寺子屋塾

改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その9)

お問い合わせはこちら

改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その9)

改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その9)

2023/06/14

昨日投稿した記事の続きです。

 

改めて、「書くこと」と「教えない教育」の

関係を明らかにするというテーマを設定して

書き始めたこの記事も、9回目となりました。

 

平井雷太さんの『生きるとは、生かされること』の

巻末に収められた

加藤哲夫さんの解説文が書かれたのは、

1995年のことです。

 

冒頭に平井雷太さんとの初めての出会いについて、

3年前つまり、1992年夏に

福島県いわき市で開かれた

こども・いのちの祭りでのことだったとありました。

 

実は奇遇なことに、こども・いのちの祭りの場には

わたし井上もいて、その場で

平井雷太さんと初めてお目にかかったのです。

 

ただ、わたしが加藤哲夫さんとお会いするのは

平井雷太さんの企画された講座を通じてのことで、

もう少し後のタイミングになるんですが。

 

加藤哲夫さんが「考現学の可能性」を書かれたのは、

もう28年も前になるんですが、

その場にリアルで立ち会ってきたわたしが

時間の隔たりを感じないのは

当然のことかもしれません。

 

でも、たとえば(その4)でご紹介した

今和次郎さんの文章が書かれたのは

ほぼ100年前になるわけですが、

わたしには、時間の隔たりが感じられず、

いまという時代を浮き彫りにしようと

書かれた文章には、無時間性というか、

時間を越えた永遠性のようなものが

宿るのかもとおもえてきました。

 

解説文として書かれた加藤さんの文章にも

解説が必要なくらい中身の濃いお話でしたね。笑

 

1993年、加藤哲夫さんが

考現学を書き始められたその年には、わたしも

ニュースクール研究会のメンバーとなって

考現学を書いていましたし、

その翌年には、寺子屋塾を始めたので、

加藤さんが主宰されていた

『エコロジー研究会』にも入会しました。

 

 

さて、今日の本題です。

加藤さんが書かれた6年分の考現学や

さまざまな冊子記事、書籍などが手元にあり、

これまでさまざまな考現学を紹介してきた流れで

そうした中からもう少しご紹介しておきたく、

今日は『加藤哲夫のブックニュース最前線』より、

平井雷太さんの『らくだのひとり歩き』を

紹介している部分をご紹介しようとおもいます。

 

しかも、さらに奇遇なことに、その直前には

高橋悠治さんとも親交のある津野海太郎さんや

今月初めに「今日の名言シリーズ」で紹介した

ブレヒトの話まで登場していました。

 

『加藤哲夫のブックニュース最前線』には、

雑誌「自然食通信」に13年間書き続けた記事

48本の原稿が収められているんですが、

そこに登場する本の冊数は何と700冊!

 

単なる書評記事ではなく、

加藤さんの仕事や活動のレポートに

さまざまなジャンルの

複数の書物の紹介が載せられ語られていくという

独特のスタイルで、

まさに〝考現学〟的ブックレビューなのです。

 

(引用ここから)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
・・・そうそう、『歩くひとりもの』(思想の科学社刊)を書いた晶文社の編集者・津野海太郎さんもひとり者だ。この本には、彼のひとり暮らしの断面が読む者をここちよくさせながら、ふと立ち止まって考え込むように描かれている。この本の中に、かなりの夫婦は、ひとりで考えると同時に「関係そのもの」で考えている、ということにある時気づくところがある。

 

そして、「脳髄ではなく全身の細胞が考えるように、自分ではなく自分を含む関係の網の目が考える。私ではなく私を含む小グループが考える。もしそうだとしたら、そこから、自分が変わるためには自分をふくめた関係の網の目を変えなくてはならない、という結論がみちびきだされてくるのは当然のなりゆきなのだ。」という。夫婦だけではなくて、共同の仕事を小さなグループでやっていると、この「関係の網の目が考える」ということが実感としてよく分かる。実際、ひとりの脳髄が考えているものなんて僅かなものなのだ。


津野さんが、谷川道子著『聖母と娼婦を超えて ブレヒトとおんなたちの共生』(花伝社発行/共栄書房発売)やルート・ベアラウの回想録『ブレヒト・私の愛人』(晶文社刊)などを手がかりに、ブレヒトの仕事のすすめ方を解きあかしていく章も、この「関係の網の目が考える」という視点から示唆に富むものだ。

 

前号に書いた、お店のスタッフとやっているカードを使った考現学なども、関係の中で考えていく試みのひとつだと思う。店の棚なども、多数のお客様と複数のスタッフの関係の網の目が考えていく結果だ。私は原稿を書いても、必ずスタッフやつれあいに見てもらい、わからない表現を指摘してもらって直している。(その割にヘンな表現が多い?)それも関係の中での表現に近づくためのものだった。


そんなことを考えていたら、平井雷太さんの『らくだのひとり歩き』(社会評論社刊)が机の上にある。そうか、平井さんはずっとセルフラーニング(ひとりで学ぶ)ということを追求してきたから、「セルフラーニングとはネットワークを編集することだ」という結論がでてきたんだ。ひとりで学ぶということは、孤立して生きるということを意味しない。むしろ関係の網の中でなければ学べないということを痛感するのだ。

 

そして自分の好きな人やネットワークから学ぶのではなく、なりゆきにまかせて新しい人との出会いの中から学びが始まるということを言っているのは、津野さんが、「自分が変わるためには、自分をふくむ関係の網の目を変えなくてはならない」と言うのとつながる。自分の好みで選んでいては、いつまでたっても関係の網の目が変わらないのだ。平井さんはそれを「おのれの選択 一人の世界」という言葉にしている。


私は前からお店の「広場性」ということを言ってきたが、それは自分の好みの人とばかり会うわけにはいかないからいいのだ、ということがあったのだ。小さなグループはどうしても旗印や趣旨賛同の人たちが集まり、違った考えの人は居づらい。お店がそうであっては成り立たない。エコロジー事業研究会の例会でも、なぜ繁盛しないのか?という切実な質問が出されたりする。ここのところもキーポイントだ。エコロジー事業研究会の会報『エコ・ファイル』にこんなことを書いた。

 

お店がお客様を選ぶのではない。お客様がお店を選ぶ。結果としてそのお店のポリシーや店主の人柄などを理解する人々がお店につく。
往々にして、自然食品やエコロジーを看板にしているお店は、「こんな考えを持った人をお客さんに欲しい」と考えて、自分の理想のお客様像に外れるお客様を、ものたりない思いや批判の心で見ている。そんな空気を感じるからだんだんお客様が減っていく。そうするとますます、お客様を批判の目で見てしまう。そういうお店の経営者はなぜ自分の店が繁盛しないか分からない。


なりゆきにまかせて、新しい人との出会いの中から学びが始まる。それが広場性を持つお店のポイントなのだ。

 

※この続きはまた明日に!

 

【関連記事】

字を書くとは身二つになること

OPENな場で書くことはなぜ大切?

ブレヒト『真実を書く際の5つの困難』より(今日の名言・その60)

改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その1)

(その2)

(その3)

(その4)

(その5)

(その6)

(その7)

(その8)

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
寺子屋塾に関連するイベントのご案内

 7/9(日) 映画「VOP予告編4」ビデオ上映会

 7/29(土) 経営ゲーム塾C
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

当店でご利用いただける電子決済のご案内

下記よりお選びいただけます。