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そもそも〝わかる〟とはどういうことか?(その5)

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そもそも〝わかる〟とはどういうことか?(その5)

そもそも〝わかる〟とはどういうことか?(その5)

2023/09/17

9/11に投稿した

ウィトゲンシュタインの本紹介記事から端を発し

そもそも〝わかる〟とはどういうことかをテーマに

書き始めたこの記事も、

これで5回目になりました。

 

これまでのプロセスが見えないと、

いきなりこの記事を読まれても

主旨が伝わりにくいとおもいますが、

昨日(その4)の記事の前半で

(その1)から(その3)までを

ざっくりふりかえって総括したので、

時間に余裕のない方は(その4)から

読んで下さっても

今日の記事の主旨を把握するのに

支障ありません。

 

時間のある方は(その1)から順番にご覧下さい。

記事の最後に関連記事のリンク集を

貼り付けておきます。

 

 

さて、昨日その4では

わたしが2012年に書いた

つぶやき考現学 No.57を紹介しながら

「わかることには際限がない」と書いたんですが、

それを可視化する指標がないばかりか、

「わかる」という言葉は、

量的な意味でも、質的な意味でも使いますし、

アタマ次元での判断なのか、

カラダ次元での感覚なのか、

そのどちらが先かという問題はさておいても、

どの範囲で言っているのかについて、

まさに際限がありません。

 

それでも、人間の脳には、

つねにわかりたがっているという性質があって、

この「わかろうとする姿勢」自体はよしとしても、

性急にわかろうとしてしまうが故に

わかったつもりになりやすく、

短時間で結論を下しがちであることや、

わからないことに対して

必要以上の恐怖を感じたり、

判断の留保ができなかったりすることについては、

気をつけた方がいいでしょう。

 

去年の今ぐらいの時期に書いた記事

適切なサイズの問いを立てるのに参考になる本は?

 

で、細谷功さんの『問題発見力を鍛える』

推薦図書として紹介したんですが、

以下に書く話の大部分や図版などは、

この本に書かれていることなので、

未読の方はぜひ読んでみてください。

 

この本の第2章にソクラテスや孔子の

「無知の知」の話が登場しているんですが、

その話をわたしは(その1)の記事で触れました。

 

たとえば、次の図にあるように、

知の領域というのは、まず

「既知(知っていること)」と

「未知(知らないこと)」の

2つの領域に分けられるんですが、

後者の「未知の領域」もまた同じように

「既知の未知(知らないと知っていること)」と

「未知の未知(知らないことすら知らないこと)」との

2つに分けられます。

 

上のことを3つの円を使って包含関係で示すと

次のようになりますね。

 

何かを「知る」ということは、

知識や情報を増やすことではなくて、

知っていることと知らないことの

境目を意識することだというのが、

「無知の知」という話の骨子なんですが、

知らないと知っていることの外側がまだあるのに、

知らないことすら知らない領域に気付いていない

「無知の無知」の人がいるんだと。

 

つまり、「無知の無知」の人の世界観というのは、

次の図の左側のように、

自分が知らないということを知っている

(2)の領域が一番大きいことは認識していても、

自分が知らないことすら知らない

(3)の領域については、自分にその領域が

存在すること自体気付いていないのに対して、

「無知の知」の人の世界観は、

次の図の右側のように、

3つの領域の区別ができているだけでなく、

自分は(3)にあたる領域が一番大きいと

認識できているわけです。

 

つまり、自分が無知であること自体よりも、

「自分が無知であるという自覚」が

欠落している方が問題が大きいんだと。

 

「自覚がない」のは救いようがないという

厳しい言葉も書かれています。

 

したがって、未知のことと出会ったときの態度は、

上図の左側のような「無知の無知」の人と

右側のような「無知の知」の人とでは

大きく違ってくることはわかりますね?

 

なぜなら、左側の「無知の無知」の人にとって、

「無知の無知」の領域がそもそも存在せず、

たいてい意識は自分の内側に向いているので、

想定外の未知のことと出会ったときには

すぐ思考停止に陥って、

その知らない領域の存在を真っ向から否定したり、

円の内側にある自説を

一所懸命主張し始めたりするので、

自分の掌握できる領域がそのままで

変化することはあまりありません。

 

それに対し、右側の「無知の知」の人は、

自分の外側にいつもアンテナを張っているので、

想定外の事柄に対して恐怖や抵抗が薄いというか、

日々出会うこと起きることすべてが

新しいことであり、

想定外のことでもあると認識していて、

質問や対話から話が始まることが多く、

そうした姿勢でいるように努めていれば、

自分の掌握できる領域はつねに広がり続けます。

 

昨日投稿した(その4)に書いた、

「わかる」とは「変わる」ことであるという話は

自分がどれだけわかっているかを

判断できるような客観的指標が

そもそも存在していないことからも言えることで、

「わかる」と「知る」の区別についても、

現実にはそれを自覚すること自体が

簡単に実現しない困難なことであると。

 

そうなってくると、結局のところ

学習者にできることは何であり、

どんな姿勢でいることが大事なのかとなると、

自分をできるかぎりOPENにして

自分の外側に意識を向けるよう心がけ、

掌握できる領域を少しでも拡げていこうと

日々努めようとすることになってくるんですね。

 

結局、知識をどんなに増やしたところで、

ただ詰め込むだけであれば、

自分の掌握領域の拡張につながらないどころか

メモリーの消費量が増えるばかりで、

空き領域が減ってしまうだけになりかねないわけで。

 

 

佐伯胖さんの『「わかる」ということの意味』

最後の第4章には、

著者の佐伯さんご自身が、大学時代までは、

勉強するということを

「世の中には、こういう学説もあれば、

ああいう学説もあるんだ」と知ることであると、

つまり、学問というのは、

世の中的に「本当だとされていること」を

学ぶことだと考えていたけれども、

アメリカの大学院に留学したときに、

そうした考えが打ち砕かれ、

学問とは、本気で、「何が本当なのか」を

自分自身で問い続けることだと気付いたという

エピソードが書かれていました。

 

この佐伯さんのエピソードはそのまま、

「無知の知」の人の姿勢に当てはまりますね。

 

以前のblog記事に書いたように、

この佐伯さんの本を読んだのは、

わたしが寺子屋塾を開いて

まだ間もない頃だったんですが、

学習者自身の、どんなことからも学べる姿勢や

つねに学び続けようとする姿勢を

培えるような場、環境を整えることが

大切であると認識したわけです。

 

この続きはまた明日に!

 

 

【参考記事(過去投稿分)】
「知る」とはどういうことか(「論語499章1日1章読解」より)

改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その24・最終回)
佐伯胖『「わかる」ということの意味』

解るとはどういうことか(阿部謹也『自分のなかに歴史をよむ』より)

天才とはバカであることを自覚している人(つぶやき考現学 No.55)

自由に3つの意味あり(つぶやき考現学 No.43)
「わかっているけどできない」ってどういうこと?(つぶやき考現学 No.104)

わかることには際限がない(つぶやき考現学・No.57)

 

【外部リンク記事】

本質は「あいだ」にある〜動的平衡という生命のあり方に学ぶ〜【第3回】「動的平衡」と「絶対矛盾的自己同一」

自分がダメだという自覚がない人」が思考停止する理由(連載『問題発見力を鍛える』vol.5)

 

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