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贈与読書会で40年ぶりに出会い直した『シーシュポスの神話』のこと

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贈与読書会で40年ぶりに出会い直した『シーシュポスの神話』のこと

贈与読書会で40年ぶりに出会い直した『シーシュポスの神話』のこと

2023/05/16

今年の1月に、

「今日の名言シリーズ」カテゴリの記事で、

アルベール・カミュの不条理をめぐっての言葉

紹介したことがありました。

 

そこにも書いたんですが、

わたしが『シーシュポスの神話』を

初めて読んだのは20歳のときです。

 

高校時代に自分にとって一番親しかった友人が

自死してしまい、

絶望に打ちひしがれるなかで、

生きることの意味を追い求めて

人生の不条理といかに向き合うべきか考えるなか、

この本に出会ったのでした。

 

昨年から塾生の本田信英さんが

読書会を開催している

近内悠太さんの『世界は贈与でできている』8章に

シーシュポスの神話のことが出て来ていて、

40年以上前に読んだこの本のことを

おもいだしたのです。

 

『シーシュポスの神話』は、

小説でも論説文でも随筆でもなく、

かといって哲学書でもないといった

カミュが書いた不思議な文章を集めた

当時の文庫本で200ページほどの分量がある文集で、

この文集の最後に置かれた章で、

タイトルにもなっている「シーシュポスの神話」は

本全体の1割にも満たないような

6ページほどの短い文章なので、

今日はそれを全文ご紹介することにしました。


休みなく岩をころがして

永遠に山の頂まで運び上げるという

無益で希望のない刑罰を課されたシーシュポスが

なぜ「すべてよし」と判断し、

なぜ幸福なのだと想わねばならぬと言えるのか、

考えてみてください。

 

(引用ここから)

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神々がシシューポスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、ある山の頂まで運び上げるというものであったが、ひとたび山頂まで達すると、岩はそれ自体の重さでいつも転がり落ちてしまうのであった。無益で希望のない労働ほど恐ろしい懲罰はないと神々が考えたのは、たしかにいくらかはもっともなことであった。


ホメーロスの伝えるところを信じれば、シシューポスは人間たちのうちでもっとも聡明で、もっとも慎重な人間であった。しかしまた別の伝説によれば、かれは山賊をはたらこうという気になっていた。僕はここに矛盾を認めない。彼が地獄で無益な労働に従事しなければならぬに至った、その原因については、いろいろな意見がある。まず第一に、彼は神々に対して軽率な振る舞いをしたという非難がある。神々の秘密を漏らしたというのだ。ある時、川の神アソポースの娘アイギナがユピテルに誘拐された。父親は娘がいなくなったのに驚いて、このことをシーシュポスに陳情した。 この誘拐の事情を知っていた彼は、コリントスの城塞に水をくれるならば、事情をアソボスに教えようといった。天の怒りの雷電よりも、かれは水の恵みのほうを選んだのである。このため、彼は地獄で罰を受けた。ホメーロスはまた、シーシュポスは死の神を鎖でつないだという話を僕らに伝えている。冥府の神プルートンは、自分の支配する国にだれひとり来なくなり、すっかり静まりかえったありさまに我慢がならなかった。彼は戦争の神をいそぎ派遣して、死の神を、その征服者シーシュポスの手から解放させたというのだ。


また、ある説によれば、シーシュポスは瀕死の床で、不謹慎にも妻の愛情を試そうと思った。かれは、自分の亡骸は埋葬せず、広場の真ん中に捨てておくようにと妻に命じた。死後、シーシュポスは地獄に落ちた。そこでかれは、人間的な愛情をひとかけらも見せず、ただ言いつけにしたがうだけであった妻の振る舞いに腹を立てて、妻をこらしめるために地上に戻る許可をプルートンから得た。しかし、この世の姿を再び眺め、水と太陽、焼けた石と海とを味わうや、かれはもはや地獄の闇の中に戻りたくなくなった。召還命令や神々の怒りや警告が相次いでも、少しも効果がなかった。それ以後何年ものあいだ、かれは、入り江の曲線、輝く海、大地の微笑を前にして生きつづけた。神々は評定を開いて判決を下さなければならなかった。使者としてメルクールスがやってきて、この不敵な男の首をつかみ、その悦びから引きはなし、刑罰の岩がすでに用意されている地獄へと無理やりに連れ戻った。

 

シーシュポスが不条理な英雄であることが、すでにおわかりいただけたであろう。その情熱によって、また同じくその苦しみによって、かれは不条理な英雄なのである。神々に対するかれの侮蔑、死への憎悪、生への情熱が、全身全霊を打ち込んで、しかもなにものも成就されないという、この言語に絶した責め苦をかれに招いたのである。これが、この地上への情熱のために支払わなければならぬ代償である。地獄におけるシーシュポスについては、ぼくらにはなにひとつ伝えられていない。神話とは想像力が生命を吹き込むにふさわしいものだ。 このシーシュポスを主人公とする神話についていえば、緊張した身体があらんかぎりの努力を傾けて、巨大な岩を持ち上げ、ころがし、何百回目もの同じ斜面にそれを押し上げようとしている姿が描かれているだけだ。引きつったその顔、頬を岩におしあて、粘土に覆われた巨塊を片方の肩でがっしりと受けとめ、片足を楔のように送ってその巨塊をささえ、両の腕を伸ばして再び押しはじめる、泥まみれになった両の手のまったく人間的な確実さ、そういう姿が描かれている。天のない空間と深さのない時間とによって測られるこの長い努力の果てに、ついに目的は達せられる。するとシーシュポスは、岩がたちまちのうちに、はるか下のほうの世界へところがり落ちてゆくのをじっと見つめる。その下の方の世界から、再び岩を頂上まで押し上げてこなければならぬのだ。かれは再び平原へと降りていく。


こうやって麓へと戻ってゆくあいだ、この休止のあいだのシーシュポスこそ、ぼくの関心をそそる。石とこれほど間近かに取組んで苦しんだ顔は、もはやそれ自体が石である! この男が、重い、しかし乱れぬ足どりで、いつ終りになるかかれ自身ではすこしも知らぬ責苦のほうへとふたたび降りてゆくのを、ぼくは眼前に想い描く。いわばちょっと息をついているこの時間、彼の不幸と同じく、確実に繰返し舞い戻ってくるこの時間、これは意識の張りつめた時間だ。 かれが山頂を離れ、神々の洞穴の方へと少しずつ降ってゆくこの時の、どの瞬間においても、かれは自分の運命よりたち勝っている。かれは、かれを苦しめるあの岩よりも強いのだ。

 

この神話が悲劇的であるのは、主人公が意識に目覚めているからだ。きっとやり遂げられるという希望が岩を押し上げるその一歩ごとにかれを支えているとすれば、かれの苦痛などどこにもないということになるだろう。今日の労働者は、生活の毎日毎日を、同じ仕事に従事している。その運命はシーシュポスに劣らず無意味だ。しかし、かれが悲劇的であるのは、かれが意識的になる稀な瞬間だけだ。ところが、神々のプロレタリアートであるシーシュポスは、無力でしかも反抗するシーシュポスは、自分の悲惨なあり方を隅々までつらしめる。侮蔑によって乗り越えられぬ運命はないのである。

 

       ***

このように、下山が苦しみのうちになされる日々もあるが、それが悦びのうちになされることもありうる。悦びという言葉は言いすぎではない。ぼくはもう一度想い描こう、シーシュポスは自分の岩のほうへと戻ってゆく、そして、はじめはそれは苦しみであった。あの地上のさまざまな映像があまりにも強く記憶に焼きついているとき、幸福の呼びかけがあまりに激しく行われるとき、悲哀が人間の心のなかに湧きあがることがある。これは岩の勝利だ、いや岩そのものだ。 かぎりなく悲惨な境遇は担うにはあまりに重すぎる。これがぼくらのゲッセマネの夜だ。しかし、ひとを圧しつぶす真理は認識されることによって滅びる。オイディプスの場合も同じだ。オイディプスは、はじめはそれと知らずに運命にしたがう。かれが運命を知った瞬間から、かれの悲劇ははじまる。しかし、まさにその同じ瞬間に、盲(めし)い絶望したかれは、自分をこの世界につなぎとめる唯一の絆が若い娘のみずみずしい手であることを知る。このとき、途方もない言葉が響きわたるのだ、「これほどおびただしい試練をうけようと、私の高齢と私の魂の偉大さは、私にこう判断させる、すべてよし、と」。ソポークレスのオイディプスは、ドストエフスキーのキリーロフと同じように、不条理な勝利をこのように定式化するのだ。古代の叡知が近代の英雄的姿勢と合致する。

 

不条理を発見したものは、だれでも、なにか「幸福への手引」といったものを書きたい気持になるものだ。「え、なんだって、そんなに狭い道を通ってだと」だが、世界はひとつしかない。 幸福と不条理とは同じひとつの大地から生れたふたりの息子である。このふたりは引きはなすことができぬ。幸福は不条理な発見から必然的に生れると言っては誤りであろう。幸福から不条理な感情が生れるということも、たしかにときにはあるのだ。「私は、すべてよし、と判断する」とオイディプスは言うが、これは〔不条理な精神にとっては〕まさに畏敬すべき言葉だ。この言葉は、人間の残酷で有限な宇宙に響きわたる。すべてはまだ汲みつくされていない、かつても汲みつくされたことがないということを、この言葉は教える。この言葉は、不満足感と無益な苦しみへの志向をともなってこの世界に入りこんでいた神を、そこから追放する。この言葉は、運命を人間のなすべきことがらへ、人間たちのあいだで解決されるべきことがらへと変える。

 

シーシュポスの沈黙の悦びのいっさいがここにある。かれの運命はかれの手に属しているのだ。かれの岩はかれの持ち物なのだ。同様に、不条理な人間は、みずからの責苦を凝視するとき、いっさいの偶像を沈黙させる。突然沈黙に返った宇宙のなかで、ささやかな数知れぬ感嘆の声が、大地から湧きあがる。数知れぬ無意識のひそやかな呼びかけ、ありとあらゆる相貌からの招き声、これは勝利にかならずつきまとうその裏の部分、勝利の代償だ。影を生まぬ太陽はないし、夜を知らねばならぬ。不条理な人間は「よろしい」と言う、かれの努力はもはや終ることがないであろう。ひとにはそれぞれの運命があるにしても、人間を超えた宿命などありはしない、すくなくとも、そういう宿命はたったひとつしかないし、しかもその宿命とは、人間はいつかはかならず死ぬという不可避なもの、しかも軽蔑すべきものだと、不条理な人間は判断している。それ以外については、不条理な人間は、自分こそが自分の日々を支配するものだと知っている。人間が自分の生へと振向くこの微妙な瞬間に、シーシュポスは、自分の岩のほうへと戻りながら、あの相互につながりのない一連の行動が、かれ自身の運命となるのを、かれによって創りだされ、かれの記憶のまなざしのもとにひとつに結びつき、やがてはかれの死によって封印されるであろう運命と変るのを凝視しているのだ。こうして、人間のものはすべて、ひたすら人間を起源とすると確信し、盲目でありながら見ることを欲し、しかもこの夜には終りがないことを知っているこの男、かれはつねに歩みつづける。岩はまたもころがってゆく。


ぼくはシーシュポスを山の麓にのこそう!ひとはいつも、繰返し繰返し、自分の重荷を見いだす。しかしシーシュポスは、神々を否定し、岩を持ち上げるより高次の忠実さをひとに教える。かれもまた、すべてよし、と判断しているのだ。このとき以後もはや支配者をもたぬこの宇宙は、かれには不毛だともくだらぬとも思えない。この石の上の結晶のひとつひとつが、夜にみたされたこの山の鉱物質の輝きのひとつひとつが、それだけで、ひとつの世界をかたちづくる。頂上を目がける闘争ただそれだけで、人間の心をみたすのに十分たりるのだ。いまや、シーシュポスは幸福なのだと想わねばならぬ。

 

カミュ(高畠正明訳)『シーシュポスの神話』より

 

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