ポピュラー・ミュージックの世界に、志の高い人が現れると、本当にうれしいです。最近ではカサンドラ・ウイルソンという若い女性ジャズ・シンガーがスンゴイです。これはマスコミでもかなり評判になりました。1年半前、遠藤賢司という歌手が来てコンサートをしました。聴衆は30人程でしたが、中身は志の高さで天井が抜けてしまほど「純」な歌でした。そしてこの2年間、もっとも聴いた歌が、早川義夫という人のCDです。

 

「伝えたいことと、伝えたい人がいれば、才能がなくとも歌は生まれると僕は今でも思っている」

「音を記録するのではない。空気を記録するのだ。 加工しなくていい。何かをいじると、必ず何かがゆがむ」

 

こういうことを語る早川氏に、私はこの2年すっかり参ってしまって、清水義晴さんにも、映画VOP(ベリオーディナリーピープル)のカントク四宮鉄男さんにも紹介したところ、やっぱりお二人とも早川義夫を気に入ってしまったようです。早川義夫の歌の世界は、私にとってVOPの世界と同じものなのです。低いところから、ありのままを、弱い姿に納得して、何かを信じているような場所が早川義夫の歌です。
私は四宮さんと会って、映画の中の「本当」について語り合っているうちに、いわゆる劇映画が、全然つまらなくなって困ってしまいましたが、早川義夫の歌にも同じような力があります。四宮さんがこう言ったことがあります。

「劇映画の良い悪いは、ようするに、感動させる技術の巧拙なんですよ。」

これは私には衝撃的な言葉でした。四宮さんが以前に言われた「感動させない映画を目指しています」という言葉の意味が、その時はじめて分かったからです。そして早川義夫の歌も、「感動させる技術」をみがくことを最初から否んでいる歌なのです。

 

井上さんの考現学に誘われて、気の向くままに、好きに書いていたら、どこまでも脱線して行きそうな雲行きになってきました。書いていると、どんどん連想が結びついていくので、本題からますますハズれていきそうで止めます。VOP予告編3にも話が行きそうなのですが、もう収拾がつかなくなるので、本当にこれで止めます。
またそのうち何か送るかもしれません。失礼しました。

それでは、また。 小山直

 

小山さんのお手紙を拝見して、自分にもまたたくさんの思いが沸き起こって来ました。今までポピュラーミュージックや大衆音楽にどっぷり浸かってきた小山さんが、日々クラシック音楽を聴くようになってしまった経緯が書かれている部分からは、生きるということは変わるということ、日々変化していく自分に気づいていくこと、そういうプロセスを公開し互いに共有すること、ありのままの自分を受け入れて行くことなど、自分が日々考現学を書くことでテーマとしていることが伝わってきて、これぞまさしく小山さんにとっての考現学なんだなと思うのです。また、今回の考現学は小山さんを意識しながら書いたわけではないのに、小山さんにとってちょうどいいタイミングで届いたようで、人の意識は遠く離れていてもどこかでつながっているのかもしれません。そんなことを思わずにいられないできごとでした。


また、ポゴレリチの演奏に端を発した「正しい演奏」の話題は、「正しい教育」「正しい生き方」と置き換えられるように思います。わたしたちは「正しい教育」を探し求め、これこそが「正しい教育」であると思い込んだり、これこそが「正しい生き方」であると、無意識に人にも押しつけてしまってはいないでしょうか。 いいえ、押しつけることがいけないのではありません。押しつけることも時にはあってよいでしょう。しかし、押しつけられたくないことを押しつけられたとき、人は反発を感じて感情的になるか、聞き流しスルーしてしまうかいずれかです。 自分は押しつけたつもりでなくても、相手が押しつけられたと感じることもあるでしょう。押しつけであると判っていて、相手が押しつけられたくないと思っていることも判っていて、それでもなお押しつけてしまうこともあるかもしれません。意識的にこうしようと思っていても、なかなかその通りにはできないのも現実だからです。判りやすい例を挙げるなら、お母さんが子どもに「勉強しなさい」と言っても、そう言うことで子どもがすすんで勉強するようになることはほとんどないのにもかかわらず、でもつい「勉強しなさい」と言ってしまったり・・・。ですから、こんなふうに考現学を書いてまわりの人とやりとりしてみることで、「これが正しい」「相手にとって良かれ」と無意識にやってしまっていることをまず自覚することから始めたいと思うのです。


ポゴレリチの演奏が面白いと感じるわたしのようなリスナーが存在するのと同じように、遠藤郁子さんのショパン演奏を好んで聴きたいというリスナーもまた存在するのですから、どちらが正しいか間違っているかを論じたいわけではありません。そういうそれぞれの価値観をお互いに認め合って行くことや、音楽を作る人と聴く人、障害者と介護者、医者と患者、先生と生徒、親と子というような、人と人との関係性そのものを考え直すことができるわけですし、こんなやりとりの中から生まれてくる気づきのなかにこそ、それぞれがその人らしく、楽にイキイキと生きられるヒントが隠れているのではないでしょうか。これこそが、寺子屋塾の重要なテーマであり、またべてるの家の映画VOPにも通ずるテーマであるように感じています。

 

※1996年7月『楽々かわらばん』第18号より

※「らくだ教材」を現在の表記「らくだメソッド」とするなど、文意を変えてしまわない程度に文中の言い回しなどを読みやすく書き換えました

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(引用ここまで)

 

さいごに、ポゴレリチが1980年に行われた

ショパンコンクールの予選で弾いた

ピアノソナタ第2番の動画が

YouTubeにあったので貼り付けておきます。

 

他のピアニストとどこが違うか

聴き比べてみてください。

 

Pogorelich: Chopin Sonata No.2 (live from Chopin Competition)

 

【関連記事】

「家族」って何だろう?(26年前に書いた原稿から)

早川義夫『たましいの場所』より(「今日の名言・その5」)

 

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