『世界は贈与でできている』読書会への参加覚え書き(その5・最終回)
2023/08/17
寺子屋塾生・本田信英さんの主催で
2022年7月から2023年5月まで
お題本とする読書会が
9回にわたって行われました。
その読書会に全回参加したことをふり返って、
わたし自身の憶え書きにするつもりで
8/13から記事を書き始めたんですが、
今日のこの記事が5回めです。
したがって、これまでのプロセスが
ある程度見えないと、
主旨が伝わりにくいこともありますので、
過去4回の記事を未読の方は、
記事の最後にある関連記事のリンク集から
適宜アクセス下さい。
これまでの記事では、読書会の場のつくり方や
本の内容に触れてきましたが、
昨日投稿した4回目の記事では、
ウィトゲンシュタインが
〝教えない教育〟の先駆者であったとか、
そのことから派生して、
寺子屋塾で提供している学習プログラムのことや、
「教育は等価交換のサービス活動ではない」という
わたし自身の教育に対する考え方との
関わりにも言及しました。
まあ、こんな調子で書き続けて行くと、
10回でも20回でも書けそうな雲行きなんですが、
キリが無いですし、
本田さんの読書会が充実したものであったことや、
わたしが近内さんのこの本を
とても良い本だと受け止めたことは
十分お伝えできたでしょうから、
そろそろ区切りにしようとおもっています。
さて、まずは前記した
「教育は等価交換のサービス活動ではない」
という話についての補足から。
寺子屋塾では、自ら学ぶ力を身につけることに
主眼をおいているので、月会費のしくみは
他の学習塾とは著しく異なっていて、
学んでいる教科の数や、通塾日数、
学習したプリントの枚数に関わらず
一律10,000円としてきました。
なぜ一律10,000円なのか、また、
なぜこういうしくみにしているかについては、
改めて別途に記事を書くつもりですが、
そのもっとも大きな理由のみ端的に述べるなら、
近内さんが第2章で書かれていたように、
教育という社会システムは、
倫理や義務感、誇り、プロ意識、勇気といった
定量的に測ることの出来ない内的動機に基づいて
成立しているため、
交換の論理では基礎づけられないと
わたし自身も考えているためです。
レストランにバイキング方式がありますが、
寺子屋塾ではどれだけ学んでも
一律10,000円/月ですから、
学びたい放題の学習バイキングと呼んだほうが
わかりやすいかもしれません。笑
この世界はもともと贈与に満ちていて、
そうした贈与を受け取ることができる
想像力を鍛える行為を〝学習〟と呼ぶと
昨日の記事に書いたんですが、
寺子屋塾で学習目的としている
自ら学ぶ力を身につけることというのは、
まさに、贈与を受け取る想像力を
日々鍛える行為そのものでしょうから。
また、「この世界はもともと贈与に満ちている」
というフレーズからわたしがおもいだすのは、
この近内さんの本には
登場しないんですが、『歎異抄』後序に出てくる
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人がためなりけり、
されば若干の業をもちける身にてありけるを、
助けんと思し召したちける本願のかたじけなさよ」
という言葉です。
「五劫」の劫とは時間の単位で、
気が遠くなるほど長い時間という意味で、
平たく口語訳するなら、
阿弥陀の本願があり、お釈迦さまの教えがあり、
インドや中国の偉いお坊さんの教えがあり、
そして法然上人からわたしが受け取ったこの教えを
つらつら考えてみるに、
これは親鸞ただ一人が救われるためだけにある、
こんな罪深いわたしのために、
なんてもったいない話だろうか・・・
といった意味なんですが。
わたし一人が救われる為だけに
阿弥陀が五劫も思惟していただなんて、一見
すごい傲慢な言い方のようにも聞こえるんですが、
見えない贈与を受け取り、贈与に気づく
想像力という切り口からみれば、
親鸞上人は贈与の受け取り名人であって、
これ以上謙虚な言葉もないように
わたしにはおもえてきます。
また、「家庭」でもなく、「学校や職場」でもない
サードプレイスというポジションを
自認する寺子屋塾は、
かねてから、教育批判をしない教育活動
であるとか、
学校教育や家庭教育ではできない教育を
やろうとしている場などと
紹介してきました。
近内さんの本のサブタイトルにある、
資本主義の「すきま」を埋める倫理学
という言い方を拝借するなら、
既存の学校教育や家庭教育、社会教育などで
どうしても埋まらないような
教育の「すきま」を埋めるニッチな存在
と言えるかもしれません。
あと、本書の第8章で
とりわけ印象に残っていて特記しておきたいのは、
後半部分で、アルベール・カミュの
『シーシュポスの神話』が紹介されていた箇所です。
休みなく岩をころがして
永遠に山の頂まで運び上げるという
無益で希望のない刑罰を課された
シーシュポスの存在が、
何も起こらないようなあたりまえの日常が、
じつはあたりまえではなく、
顔も名前もわからない、
無数の無名のアンサング・ヒーローによって
支えられているという話と
関連づけながら語られていたんですが、
「ああ、こういう理解の仕方があるんだ」と
おもわず膝を打ちました。
このblogで5月に投稿した
・贈与読書会で40年ぶりに出会い直した『シーシュポスの神話』のこと
の記事では、
カミュの『シーシュポスの神話』全文を紹介し、
その最後に、
不条理な刑罰を課されたシーシュポスが
なぜ「すべてよし」と判断し、
なぜ幸福なのだと想わねばならぬと言えるのか、
考えてみてください。
と書いたんですが、
ご自身で何らかの答は出せましたか?
いや、これって難しいですよね〜
近内さんも、カミュの書いている寓話について
けっしてその寓意はわかりやすくはないと
書かれているんですが、
何も起こらないような日常は
じつは、あたりまえにあるのでなく、
獲得しなければ実現しないものであって、
シーシュポスのような、
一見不条理な存在を、
この世界が無秩序で混乱に満ちた場所になるのを
未然に防ぎ続ける存在の比喩と捉えられた
近内さんの慧眼に心底から納得したものです。
また、アンサング・ヒーローの話は
わたしが尊敬して止まない
吉本隆明さんや渡辺京二さんが
無名性に一番価値があるということを
繰り返し書かれていたことにも
つながるように感じました。
さて、5回にわたって書いてきたこの記事も
そろそろ閉じようとおもうんですが、
著者の近内さんへのインタビュー記事2本と
著者近内さんのお話が直に聞ける動画として、
だいまりこさんのYouTubeチャンネル
「未来に残したい授業」にアップされている3本を
シェアしておきますので、
記事を読まれて関心を持たれた方は
ご覧いただき、
ぜひ手に取られて読んでみてください。
・2020.9.9 世界は贈与でできている 〜哲学研究者 近内悠太さんインタビュー
・2022.8.2 『世界は贈与でできている』近内悠太氏へのロングインタビューで見えた”日本人の真髄”
【オンライン読書会あります!】
あと、最後にお知らせなんですが、
近内さんのこの本をお題本として、
オンライン読書会がありますので、
記事を読んで関心を持たれた方は是非どうぞ!
【本田さんが書かれた読書会の記事】
【関連記事】
・『世界は贈与でできている』読書会への参加覚え書き(その1)
・『世界は贈与でできている』読書会への参加覚え書き(その2)
・『世界は贈与でできている』読書会への参加覚え書き(その3)
・『世界は贈与でできている』読書会への参加覚え書き(その4)
・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』より(今日の名言・その29)
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・改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その24・最終回)
・カミュ「生きることへの絶望なくして、生きることへの愛はない」(今日の名言・その52)
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