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ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」

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ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」

ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」

2023/01/27

金曜は読書関連の話題を投稿しているんですが、
昨日の記事で紹介した細谷功さんのダブリングに

関連した話題で、

ウィトゲンシュタインの哲学についての

オススメ入門書を2冊ご紹介しながら

「言語ゲーム」について書いてみようかと。

 

最初に、なぜダブリングから

ウィトゲンシュタインの言語ゲームにつながったか

について書いておこうとおもうんですが、

昨日の記事で書いたとおり、

細谷功さんのダブリングというのは、

対で語られがちな2つの言葉の〝関係性〟という

目に見えないものを

2つの円のつながり具合という

とてもシンプルなスタイルで表現し

可視化できるという点において、

非常に画期的な優れているものです。

 

それで、これとかなり近いことを

〝言語の存在そのもの〟に対して考えていたのが、

20世紀最大の哲学者の一人と称されている

ウィトゲンシュタインの分析哲学であり、

「言語ゲーム」ではないかって

おもったからなんですね。

 

去年の8月に「今日の名言」シリーズで

ウィトゲンシュタインの言葉を取りあげた記事にも

書いた話なんですが、

ウィトゲンシュタインは、

「そもそも哲学の果たす役割は?」という問いに対し、

とても興味深いたとえを使って答えていました。

 

「ハエ取り壺に捕まってしまったハエに出口を教える」

というのが哲学の役割だというのです。

 

へぇ〜、面白いな〜っておもいませんか?

 

ウィトゲンシュタインの

生前に出版された唯一の哲学書『論理哲学論考』で

彼が展開しようとした問いは、

「なぜ、言葉は意味を持ち得るのか?」とか、

「言葉で語れる限界はどこなのか?」っていう

言葉に対する根源的な問いだったんですが、

ふつうの人間は、そんなこと考えないですよね?

 

つまり、哲学者というのは、

ハエ取り壺(哲学の迷路)に捕まってしまった

ハエ(病人)なんだと。

 

たとえば、

パスカルは、「人間は考える葦である」とか、

デカルトは、「我思う、故に我あり」とか、

人間というものに対して、

いろいろなことをもっともらしく言っているけれども、

そんなふうに哲学者は、

言葉では本来語りえないようなことまでを

あたかもそれが事実であるかのように

語ろうとしてしまう言葉の〝病〟意味の〝病〟に

かかってしまっているんだと。

 

だから、そもそも哲学の役割とは、

哲学という迷路からの出口を示すこと、

つまり、そうした病人に対する〝治療〟なんだと。

 

たとえば、ハイデガーという哲学者は、

「存在の意味とは何か?」という

誰もが自明だと疑わなかった問いを改めて投げかけ

『存在と時間』という本を書いて、

世界を震撼させました。

 

もちろん、それはそれでだれもが成し得なかった

スバラシイことであることに違いないんですが、

健康で正常な精神をもった人間は

「存在の意味とは何か?」なんてことに対して

ふつうは問いを持たないし、考えませんよね? 笑

 

・・・で、ウィトゲンシュタインは、

『論理哲学論考』で展開した、

言葉が構成している要素と

事実との対応関係を明確に示して

言葉で語れる限界を示せばいいとした

自らの考えには欠陥があることに気づいて、

その考えを、日常言語の範囲まで

さらにおし進めようとしたものが、

「言語ゲーム」という考え方だったんです。

 

つまり、『論理哲学論考』で展開された考え方は、

数学の定理のようなものとか、

哲学の定義といった閉じた学問の

限定された範囲の命題であれば成り立つけれど、

わたしたちが日常使っている言語は、

学問のように閉じた体系ではなく、

必ずしも、言葉が構成している要素と

事実との対応だけでは説明しつくせないことが

出て来てしまうので。

 

たとえば、

「雨が降って来た」という命題について言うと、

必ずしも「雨が降っている」という事実だけを

限定的に示しているわけではなく、

「さっきまで晴れていたのに」ということや、

「いまにも降りそうな空模様だったから、やっぱり」

といった意味も含んだりしています。

 

つまり、言語というのは、

それ自体がひとつの体系を持っているもので、

その言葉と意味が一対一で

対の関係で対応しているわけではなく

その言葉が使われるさまざまな〝文脈〟によって

多種多様な意味を持ち得る

変幻自在な動的存在なんだと。

 

さっき、『論理哲学論考』では、

「なぜ、言葉は意味を持ち得るのか?」という問いを

展開しようとした、と書いたんですが、

そもそも、意味に先立って

言葉がもともと存在しているわけではなく、

わたしたちの生活の側に意味が内在していたことに

ヴィトゲンシュタインは気づいたわけで。

 

たとえば、将棋というゲームでは、

「王将」とは何なのかとか、どんな人物なのか、

その性格や好みを知ろうとしても仕方が無く、

「王将」というコマの使い方、動かし方を知って

ゲーム全体を理解することが大事ですよね?

 

つまり、言語の意味とは、辞書の中にはなくて、

「言語の使い方」を知ることそのものなんだと。

 

わたしたち人間は、言語というゲームのなかにいる

コマのような存在なんだと。

 

わたしたちが言葉を喋ることができるのは、

あらかじめ定められた日本語の文法(ルール)という

固定された静的なものを、

学校の国語に時間に習ったからでも、

常にルールを念頭に置いて意識しながら

語っているからでもありません。

 

言語というものに先だって、日常的な行為や生活があり

その日常的な人とのコミュニケーションの中で

その意味を後天的に

身につけられて来たからなんですよね?

 

つまり、言語について考えるべき重要な問いは、

「なぜ、言葉は意味を持ち得るのか?」ではなく、

「なぜ、人間のコミュニケーションは成立するのか?」
「なぜ、同じ言葉が伝わったり、伝わらなかったり

 するのか?」であったんだと。

 

これは、コロンブスの卵と一緒で、

知ってしまうと「な〜んだ、当たり前じゃないか」って

ことなんですが、

最初に気づいた人はスゴイ!ってことなんです。

 

・・・ということで、難解とされる

ウィトゲンシュタインの哲学について

とてもわかりやすく書かれたすぐれた入門書2冊を

紹介しますので、

この先は、ぜひ本を読んでみて下さい。

橋爪大三郎『はじめての言語ゲーム』

永井均『ウィトゲンシュタイン入門』

 

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