庄司薫さんが2026.4.5に88歳で永眠されました
2026/10/07
本日投稿記事は、4年前に投稿した次の記事
の続編でもあるので、
未読の方はまずそちらをご覧になってから
以下の記事をお読みください。
88歳で永眠された訃報を知ったのは
6月下旬のことでした。
その頃このブログでは、
ザ・メンタルモデルの記事を連載中で、
また、その延長戦のような形で
ドラマ『逃げ恥』の二巡目を始めてしまったため
このタイミングになってしまったんですが。
山口周さん『コンテキスト・リーダーシップ』の
関わりから言うとすれば、
十代後半という多感な時期に出会った
庄司薫さんの小説やエッセイが、
わたしという人間のコンテキストを
確実に形づくっていることは間違いありません。
2012年に4部作が新潮文庫に収められたときに、
庄司さんが書かれた
「あわや半世紀のあとがき」が
わたしの知る限りにおいて、
公式に発表された最後の文章で、
それを原文のままご紹介し、
味読しながら故人を偲びたいとおもいます。
(引用ここから)
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あわや半世紀のあとがき
ぼくは時々このぼくは、この「赤頭巾ちゃん気をつけて』の作者というより読者の一人なのではないか、と思うことがある。幸運なことに、ぼくは本当に多くの読者とそのすばらしい感想に恵まれてきたが、そのたびにぼくは、この作品を繰り返し読んできたような気がするからにちがいない。
「『笑いは思考の拒絶」というけれど、涙も同じなんだ。泣かせちゃズルイ。」と言ったのは丸山眞男先生で、ぼくはそのいたずらっぽい笑顔を見ながら一瞬すごくうろたえたものだ。もしかして先生、泣いてくださった?などと訊けるはずもないから……。
「オレタッチャッタ」と言ったのは安部公房さんだった。「あのオシマイのとこ、歩きながらそっと手を差し出して、指先が触れるみたいなとこ。」。安部さんはうちで一杯やりながら、文学におけるエロティシズム表現について「絶対タタナイ」安部文学も含めて分析しているところだったが、僕はその言葉に驚嘆してしまった。何故って、その「オシマイのとこ」を書きながら、その「指先が触れるみたいな」瞬間を想いながら、ぼくはひそかに「タッチャッタ」のだから。でも、まさか気づくひとがいるとは……。その夜遅くぼくが、その「オシマイのとこ」を改めて読み返したのは言うまでもない。
と、こんな書き方をしていたら、この「あわや半世紀」はとめどがない。ぼくとしては、このたび新たに「新潮文庫」として出ることとなり、「四半世紀たってのあとがき」に続けて「あわや半世紀のあとがき」を書いているこのこと自体の、その不思議なものおもいで一杯なことを、ここに記すにとどめたい。(以下、編集者への謝辞・略)
あわや半世紀のあとがき2
この「白鳥の歌なんか聞えない」のなかで、薫くんは兄貴に言われる。
「偉い人にはうかつに近づくな。こっちに十分の力がないうちは、むしろ逃げて逃げて逃げまくれ。」
「分ってるよ。」と薫くんはあっさり答えるけれど、実はこれはなかなかややこしい問題だ。若い時には話は簡単に見える。ぼくは19歳の時書いた『喪失』で、中央公論新人賞を受けて「文壇デビュウ」ということになったが、当然まわりは「偉い人」ばかり。逃げて逃げて逃げまくれ。でもそのあとは……。
「あわや半世紀」たった今思うと、ぼくが対応に苦慮したのは「偉い人」ではなくむしろ読者たちだったような気がする。幸運にもぼくは、本当に多くの読者から感動的な手紙をもらってきたが、とても対応できない。ぼくは、和田誠さんに作ってもらった似顔絵入りの葉書を使って頑張ったりもしたが、なにか心残りが消えなかった。余談だが、ぼくのところにくる手紙は「男の子」からのものが圧倒的に多く、サイン会でも同じだった。サイン会というと、普通「女の子」でいっぱいの華やかな雰囲気を想定するらしいけれど、ぼくの場合は「男の子」たちが黙々と並んでしまう。「帯のせいでしょうか」と言ったのは紀伊國屋の担当者だったが、たしかに本の帯にはこうあった。
「女の子にもマケズ、ゲバルトにもマケズ、男の子いかに生くべきか」
いずれにしても「あわや半世紀」。あの、ぼくに感動的な手紙をくれた読者たち、そしてサイン会で一瞬ではあったけれど出会った「男の子」たち、そして勿論「女の子」たちは、いまどうしているのだろう。
あわや半世紀のあとがき3
「あわや半世紀」前に、ぼくは講演会を100回以上もやったことがある。求められたテーマはさまざまだったけれど、ぼくから希望した演題は二つあって、「情報洪水のなかの青春」と「不老長寿の研究」だった。でも「不老長寿の研究」の方は結局3回やっただけでやめた。なんていうか、要するに「早過ぎた」とでもいうか、「時代」に"合わない感じがあったのだ。
「……第二次世界大戦直後の日本の新聞記事にはこんなものがありました。タイトルは『老婆轢かる』。某月某日某所で、某さん(xx)が車に轢かれた、という記事ですが、(xx)には(49)、つまり「老婆」は49歳だったのですね............。」
と、ここでぼくは嘆声にしろ失笑にしろ聴衆の反応を想定していたに違いないのだが、何もなかった。「あわや半世紀」前には、「老婆49歳」はそう不思議には響かなかったのか......。
ところが、この早過ぎた(?)「研究」に、すごく興味を示されたのが林達夫先生だった。林先生は、ぼくが『赤頭巾ちゃん気をつけて」を「中央公論」に発表したとき、真っ先に(雑誌発行とほとんど入れ違いに)「したたかな傑作」と褒めてくださって、それ以来ほくは、月一度上京される林先生と、当時京橋の中央公論社ビル7階にあったレストラン「プルニエ」で、よくランチをご相伴する「もうけ役」をつとめた。
そんな林先生が、ぼくの「不老長寿の研究」のなかでも最も大胆と言うか乱暴な、大脳についての仮説を面白がって、「もうじき喜寿」のある日、突然ロシア語を始めると言い出されたのだ。大脳の活性化には視覚的要素も大切というから、文字からして全く違うロシア語にしてみたの。「そのうちチェーホフでも読もうかと思ってるの」。(念のため言うと、林先生は英独仏伊の各国語に堪能だった)。
なお、本書のなかの「中村さん」のモデルは萩原延寿さんという説があったけれど、それは萩原さんがご自分で言っていたことで、根拠はマレーネ・ディートリッヒが好きと言うことだった。萩原さんは、よくうちのマンションのゲストルームに泊っていかれたが、そんな際携えてきたマレーネ・ディートリッヒのLPの1枚は、まだうちにある。
あわや半世紀のあとがき4
「あわや半世紀」よりずっと前から、ぼくは新宿での待ち合わせには、この『ぼくの大好きな青髭』に出てくる紀伊國屋書店をよく使ってきた。書店での待ち合わせは、相手や時間に合わせて売り場を選んだりもできて都合がいいのだ。
銀座では、近藤書店の2階原書売り場がまさに「小林クン好み」のカッコイイ待ち合わせ場所だったけれど、近藤書店はなくなり、続く旭屋書店もなくなってしまった。これはぼくの漠然とした感じなのだが、東京からは書店が減っているのだろうか。
減ったと言うよりも変わったと言うべきなのかもしれないが、喫茶店もなくなった。たとえばこの「青」に出てくる「風月堂」なんか、その名前を聞いただけで由美ちゃんが、「モーツァルトきいて、マリファナ煙草をふかしながら待ってるわよ。」と言い放つような怪しい雰囲気で知られていたものだった。
銀座で言えば「セシボン」「プリンス」「マグノリア」といったそれぞれ独特の凝った雰囲気の喫茶店もいろいろあったが、いずれにしろすべてなくなり、残っているのは「ウエスト」だけ……。あ、この「ウエスト」には、ぼくの中学で一緒だった美人姉妹がウェイトレスでいたことがあり、謹厳な、でもぼくに対しては「一中くずれの先輩」で「ナンパ」だった、と威張る丸山眞男先生をお連れして大喜びさせたこともある。
というようなわけで、ぼくはいまでも待ち合わせというとつい新宿は紀伊國屋、銀座は「ウエスト」を思い浮かべて不思議なほど懐かしい何かを感じてしまう。考えてみればぼくたちの一生は、なんと数え切れないほどの出会い、そして「待ち合わせ」で出来上がっていることだろうか。そして今日もまた言ってしまったりする。じゃ、また紀伊國屋のエスカレーターの下で......。次はまた『赤頭巾ちゃん気をつけて』でお会いしましょう、みたいな感じで······。
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(引用ここまで)
※関連記事リンク集
・庄司薫さんの小説(赤・白・黒・青4部作)のこと
・「情報洪水と価値の相対化」とは?(庄司薫『狼なんかこわくない』より)
・若々しさのまっただ中で犬死にしない方法序説(庄司薫『狼なんかこわくない』その2)
・強さに支えられたやさしさを育てること(庄司薫『狼なんかこわくない』その3)
・「狼なんかこわくない」と言いきるために(庄司薫『狼なんかこわくない』その4・最終回)

