先崎彰容「日本とは何か」 (その2)破壊的な孤独と、国家の軸――日本は何を取り戻すのか
2026/10/15
昨日投稿した記事の続きです。
昨日は、日本思想史を研究されている
先崎彰容さんが2025年7月19日に
PIVOTチャンネルにゲストに招かれた際の
YouTube動画をご紹介しました。
今日は文字起こしテキスト2回目をお届けするので
昨日投稿した(その1)を未読の方は、
以下を読まれる前にまずそちらからどうぞ。
まずYouTube動画を再度シェアしておきます。
今日は昨日の続きで、17分12秒あたりから、
インタビュアーはPIVOTの佐々木紀彦さん。
(文字起こし・ここから)
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夏目漱石と、現代人の「軸のなさ」
佐々木:ここでもう一つ、夏目漱石の話を出したいと思います。漱石について書かれていたところも今の話とすごく似ているんです。
「過去にも属せず、かといって西洋人にも成りきれない漱石は、『今や何者でもなかった』。こうした状態に陥った人間は、常に他人の眼を意識し、翻弄され、夥しい数の意見や価値観に際限なく合わせて疲弊する。他人とともに生きることは漱石に重い疲労感を与え、だから漱石は、下宿屋に引き籠らざるを得なくなった――」(『未完の西郷隆盛』P.225)
ということですね。その「おびただしい数の意見」が、今はまさに増幅されて、次々に出てくるわけです。その中で、自分の軸がない。今までは、アメリカニズムのようなものを何とか取り入れて、それに乗ってやっていけばよかった。SDGsもそうですし、「結局、ポリコレって何だったのか」という話もあります。
何の軸もない中で、情報だけが増えていく。「何者でもなかった」という人がたくさん増えて、そういう人たちが増えれば増えるほど、排外主義や極端主義に陥る。すごく悪い循環に入っているような気がするんですよね。
先崎:それは、佐々木さん、すごく重要な話なんですよ。「おびただしい数の意見」と言ったときに、それを聞いているのは「私」という存在じゃないですか。先崎なら先崎という存在です。それは僕だけではなくて、今の日本人全体の話でもあります。最近はやっている言葉に、「おひとりさま」があるでしょう。そして実際の割合としても、単身者世帯はすごく増えている。つまり僕たちは、これだけ情報があって、騒がしい世の中にいるのに、基本的な生き方は孤独なんですよ。
佐々木:そうですよね。
情報に囲まれながら、破壊的に孤独である
先崎:この孤独とは何か。例えば地域共同体、小学校の友達でも構いませんし、地域の村のお祭りでもいいんですけれども、そういう共同体が崩壊して、個人になった。これは高度成長期に言われたことです。ただ、今はそんなものではなくて、もっと破壊的に、僕たちは孤独な世界に生きているんですね。
例えば、家庭に5人家族がいて、お父さん、お母さん、子どもが3人いる。一昔前、10年、20年ぐらい前までは、テレビの前で野球なら野球、サッカーならサッカーの試合を見て、全員が同じ方向を向いていた。それが今や、リビングに5人いても、全員がスマホを見ていて、違う情報にアクセスしている。電車の中の光景一つ取っても、そうですね。
そういう意味で、ばらばらなんです。その代わり、僕たちはスマホの向こう側にいる、情報を発信している人や、自分と気が合う人と交流する。こういう形で共同体をつくっているんですよ。共同体の空間が、向こう側にあるわけです。そうしたとき、僕たちが何の基準もない、無色透明な個人の存在になってしまうと、例えば黄色が入ってきたら、僕は黄色になる。次の瞬間にピンク色が入ってきたら、僕という人間はピンク色になる。そして次は黒が来たら、黒になる。
先崎という人間があるように見えるんだけれども、孤独を抱えてしまった人は、ある種、水のような無色透明な存在で、そのときどきの流行や、はやりを映す鏡のようになっているんですね。水の色が、ピンクになったり黒になったりと、どんどん変わるように。こういうふうになると、おそらく本人は「リアルが充実している」と思っている。だけど多分、異様に疲れていると思いますね。
佐々木:なるほど。
先崎:だから今、日本の書店に行くと、自己啓発本と、一方で「疲れたときにどう対処するか」という本が、あふれているんだと思います。
佐々木:『休養学』なども売れていますよね。
先崎:そうですよね。休養の反対側には、過剰な自己啓発があって、自分が充実している感じもあるんだと思う。ここからが、佐々木さんのお話に対する結論というか、重要なことなんです。そのおびただしい価値観に翻弄されて、日本人は自分を失っているし、今日ゆっくり話しますけれども、日本という国も自分を失っている。
そこで疲れて、はたと「自信がない」という自分に気がついたとします。この自信を取り戻すというときに、僕は危ない傾向があるような気がしているんです。今の日本では、政治においても、個人においても、「大丈夫、お前はすごいんだよ」と、その存在そのものを全肯定するような政治的発言が増えてきている気がする。
一見すると、「過去の日本人を大事にしましょう」というような話にはなっているんだけれども、実はそれは、国際情勢であったり、人間だったら、すぐ隣の人との対人関係であったり、そういうものを忘れた、ちょっと肥大化した自己、自尊心なんです。こういうものが、日本にも出てきている。
おそらくヨーロッパの極右政党などは、それがもっと進んでいる。そして、ひょっとするとトランプ大統領は、もう国全体をそうしようとしているような危険性が、今ある。だから「日本人とは何ぞや」という話が出てきていること自体は、日本のことを勉強している僕としてはうれしいんです。だけど、それがちょっと、安易な自尊心に行きかけている気がするんですね。
佐々木:それも、歴史に根づいていないというか、単なる自意識、承認欲求の爆発のようなところですよね。
先崎:だって、「90分で分かる日本史」なんて本来ないですよ(笑)
佐々木:そうですよね。
先崎:佐々木さんも、こんな、しち面倒くさい本を一所懸命読んでいただいて、引用までしていただいて。
佐々木:いや、すごいです。
先崎:今の時代は、難しいですよね。
佐々木:今まであったもの、中間団体と言ったりもしますけれども、企業や家族、地域社会が人々を包摂していた。それが全部、壊れた。壊れたとまで言うと大げさかもしれませんが。企業も、ハラスメントなどの問題があって、できるだけ人と関係を持たないような感じに、どんどんなっている。先ほど「破壊的に孤独」という言葉がありましたけれども、今の日本人ほど孤独な人たちは、いないのかもしれませんね。
先崎:そうなんですよ。しかも、孤独なのに、やたらと「自分で考えろ」と言われている社会でしょう。「自分とは何かを探しなさい」「自分の意見は何ですか」と。大学生の就職活動でも、「君の強みは何ですか」「君とは何ですか」と聞かれる。そんな、21歳の子に、それほど特別な自分はないと思うんですけれども。
だけど実際は、40代、50代どころか、日本人全体が非常に孤独であると同時に、「お前は何なのか」ということを、一人で考えるように放り出されている。だからこそ、心をわしづかみにするようなものには、ちょっと危なさがある。僕は、「推し活」が急激にはやってきたのは、これだと思いますね。
推し活流行の理由
佐々木:孤独の裏返しですか。
先崎:だって、そこに参加している感覚があるじゃないですか。歌手なら歌手を推すことによって、無名だった人が、どんどんせり上がっていく。今の政治の状態と似ていませんか。推し活がはやってきた背景には、「自分とは何ぞや」という問題がある。だけど、それを自分で決めるのは、実は難しいことなんですよね。そんなに簡単なことじゃない。そうすると、誰かを推すことによって、その人が自分の代わりに社会の中で力を持っていったり、音楽シーンですごくなっていったりすることが、僕らの自己実現につながっていく。
こういうことが日本にもあるんだと、まず押さえる必要があります。テレビなどで、トランプ大統領が大統領になっていくまでに、日本人からすると異様なまでに盛り上がっている人たちの映像を見るじゃないですか。トランプの帽子をかぶったり、人形を持ったりしている。日本人から見ると、あれは異様に思えるんだけれども、実は僕らも、推し活という形で似たことをやり始めている。そこをちゃんと押さえると、アメリカの現象についても、日本人に納得感が出てくるというか、分かってくると思いますね。
佐々木:本当にそうですよね。その意味でも、こういう文章がありました。
「自明であった自己と社会の関係はあいまいになり、社会における自分の立場・位置づけが不安定になる。すると改めて、『己は何をするために生まれてきたのか』『危機の社会に生きている、自分とはそもそも何なのか』という人間観・死生観が突きつけられることになるのだ。」(『未完の西郷隆盛』P.131より)
今後、この人間観のような話を、みんなが意識すると思うんですけれども、今はもう、それがなくなってしまっているというか。「道徳」と言うと、ちょっと学校の話のようになってしまいますが、その軸が消えている。例えばアメリカには、何だかんだ言っても宗教があったり、家族を大事にするところが、まだ強かったりすると思うんです。でも日本では、そういうものもなくなってきているというか。
アメリカには二つの国家像がある
先崎:いや、そうなんですよ。日本の最大の病は、アメリカの薄められた、表面的な部分だけを取り入れてきたことですね。そういう意味では、僕に言わせれば、日本が一番病んでいるんですけれども、その一歩手前で、せっかく佐々木さんが「アメリカには宗教があったり、家庭があったりする」とおっしゃってくださったので、日本の話の前に、少しアメリカの話をさせていただいていいですか。
佐々木:はい。
先崎:例えば今、アメリカが関税をかけています。これについて、経済学者がナンセンスだとか、いろいろ言っている。でもそれは、ここで言う人間観や死生観を、全然分かっていない人たちの話なんです。経済成長が正しいとした場合、それに対して関税はおかしいから、ナンセンスである。こういうロジックで動いているんですね。
佐々木:そうですね。
先崎:だけど、トランプがなぜ関税政策をやっているのか。先日来日していましたけれども、アメリカに、41、42歳ぐらいの若い人で、バンスの懐刀と言われるオレン・キャスという人がいますね。彼の対談記事などが雑誌に載りましたけれども、もう一つ、まだ未邦訳の英語の本がある。僕は半分ぐらいまで読んだんですが、それを読んでいると、彼は関税推しなんですよ。
なぜ関税推しなのかというと、アメリカには二つの国家像があるんです。一つは、イーロン・マスクのようなもの。つまり、僕たちが思っているアメリカです。大谷翔平がものすごい成功をして、ものすごいお金をつかんだり、IT長者がいたり、GAFAMのような、海岸部の人たちがいたりする。こういう、きらきらしたアメリカですね。
これが結局、やってきたのはグローバル化だったんです。だけど、その結果、もうかっているアメリカ人は一部なんですよ。細かい数字は分かりませんが、アメリカ人って多分、半分以上がパスポートを持っていないはずです。それぐらい、実はカントリーな国なんです。そういう人たちは、アメリカのグローバル化が進められた結果、雇用を奪われた。
同時に、もう一つ大事なことがあります。週末には教会で静かに祈り、家族が静かに暮らす。そういう生活が、全部、ドラッグと失業に覆われてしまったわけです。そうしたとき、関税は何をメッセージとして表しているのか。アメリカの人間観が問い直されているんですよ。
佐々木:そういうことですね。
先崎:トランプは、雑に見えるけれども、おそらくちゃんと分かっていて、関税政策を出したときに、こういうことを言っているんです。今は、メキシコから入ってくるお弁当などの値段が上がるから、アメリカ人にとって苦しい。だけど、これに耐えたら、本当のアメリカが戻ってくる、と。
これって何かというと、関税によって、いろいろなものの値段が一時的に上がる。苦しいし、貧しい人はさらに苦しい。だけど、それによって製造業を取り戻す。地域にもう一度、製造業を戻して、お父さんがそこに就職できる。そんなに学歴がなくても、一定の賃金を得て、家庭を営める。そして週末には、ふてくされたり薬物に走ったりせず、教会に行く。
そういう古き良きアメリカ人像を取り戻そうとする、一種の運動なんですね。だからオレン・キャスは、これを「保守革命」と言っているんです。保守と革命は、本来、反対のものですよ。だけど、革命的なぐらいラディカルに、保守を取り戻そうとしている。アメリカは、こういうことをやっているわけです。イーロン・マスクだけが、アメリカではないんです。
日本像を考えずにいられた時代
先崎:そこで振り返ると、これまでの日本社会は、こうした過激な形であれ、「日本とは何だろう」「日本の軸とは何だろう」ということを、大げさに言えば、この80年間、真面目に考えないで来られたんですよね。
佐々木:そうですよね。
先崎:安全保障政策を取ってもそうです。アメリカの傘の下にいる。それから、政治的な政策や文化においてもそうなんです。文化や経済の面で言えば、2000年頃に、派遣のほうへどんどんかじを切っていったこともそうです。大規模小売店舗法を廃止して、街の小さな商店街の横に、大きなショッピングモールをつくってしまった。それによって商店街が壊れていく。
これは、メダカたちが泳いでいるところに、ブラックバスを入れてみたようなことなんですよね。全部食べられて、いなくなってしまった、というような。安全保障の話だけではなくて、日本の風景も、そういう形で変えてきたんです。変えてもいいんです。ただ、「変えている」という自覚症状がないといけないですよね。
このことを、先ほどの西郷隆盛が、『西郷南洲遺訓』の中で述べているんです。西洋文明を取り入れて、鉄道や電信や郵便を入れるのはいい。ただ、どの順位で入れていくのか。それは日本人の価値観がなければ決められない。それをぐちゃぐちゃに入れてしまうと、結局、日本は今の代で破綻するぞ、と。そういうことを書いているんですね。
これはどういうことかというと、ここに、リンゴとバナナとミカンがあったとします。この3つをどの順番で食べるかは、先崎の価値観がなければ決められないんですよ。価値観がなくて決められないと、どうなるか。3つも食べ物があるのに、選べなくて餓死するか、全部いっぺんに食べておなかを壊すかになる。全部食べないというのは、極端な排外主義です。全部を一気に食べるのが、今の日本というか、ずっと日本がやってきたことのように思うんですけれども、それでは、おなかを壊してしまう。
だけど僕は今日、外から歩いてきて汗をかいている。だから、バナナ、リンゴ、ミカンのうち、ミカンが一番ジューシーだから、まずミカンを食べよう。その後、おなかが減っているからバナナを食べよう。最後にリンゴを食べよう、と。これが価値基準ですよね。今、国際社会がばらばらになっている中で、日本なりの価値基準を、やっぱり持っていかなきゃいけない時期に来ている。そういうことだと思います。
経済的な利益だけでは、国の軸にならない
佐々木:その価値基準が、今までは「損得」しかなかったということですよね。
先崎:そうです。経済的な利益ということで、その場その場に、うまく身を合わせてきた。それは日本の外交姿勢とも言えます。
以前、落合陽一さんと対談したときに、落合さんが言っていたんです。日本の鵺(ぬえ)的というか、自分の軸を持っていないところこそ、逆に日本の強みなんだ、と。
これは、丸山眞男などが『日本の思想』の中で、日本人の価値観やアイデンティティーのなさ自体が、日本の悪いところなのだ、と論じていたことと、同じ対象を見ているんですね。同じことを考察しながら、落合さんは、それによって日本は戦略を組めるんじゃないかと言う。それに対して丸山さんは、キリスト教文明と違って、日本はだから駄目なんだと言う。結構、古典的な議論なんですけれどもね。
佐々木:そういうことですよね。そうなると、やっぱり価値観、その原点になる死生観や人間観を、どうつくっていくかという話になるわけですよね。そうしないと、空っぽになってしまう。これは、よく知られた三島由紀夫のメッセージでもありますけれども、経済だけに存在意義を置いては駄目だということですね。
先崎:経済というのは、結局、他者との比較の中で、経済的な豊かさを求めているわけです。最近、たぶんこの番組を見ている方ならご存知だろうと思いますけれども、「モノ消費」と「コト消費」という言葉があるじゃないですか。
佐々木:マーケティングで、よく言われますね。
先崎:モノ消費の時代は終わって、今はコト消費なんだと。あるいは車でも、モノ消費の時代は、いかに燃費を良くするかだった。それがコト消費になると、自動車会社なのにデザイナーの力が強くなって、そのデザイン、格好よさによって選ぶようになる。そういうふうに変わってきたと、よく言われます。
そういう意味で言うと、日本を含め、G7のような成熟した国では、モノの豊かさだけでは、我々が生きている意味を、もう説明できない。それ以外の価値観があるんだということは、常に念頭に置いておく必要がある。そういうことだと思いますね。
佐々木:そうですよね。(34分18秒あたりまで)
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(文字起こし・ここまで)
今日文字起こしした範囲では、先崎さんの次の発言
孤独なのに、やたらと「自分で考えろ」と言われている社会でしょう。「自分とは何かを探しなさい」「自分の意見は何ですか」と。大学生の就職活動でも、「君の強みは何ですか」「君とは何ですか」と聞かれる。そんな、21歳の子に、それほど特別な自分はないと思うんですけれども。
がハイライトですね。
個として自ら考えることが
難しくなってきていることの背景として、
自分で考えることを
社会から強要されている現代の状況があるのでは?
という指摘は傾聴に値する卓見ではないかと。
この続きはまた明日に!(^^)/

