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先崎彰容「日本とは何か」 (その3)西郷隆盛と本居宣長から学ぶ死生観——見えなくなった死と、失われゆく営み

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先崎彰容「日本とは何か」 (その4)西郷隆盛と本居宣長から学ぶ死生観——見えなくなった死と、失われゆく営み

先崎彰容「日本とは何か」 (その4)西郷隆盛と本居宣長から学ぶ死生観——見えなくなった死と、失われゆく営み

2026/10/17

昨日10/16に投稿した記事の続きです。

 

日本思想史を研究されている

先崎彰容さんが2025年7月19日に

PIVOTチャンネルにゲストに招かれた際の
「日本とは何か」と題されたYouTube動画を

文字起こししながらご紹介してきました。


本日投稿する記事は、

文字起こしテキストの4回目となるので

昨日までの記事を未読の方は

まず以下から先にどうぞ。

・先崎彰容「日本とは何か」 (その1)国際秩序の転換と情報革命――福澤諭吉の警告

・先崎彰容「日本とは何か」 (その2)破壊的な孤独と、国家の軸――日本は何を取り戻すのか

・先崎彰容「日本とは何か」 (その3)ルールをつくる力と、古典に学ぶ日本の姿――本居宣長と「もののあはれ」

 

YouTube動画を再々度シェアしておきます。

 

【日本とは何か?西郷隆盛、本居宣長、福澤諭吉の日本論】

 

今日は昨日の続きで、54分35秒あたりから、

インタビュアーはPIVOTの佐々木紀彦さんです。

 

(文字起こし・ここから)
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西郷隆盛に人々は何を託してきたのか

佐々木:どちらかというと儒教的な、男性的な生き方の代表格の一つが、西郷だと思うんですけれども、西郷をどう見なしていけばいいのか。本には、こういう文章があります。

「私たちが生きる近代社会はどんな時代で、どのような生き方を正しいと見なしているのか。また、どんな死に際を模索すべきなのか。死生を問い直すべき時代が、もう間もなくやってくる。そのとき、思想の左右を問わず、これからの日本人は、また西郷に自らの死生観を仮託しようとするだろう」(『未完の西郷隆盛』P.249)

これは、なぜ人々がこんなに西郷に惹かれていくのかということへの答えでもあると思うんですけれども、やっぱり死生観ですかね。

 

先崎:改めて、小一時間お話しして思ったんですけれども、佐々木さんは、引用する資料を抜き出してくるところの精度が凄まじいですね。

 

佐々木:いやいや、私がいいなと思ったところなので。

 

先崎:その素晴らしい読解力に驚いているんです。これはリップサービスではありません。なぜかというと、僕は西郷隆盛と本居宣長を、日本人の生き方や死生観の、結構、対極にある二つのモデルとして描いているんですよ。男性的なものと女性的なものと言うと、非常に雑なんですけれども。

 

西郷隆盛に自分を仮託する人の多くは、武士道的というか、きりきりした、「俺が生きる」「俺の生きざま」「死」というような、結構マッチョな感じをイメージすることが多いと思います。そういった面からある程度、西郷を描いた。それに対して、ある種、対極にあるような、手弱女ぶりの、たおやかなほうを描いたのが、本居宣長という人なんですね。

 

 

「生きること」に圧倒的な価値を置いてきた社会

先崎:今、引用していただいた文章を書いたとき、僕が念頭に置いていたのは、今までの日本社会というものです。今日は散々「アメリカ的な」と言ってきましたけれども、もう少し違う角度から見ると、日本は「生きる」ということに、圧倒的に価値を置いてきた社会なんですよね。

 

例えば、僕が小さかった頃は、高田馬場の駅前に、傷痍軍人さんがまだ物乞いをしていた。戦争の傷跡が、少し残っているような時期でした。テレビでは、中国残留孤児の方たちが泣いて対面している。そういう映像を見られた時代なんですね。それは何かというと、戦争や、人間が死ぬこと、傷つくことが、リアルにあったということです。

 

それが脱臭されてしまった。見えなくされてきたのが、ここ30〜40年だと思います。人間の死という問題も、どこか病院の中に閉じ込められている。無菌室のような、「生きる」ということが横溢した社会の中で、僕たちは生きてきたんですね。私の新書などにも少し書きましたけれども、僕は14年前、東日本大震災を福島で直接、被災しました。いわば、人が生きること、死ぬことの現場です。そして、そこに震災復興に群がってくる人たちもいた。

 

あまり面白くないものも全部見た。その持っている意味を、思想家としてどう考えたらいいんだろうと、考えたんです。僕たちが見ないようにしていたものが顕在化し、一瞬でぎらっと現れる。人間の中にある、理性的ではない、暴力的なものがばっと出てくる。そういったものを見たんですね。

 

 

自分の死を一人で説明しなければならない苦しさ

先崎:そうしたときに、まず一番穏やかなところから言えば、少子高齢化によって、これからたくさんの人が亡くなっていきます。その意味でも、「死に方はどうあるべきなんだろう」ということが、この宗教性の薄い日本という国では、実は担保されていないんですよ。

 

例えばインドなら、これだけ自意識過剰に、「俺が死ぬとは何だろう」と考えていたとしても、死んだらいきなりガンジス川に流されたり、そこでがんがん焼かれていたりする。インドの死に関する巨大な、伝統的システムの中に、本当にガンジス川の一滴のようにして入っていくんですね。

 

だけど今の日本社会は、非常に自尊心が強い社会なだけに、死ということまで、一人ひとりが説明することを求められる。すごくしんどい社会になっていると思います。だから、これをやっぱり、みんなである程度考えていかなきゃいけないだろうというのが一つあります。少子高齢化。

 

 

死を「見えない場所」に置いてきた日本

先崎:もう一つは、例えば自衛隊の問題についてもそうなんです。今、自衛隊員が殉職すると、市ヶ谷の防衛省の中にある「メモリアルゾーン」というところに慰霊されていて、総理大臣が年1回、花を手向けに行くんですね。僕は、生前の安倍総理と会食したときに、この問題について話したことがあります。こういうふうに、戦死なら戦死という、死の問題を、日本人からどんどん見えないようにしている。日本人の方が亡くなったのに、「メモリアルゾーン」ですよ。

 

佐々木:何だか、風情もないですね。

 

先崎:風情もないし、色味がないし、匂いがしない。

 

佐々木:匂いがしないですね。

 

先崎:つまり、死を脱臭しているんですね。これは、自衛隊がどうだという話をしたいのではないんです。ここに象徴されているように、僕たちは死の問題を避けて、基本的には高度成長期の、旺盛に生きていくことを是とする形で国づくりをしてきた。だけど、今日、散々文化の話をしてきたように、死生観というのは、文化や価値観に関わる問題なんです。

 

お医者さんたちだって、最期には命を救えないわけですから、「どういうふうに亡くなっていただくのか」という問題がある。これは、マッチョに腹を切って死ぬということから始まって、少子高齢化の中で、高齢で亡くなっていく人まで含めた話なんです。僕たち自身が、今まで見ないようにしてきたもの、見たくないもの。それを少し、議論の俎上に載せなきゃいけない時代なんじゃないか。そういう思いから、この文章を書いたんですね。

 

 

コロナ禍が引き裂いた人と人との関係

佐々木:そうですよね。しかも、先ほどおっしゃったように、「おひとりさま」で、破壊的な孤独がある。その中で、究極の孤独である死に一人で向かっていく。そんなにつらいことはないですよね。

 

先崎:そうなんですよね。コロナ禍のときにも、僕たちは人間関係を、さらに過剰に引き裂かれたじゃないですか。僕の義理の祖父母もそうでした。特に祖母のほうは、人間関係が希薄になったことで、結果的に痴呆症になってしまったんですね。僕たちは、人と一緒にいると、例えば飲み会に行って、偉いやつの悪口を言ったりしながら生きているわけです。

 

他人のことを気にしたり、悪口を言ったり、「もっといい人と出会いたいな」と思ったりする。結構、そういうノイズによって、実は頭を活性化されて生きているんです。つまり、関係性の中で生きている。コロナ禍は、この目に見えない「関係」というものを、むちゃくちゃに破壊したなと思っています。

 

だからこそ、今日の全体のテーマでもありますけれども、人間関係や、日本人の日本人らしさとは何かを、問い直さなきゃいけない。東日本大震災とコロナ禍があったわけですから。

 

佐々木:両方とも、死の話ですよね。

 

先崎:そうだと思います。

 

 

柳田國男から学ぶ日本人の死後の世界

佐々木:そうした死生観を磨くために、柳田國男も一つのヒントになるんですかね。

 

先崎:そうですね。僕が好きな知識人に、柳田國男という人がいます。日本の民俗学を確立した人で、先ほどの折口信夫と双璧をなす、同時代を生きた人です。その柳田が『先祖の話』という本で書いているのは、日本人のあり方は、実は仏教とはだいぶ違うんだ、ということなんですね。

 

仏教では、例えば悪いことをすると地獄に落ちる。地獄で苦しんでいる絵巻などを、日本史の資料集で見たことがありますよね。

だけど、柳田國男が見た日本の死後の世界は、そうではない。日本の国土は、その大半が山に囲まれていますから、僕たちは、小高い山が大体見えるようなところで生きている。

 

亡くなった方は、自宅近くの小高い山の上に、霊魂として上がっていく。そこで、先崎なら先崎という名前を失っていく。そして魂の一部分として、漠然とした存在の中に取り込まれていくんです。それが、お盆などのときに山から下りてきて、家まで戻ってくる。だからお盆には、道の草を刈り、(亡くなった方が)帰ってきやすいように馬や牛を作る。そういうことをするわけですね。

 

 

祖母と作った馬や牛――無言のうちに失われるもの

先崎:僕の祖母は、非常に貧しい人でした。北関東のほうで食い詰めて、最後は東京の都営住宅で、一人で亡くなったんです。その祖母との思い出があります。祖母がお盆の準備をいろいろして、割り箸を使って馬や牛を作る。それを、東京ですから汚いどぶ川なんですけれども、そこへ流しに行く。祖母に手を引かれて、一緒に行った記憶があるんですね。

 

ところが今、自分はそれをやっていない。先崎という人間は、やっていないわけです。ということは、実はすごく大事なものを、無言のうちに失っているんじゃないかと思うんです。確かに僕は、本居宣長を読みました。西郷隆盛についても、よく知っています。日本の歴史に詳しい学者として、今ここで話をさせてもらっている。

 

ただ、いつも自分への戒めにしているのは、「観念的に日本を取り戻そうとすると危ないぞ、お前」ということなんですよ。そうではなくて、おばあちゃんと一緒に、何だかよく分からないけれども、牛を作った。そして、それを流しに行った。その営み自体が失われるのは、音も立たないことだけれども、実は日本の大事な何かが失われている可能性がある。

 

そういうことに対する繊細さや感受性を持たない、マッチョな、街頭で演説するような日本主義というのは、僕は取りたくない立場なんですよね。

 

佐々木:ずっと紡がれてきた習慣や、そういうものを、ちゃんと引き継いでいくところに、大切なことがある。

 

先崎:そうですね。こんなに1時間以上、べらべらしゃべった人間が言うのは恐縮なんですけれども、死者の声に耳を傾けるには、やっぱり沈黙がなければいけないですね。

 

佐々木:沈黙。そうですね。口でしゃべればいいというわけではない。

 

先崎:そうです。やっぱり、聞き耳を立てるような、そういう謙虚さが必要かなと思います。(65分12秒あたりまで)

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(文字起こし・ここまで)

 

今日引用した箇所は

日本人の死生観がテーマでしたが、

先崎さんの次の発言

 

本居宣長を読み、西郷隆盛についてよく知っている

日本の歴史に詳しい学者であっても、

日本人が久しく大切にしてきた

お盆の習慣ひとつまともに実践できていない。

 

「観念的に日本を取り戻そうとすると危ないぞ」

と自分への戒めにしている。

 

が印象に残っています。

 

詳しいコメントは、これまでの記事同様

文字起こしを全て終えたあとで

投稿する予定です。

 

この続きはまた明日に!(^^)/

 

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