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先崎彰容「日本とは何か」 (その3)ルールをつくる力と、古典に学ぶ日本の姿――本居宣長と「もののあはれ」

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先崎彰容「日本とは何か」 (その3)ルールをつくる力と、古典に学ぶ日本の姿――本居宣長と「もののあはれ」

先崎彰容「日本とは何か」 (その3)ルールをつくる力と、古典に学ぶ日本の姿――本居宣長と「もののあはれ」

2026/10/16

昨日10/15に投稿した記事の続きです。

 

日本思想史を研究されている

先崎彰容さんが2025年7月19日に

PIVOTチャンネルにゲストに招かれた際の
YouTube動画を文字起こししながら

ご紹介してきました。


本日投稿する記事は、

文字起こしテキストの3回目となるので

昨日までの記事を未読の方は

まず以下から先にどうぞ。

・先崎彰容「日本とは何か」 (その1)国際秩序の転換と情報革命――福澤諭吉の警告

・先崎彰容「日本とは何か」 (その2)破壊的な孤独と、国家の軸――日本は何を取り戻すのか

 

YouTube動画を再度シェアしておきます。

【日本とは何か?西郷隆盛、本居宣長、福澤諭吉の日本論】

 

今日は昨日の続きで、34分18秒あたりから、

インタビュアーはPIVOTの佐々木紀彦さん。

 

(文字起こし・ここから)
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アメリカのプラットフォームに、無防備ではなかったか

佐々木:そこで、自画像や未来像をぜひ伺っていきたいんですけれども、その前に最後、テクノロジーについてお聞きしたいと思います。先ほど、何でもかんでも取り入れると、おなかを壊してしまうという話がありました。僕らはTwitter、今のXも入れ、Facebookも入れ、YouTubeも入れてきた。

 

アメリカのプラットフォームを、一番無防備に入れてきた国でもあると思うんですよね。その結果が、今なのではないか。みんな、GAFAMで働くことなどを目標にして、喜んでいるわけですよね。でも、それはうまく使われて、稼がれているだけということでもある。これは、やっぱりアメリカに対して、考え方として無防備すぎるんですかね?憧れが強すぎるというか。

 

先崎:一番単純に言ってしまえば、精神的に無防備であるというのは、確かにあると思います。ただ、その問題で注意しなきゃいけないのは、今、我々が置かれている環境です。「標準化」という言葉が使われたりしますけれども、結局、プラットフォームをつくった人が一番強いんですよね。例えば日本のコンビニなら、セブン-イレブンが始めているので、ほかの会社がどれだけ一所懸命頑張っても、やっぱりセブン‐イレブンが強い。

 

 

ルールをつくる人が一番強い

先崎:そういう意味で、基準をつくってしまう、その力業の戦いが、今、国際社会では、例えば宇宙で行われていますよね。それから先ほど佐々木さんがおっしゃったように、メディアの世界も、ある種の無法地帯になっている。テレビなどは、ある程度ルールが設定されているけれども、テクノ・リバタリアンたちの世界は、まだまだ無法地帯の状態です。そうすると、どういうルールメイクをするかが問題になる。

 

分かりやすい例で言うと、オリンピックのスキージャンプで、日本人があまりに勝ちすぎると、スキー板の長さを変えられたりする。ルールを変えられてしまうわけですね。こういうふうに、ルールをつくること自体が、その中で試合をする人たちのあり方を決定してしまう。それをアメリカが今まで牛耳ってきたというのは、事実なんですよ。

 

金融で言えば、ドル建てでやっている。このドル建てを出し抜きたいから、中国は暗号通貨などについても必死になって、違うルールメイクをしようとしている。自動車なら、トヨタがルールメイクしているところに、ヨーロッパが電気自動車を仕掛けてきて、違うルールメイクをしようとしている。このルールメイクや標準化をめぐる、ものすごい争いの中に、今禍中にいるんです。

 

これが佐々木さんへのお答えだと思うんですけれども、日本は今まで、アメリカのルールに乗っかって、その中でどうやっていくかということに合わせてきた。だけど多分、経済における基軸通貨としてのドルも含めて、あらゆることで、アメリカだけがルールメイクする時代ではなくなりつつある。

 

しかもアメリカ自身が、「俺たちは、俺たちのルールでやれるところだけでやっていく」という方向に変わってきているわけです。そういう大きな流れの中にいることに気づかず、日本人が相変わらず、アメリカのルールを普遍的な価値、普遍的なルールだと思っていると、一番損をするのは、多分日本ですよ。

 

佐々木:そういうことですね。

 

先崎:なぜなら、アメリカがそのルールではやっていけないところがある。それが中国だとする。そこで「中国と握手したい」とやられたら、日本の頭の上で、中国とアメリカががばっと握手して、日本は、はしごを外されますよ。

 

それで日本がアメリカのまねをして、「僕たちも」と中国に行ったら、中国は、アメリカは強い国だから握手するけれども、日本と握手してくれるかは分からない。こうなると、日本が孤立するんです。だから韓国や日本のような国は、その辺のことを意識しておかないと、厳しいことがやってくるかもしれないですね。

 

 

日本の軸をどこに求めるのか

佐々木:そうですね。そのとき、今後、価値観を見直すに当たって、普遍主義的な考え方、リベラルのような考え方もありますよね。それと、もっと歴史に基づいた保守主義的な考え方もある。日本の軸をどう定めるか。その軸も多様であっていいと思うんですけれども、どこにヒントを求めていくべきなんですかね。

 

先崎:先ほどの本で言うと、僕は『未完の西郷隆盛』を書きました。その後、6年ぐらいの歳月をかけて、江戸時代の本居宣長という人について書いたんですね。表紙の帯を見ていただくと、「中国でも西洋でもない日本を見いだした知の巨人」と書いてある。しかもそれを政治思想などだと、分かりやすく「日本はすごいんだ」という話になると思うんですけれども、本居宣長は文学者なんです。

 

簡単に言えば、『古今和歌集』や『源氏物語』の研究を、江戸時代の1700年代後半、今から300年ぐらい前にやった人なんですね。この人を一所懸命勉強すると、古典学者なので、『万葉集』について勉強しなきゃいけなくなる。それから『古事記』について、『日本書紀』についても勉強しなきゃいけなくなる。

 

それらが中世にどう解釈されていたかも、勉強しなきゃいけなくなる。そうやって6年、7年頑張っていると、日本の歴史の通史のようなものが、僕の頭の中におぼろげながらできてくるんですよ。

 

本居宣長という名前を、皆さんの中には初めて聞く人もいると思うんですよね。学生から「もといせんちょうって誰ですか」と言われたこともあるんです。300年ぐらい前の、地味といえば地味だけれども、ものすごい巨人なんです。この人を勉強すると、実は日本の始まりの頃からの、1000年近い歴史を勉強することができる。

 

 

『万葉集』に刻まれた日本の外交と自画像

先崎:一例として、ちょっと教養講座のような話を、2〜3分させてください。『万葉集』の第1巻63番に、「いざ子ども、早く日本へ……」という和歌があるんです。「いざ子ども」は、「さあ、皆の者どもよ」という意味です。「早く日本へ」の「日本」は、今、我々が見ている「日の本」という字なんですけれども、当時は「やまと」と読んでいたんですね。

 

実はこの歌は、遣唐使、つまり大国である中国に渡った、日本の外交官に関わる歌なんです。向こうで、ものすごく交渉をした。今も対外的には、日本を「ジャパン」と言うじゃないですか。それと同じように、当時は「倭」だったんです。この「倭」は、小人という意味なんですよ。

 

中国の歴史観から見ると、背の小さなやつが、遠くの島の端のほうにいる。そういう歴史観、物語によって組み立てられていた世界において、日本の粟田真人や山上憶良といった人たちが、一所懸命頑張った。「日の本」、つまり「俺たちは中国の国際秩序観ではなく、太陽に基づいた国際秩序観の中で生きている」という、自分たちのアイデンティティーを、向こうに認めさせたんです。帰ってくるときに、「いや、俺たち、やったよね」と言いながら、お酒を飲んで歌ったのが、今の歌なんですよ。

 

佐々木:へえ〜。

 

先崎:つまり『万葉集』は、文学部で国文学者の先生が、もじょもじょと説明して、大半の学生が面白くなくて寝ているような、そういうものではないんです。国際社会の激動の中で、700年代、今から1300年前の僕たちの先人が、どうにかして大国・唐に対する日本のプレゼンスを高めようとした。彼らとは違う国際秩序観、国際法の考え方の中で、「私たちの国を認めてください」と駆け引きをした。その中での充実した歌なんです。

 

この「日本」の読み方についても、江戸時代からいろいろな学説がある。現代の学者の中には、そのときに初めて「日本」という国号が認められたのだから、そのことを踏まえて読むべきだという説もあるんです。古典を考えるというのは、やっぱり僕たち自身のことを考えることなんですよ。

 

この話をこの前、自民党の勉強会の冒頭でしたんです。喜んでもらえたんですけれども、最後にこう言ったんです。「今の話を、文学部の大学教授である私のような人間が言っている話だと思っているかもしれませんが、プーチンが戦争をする前に書いた、『ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について』という論文を読んでください。その冒頭10行目ぐらいまで読んでください」と。

 

そこには、9世紀後半のロシアとウクライナ、その辺りの〝ルーシ〟の歴史を語るところから、この論文を始めると書いてあるんです。つまり今、国際社会では、歴史に基づいて、自分たちがどういう国家像を結んでいるのかが問題になっている。ものすごく長い論文なんですけれども、後半になるに従って、欧米中心主義とは違う形の歴史観を、我が国とウクライナは持っていたんだ、という話をつくっていくわけですね。

 

そう考えたとき、「もののあはれ」とか、本居宣長や『万葉集』の話をすると、「そんな遠い話をしてどうするの」と言われるかもしれません。だけど世界を見ると、そういう形で「自分たちは何なのか」を問い直すことこそ、むしろトレンドなんだと思います。

 

佐々木:そうですよね。しかも日本は、アメリカのような人工国家ではないので、事例や物語がたくさんあるわけですよね。本にも書かれていましたけれども、西側から到来する普遍的価値観に対して、日本人がどう対応したか、その最良の事例を提供してくれる。そういうことなんですね。

 

先崎:そうですね。

 

 

急な危機に対しても落ち着きを失わない

先崎:だから、僕の『本居宣長』は、『古今和歌集』や『源氏物語』に、かなりのページを割いた本です。なぜそういうことをしたかというと、今の日本社会では、むしろ日本に対する自信を語る風潮が激しいから、あえて落ち着きのあることをやりたいと思ったんです。

 

佐々木:なるほど。

 

先崎:アメリカ一辺倒ということを、無意識にやっていた時代が80年あった。それに対して、急に危機的になってきた。ヨーロッパなどでは、すごいですよ。極右の嵐が吹き荒れていて、日本も遅まきながら、右にも左にも過激なものが出てきている。そういうとき、90分で日本の歴史が分かって、いきなり自分を取り戻せたとしたら、多分、90分後には違う歴史観に襲われているんです。

 

佐々木:エナジードリンクみたいなものですね。

 

先崎:まさにそうなんですよ。これは日本の歴史を取り戻しているように見えて、実はアメリカの、まさにエナジードリンク的な自己啓発の状態になってしまっているんです。もしよければ、森本あんりさんの『反知性主義』を読んでみるといいと思います。同じ新潮選書から出ていて、僕の本よりずっと読みやすいですから。

 

そこに書いてあることですが、アメリカにとって自己啓発は、キリスト教という宗教に根づいているので、全然違和感がないんです。あの国は、そもそもそういう国なんです。自己覚醒することが、宗教なんです。ただ、日本人はそうではないのに、「お前も俺たちと同じノリで校庭を走れよ」と言われて、走っているような感じなんです。

 

「俺は別にラグビー部でもないし、全日本を目指しているわけでもないんだけど」と思いながら、走っているような感じですね。そうしていて、「やっぱり俺、疲れているよな」となったときに、おかしくなってしまう。だから僕は、今の時代へのアンチのつもりで、この本を書いているんです。

 

すごく安易に、外国の普遍的価値に乗ってしまう人がいる。一方で、過剰に、栄養ドリンクのように、自分の自信を3分で取り戻そうとする人がいる。そうではなくて、日本について考えるのは、もう少ししんどいことだし、落ち着いた営みなんです。ただ、しんどいというより、文学書に触れるときのような、心の豊かさがある。

 

これは「リア充」とか、そういうものとは違います。予定表を詰め込んで、仕事の一環のように、詰め詰めで生きている自分から、少しずれることなんです。だから、この本を読んでも、何かの解決方法が書いてあるわけではないですよ(笑)。

 

佐々木:給料が上がるわけでもない。

 

先崎:そう。給料も上がらないし、効率よく仕事ができるようにもならない。そういうものなんだけれども、今の日本人は、心の弾力性を取り戻したほうがいいと思って、こういう、ゆっくりとした本を書いたということです。

 

佐々木:その意味でも、この80年は、アメリカニズムにすごく染まった、歴史の中では結構、異常な80年だった。もちろん、そこも大事にしたほうがいいと思いますけれども、その前には、いろいろな価値観や物語があった。それをもう一度、ちゃんと紡ぎ出さなきゃいけないということですね。

 

先崎:そうですね。おっしゃるとおりで、すごく大事なことです。ある意味で、価値観が一つだった時代なんですよね。だけど今は、国際社会もばらけているでしょう。だから日本人も、かつてあった、いろいろな複数のものを見なきゃいけない。ただ、そのときにあまりに安易にやってしまうと、さっきの引用にあったように、おびただしい価値観の中に、またまみれてしまう。

 

もうちょっと落ち着いた形で、今日、一つのことが分かった。次に、もう一つのことが分かってくる。いくつか参考にすべき本と出会うことができた。そうすると、足が4本になったような感じになる。こういう形で、じっくり取り組むことが、今、一番必要なんじゃないかなと思いますね。

 

佐々木:確かに、足を増やすというのはいいですね。4つ5つあるだけで、全然見方が変わってきますもんね。

 

 

すぐに言葉にできない体験を大切にする

先崎:僕たち自身もそうですし、先ほど西郷さんの情報革命のところで話したように、昔の人も、結構のめり込んだりしていたんです。だから、安易に「いろいろな情報に接すると多様性が……」というような話ではないんですね。もうちょっと違って、ずしっと自分の心の中をえぐるような、価値観の転換がある。

 

あるいは、「この本はよく分からないけれども、何だかすごい迫力があった」「今夜はまだよく分からないけれども、明日からも、悶々としながら捉えてみよう」と思うようなものです。映画でも、そういうことはありませんか。ばーんと、すごい衝撃を受けて、夢遊病者のように映画館から出てくる。友達とは、「すごかったよね」としか、今は言えない。だけど、家に帰ってから、何がすごかったのか考えようというような。ああいう体験が今、必要なのかなと思います。

 

佐々木:そうですよね。

 

 

「もののあはれ」と肯定・共感の人間関係

佐々木:その中でも、「もののあはれ」のところで、「肯定と共感」ということをおっしゃっています。これまで見てきた宣長の議論から分かるのは、宣長が、個人よりも男女関係に人間の本質を見いだしていたということ。そして、儒教や商品・貨幣経済がもたらす人間関係は、受け入れられないと考えていた。

 

肯定と共感こそが、人間の人間たるゆえんであり、それを中心の価値に置いて、独自の関係性を主張した。それは、大陸由来の世界認識から離れたところで発見された、どこまでも懐かしい、我が国独自の生き方である――ということですね。「肯定と共感」、そして「まろやかさ」のようなことも書かれていますけれども、そこが一つの鍵なんですかね。

 

先崎:古典を研究していると、小さな喜びに出会うことがあるんです。例えば、中国の「詩」、ポエムのほうの詩ですね。そこには圧倒的に、酒の話が出てくる。だけど日本の和歌には、酒の話がほとんどないんです。そうではなくて、男女関係なんですよ。そういうふうに気づいてみると、全然違う価値観が古典の中に潜んでいる。やっぱり中国には中国らしさがあるし、日本には日本らしさがある。

 

日本では、男女関係というものが、非常に大きな力を持っていたんです。これは折口信夫という人が言っているんですけれども、男女関係と言うと、「何だ、弱々しい話をしているな」と思うかもしれない。でも、そうではない。例えば折口が言っているのは、天皇という人が、中国から見るといかがわしいんだけれども、たくさんの女性と関係を持っている。『源氏物語』の光源氏もそうですよね。

 

これは何を意味するかというと、むしろ女性のほうが、特別な力を持った存在なのであって、そうした人たちと婚姻関係を結ぶことで、その特別な力を自分の中に、どんどん取り込んでいくということなんです。当時の天皇には、独自の力があるからこそ、統治者としての権威を世間が認める。そういうふうになったのだと、折口信夫は言うんですね。したがって、男女関係は恋愛関係であると同時に、実は政治にまで影響を与える。そういうことを、『源氏物語』など、いろいろなところから読み込んでいくんです。

 

 

敵対でも契約でもない関係の結び方

先崎:そう考えたとき、当時の儒教、つまり中国を意識した政治関係というのは、とにかく敵対的な関係で、禁止事項によって成り立っている。一方、江戸時代は、商品経済が日本国内で非常に発達した時代でもあります。現代風に言えば、人と人とが、金銭的な契約関係の中で関係性を結んでいく。

 

そうすると、二つあるわけです。一つは、儒教や中国に代表されるような、敵対的な人間関係。もう一つは、商品経済におけるような、非常にドライで冷たい契約関係です。それに対して、宣長が言った関係は、一言で言えば男女関係なんだけれども、もう少し丁寧に言えば、まず相手のいいところを、「きれいだね」「格好いいね」と肯定することです。

 

あるいは自然を見たときに、「この自然は美しいな」と思う。その美しさと比較したときに、彼女のことが思い浮かぶ。そういう形で、もう少し弾力性があるというか、人間関係の中に豊かさがある。しかも、和歌であることが大事なんです。一定の言葉のルールに基づいて、男女が掛け合いをするんですよね。

 

これは昨今の、自分が好きだからと一方的に行く、ストーカーのようなものとは正反対ですよね。人間関係には相手がいる。その人の心に自分を認めてもらうために、言葉をいろいろ工夫して、アプローチするわけでしょう。ところが、今の社会の言葉は逆ですよね。

 

「何で俺のことが分からないんだ」。あるいは、絵文字一つで「私が悲しいことを分かれ!」と。これは、ある種の暴力なんです。自分が悲しいということを、言葉を操り、技術を使って、一所懸命相手に伝えるのではない。「何で分からないんだ!俺のつらさが、何で分からないんだ!」となってしまう。こういう人間関係の時代だからこそ、宣長が言っている人間関係のあり方には、すごく大きな意味、ヒントがあると思って書いたんです。

 

佐々木:その意味では、すごくシンプルに言うと、「もののあはれ」的な日本独自の生き方、儒教的な、どちらかというと男性的な生き方、それから商品・貨幣経済に代表されるアメリカニズム的な生き方。この三つを足として持っているだけでも、いろいろ比較して見られますね。

 

先崎:そうですね。おっしゃるとおりです。改めて、「人間関係とは何だろう」と考える。あるいは、自分がのめり込んでいるのは、この三つのうち、商品・貨幣経済の生き方なんじゃないか。その中で、いかに合理的に勝ち筋を見つけるかを一所懸命探して、本屋に行って、そういう本ばかり買っているな、と気づくかもしれない。

 

だけど、それ以外の、宣長的な生き方の中にも、結果論ですけれども、プラスになることがあるかもしれない。宣長も、和歌は政治などの役には直接立たないけれども、何かいいことがあるかもしれない、という言い方をしているんです。そういう形で、実は経営などにも、プラスになることがあるかもしれない。宣長のような考え方を、一度知っているだけでね。

 

佐々木:そうですよね。それは思いますね。

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(文字起こし・ここまで)

 

今日文字起こしした範囲では、先崎さんの次の発言

 

「古典を考えるというのは、

 僕たち自身のことを考えることなんですよ」

「今の日本人は

 心の弾力性を取り戻したほうがいい」

 

が印象に残っています。

 

 

詳しいコメントは、これまでの記事同様

文字起こしを全て終えたあとで

投稿する予定です。

 

この続きはまた明日に!(^^)/

 

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