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改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その24・最終回)

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改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その24・最終回)

改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その24・最終回)

2023/06/29

昨日投稿した記事の続きです。

 

改めて、「書くこと」と「教えない教育」の

関係を明らかにする というテーマを設定し

書き始めたこの記事も、

回を重ねて今回で24回目となりました。

 

今日はこれまでの話を総括し、

長くなったこのテーマの記事も

ひと区切りにするつもりですが、

これまでのプロセスがある程度見えないと、

主旨が伝わりにくいかもしれないので、

連投記事中に未読記事のある方は、

この記事の最後に記した関連記事リンク集から

適宜アクセス下さるとありがたいです。

 

 

さて、昨日投稿した記事の後半では

ウィトゲンシュタインの言語哲学に触れましたが、

晩年の彼が提案した「言語ゲーム」という

新しい考え方は、

世界のあらゆるふるまいを説明しつくそうとした

ブラックホールのようなものとも

言っていいかもしれません。

 

でも、そうであればこそ、

わたしたちが気づかないうちに

支配されてしまいがちな見えない枠組みにも

くさびを打ち込んで、

ハッと気づかせてくれるのではないかと。

 

たとえば、わたしたちの日常生活において、

「言葉が通じないな〜」と

感じる瞬間は、しばしば訪れます。

 

でもそれはウィトゲンシュタインの考え方からすると

自分の脳内の思考や心の内側が

相手に理解されていないということではありません。

 

そうではなく、

コミュニケーションの結果として生まれた

言葉というものを、人間の心の内側や辞書の中に

閉じたもの、独立したもの、固定したものとして

あたかももともと存在していたかのように、

勘違いし、錯覚してしまっているから

起きている現象なんですね。


したがって、コトの順序が逆というか、

言葉が先にあったのではなく、

わたしたち人間のコミュニケーションの方が

先にあったんですから。

 

そもそも言葉というものは、

わたしたちの人間の生活の中の振る舞いと

じかに結びついて生起し、流通している

開いた存在であると捉えることができると、

言葉が伝わらないのは、互いに

「異なる言語ゲームを生きている」からであり、

その相手が営んでいる言語ゲームに

一緒に参加できていないだけなんだと。

 

「書くこと」というのは、そのまま

自分の頭で考える訓練でもあるということを

以前の記事で書きました。

 

でも、ウィトゲンシュタインの

言語ゲームの考え方をふまえると、

他者とのやり取りや情報の受け渡しのないところで

自分ひとりだけでどんなに頑張っても、

自分の頭で考える力をつけるのは

ほぼ不可能でしょう。

 

まさに、その10の記事で紹介した

加藤哲夫さんの文章のタイトルにあった、

「自分の頭で考えるために一番大事なことは、

 自分の頭だけで考えないこと」

ということなんですが。

 

以前に投稿した

次のつぶやき考現学を読んでみて下さい。

「考える力」の習得には考えず〝ただやる〟鍛錬を(つぶやき考現学 No.13)

何も目指さない世界に安心していられること(つぶやき考現学 No.37)

 

たとえば、相手がプレイしているゲームを

自分が知っている別のゲームのルールで、

解釈しようとしても、ちぐはぐなことになり、

わけがわからないのは当然のことです。

 

たぶん、わたしがいまこうして書いている

このblog記事についても、

これを読まれるご自身が過去に体験されたことや

獲得してきた知識に基づくルール、辞書で

解釈しようとされる方には、

きっとここに何が書いてあるのか

サッパリわからないのではないでしょうか。

 

外側に見えている文字はあくまで

理解を助ける呼び水にすぎなくて、

そもそも理解というのは、

他者の力によって与えられるものではなく、

自分の内側から沸き起こってくるものだからです。

 

わたし自身も、20代の頃には、

吉本隆明さんの代表三部作や、

ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考」を

読んでもまったくチンプンカンプンで

そこに何が書いてあるのか

理解できなかったという体験をしました。

 

でも、それは人間として乏しい経験や

貧弱なルール、辞書しか持っていなかった

当時のわたしが、

戦後思想の巨人と言われた吉本さんの本の内容や

天才哲学者ウィトゲンシュタインの言葉を

解釈しようとしたところで、

理解できなくて至極当然の結果なのです。

 

わたし自身も長い期間学校教育を受けてきた人間で、

学生時代の癖をつい引きずってしまい、

たくさんの読書を重ねながらも

そこに書かれている知識や情報を

アタマに詰め込むことばかりに

気を取られてしまいがちなんですが、

結局、どんなに知識を増やしていってもキリがなく、

楽になるどころかどんどん苦しくなるばかりで

それだけでは自分のアタマで考えることに

役立てることができません。

 

その後、さまざまな考え方や立場の人が

自由に参加可能な読書会を主宰する体験を通じて、

自分の辞書で解釈するのではなく、

その著者の言語ゲームに、自分から身を投じ、

参加していく姿勢の大切さや、

自分の内側に問いを持ちつつ、

読んで得た知識を比較、対照、関連付けたり、

必要なときに必要な情報をすぐに引き出せるような

工夫をしない限り

著者の世界には触れられないということを

学ぶことができたんですが。

 

とくに30年前、初めて

インタビューゲームに出会ったときに

ものすごい大きな衝撃が走ったということは

以前このblog記事に書いたことがありましたが、

人に何かを教えよう、わからせよう

何かをわかってもらおうとして

文章を書くことの不毛さに気がついてから以降は、

らくだメソッドや経営ゲーム、

未来デザイン考程といった実体験型ツールを使って

対話的な関わりというか

言葉を双方向にやりとりできる〝場〟を

いかにつくるかに腐心してきました。

 

ウィトゲンシュタインの言うところの

言語ゲームを一緒に

つくっていける場ということなんですが。

 

「教える」という行為は、ともすると

教える側に立つ教師の言語ゲームのルールを

学習者にそのまま

押しつけてしまいがちなところがあるわけで、

学校へ通うことで

勉強が嫌いになってしまう子どもが

生まれてしまうことがあるのは

そういうところにも起因するのでしょう。

 

よって、「教えない」のではなく、

教えることによって、相手を理解に導くことは

不可能であって、

そもそも「教えられない」ものだと

考えるのが自然なんだとおもいます。

 

ウィトゲンシュタインは

次のようなことを書いています。

 

「言語を教えるということは、

 それを説明することではなくて、

 訓練するということなのだ」

(『哲学探究』第5部より)

 

らくだメソッドが

セルフラーニングスタイルの

ゲーム型体験学習ツールであることや、

寺子屋塾内外における人の関わり方については、

ゲームセンター型コミュニティという

キーワードを呈示しながら

こちらの記事にも書きましたが、

このウィトゲンシュタインの言葉は、

寺子屋塾での学習スタイルに

そのまま適用できると言ってよいでしょう。

 

サッカーの試合でも野球の試合でも

何でもいいんですが、

ゲームというのは常にその場だけ1回限りで

同じことは二度と起こりません。

 

だから、それを指導者の都合で

一方的に教えることなどできないし、

一人ひとりがみな、人と人との関わりの中で

学びあえるような場をつくり、

各々が折に触れて、固有の人生について

語り表現する練習をすればいいのではないかと。

 

 

今月の初旬に投稿した

OPENな場で書くことはなぜ大切? の記事で

次のような画像を紹介したことがありました。

 

わたしたちにとって、文章を書くということに

どういう意味、価値があるかについて、

この図を使いながら

最後に再度触れておこうかと。

 

最近わたしが痛感していることのひとつなんですが、

①の入力段階で自分の解釈を混入させ

②の加考(加工)段階に入る前で

自分の妄想に振り回されている人が

少なくないように感じています。

 

つまり、人間は外から情報を入力するときと、

出力するときの二度にわたって

ズレが生じてしまう可能性があって、

結局これは、情報リテラシーという

問題にもそのままつながるんですが。

 

ただ、目の前で起きたことを

目の前で起きたことのまま、

受け取ればいいのですが、

素直になると人に騙されやすいんじゃないかとか、

自分で事実だと確認してもいないような話を

鵜呑みにして

すぐに余計なノイズを

そこに混入させてしまうわけです。

 

日々こうして文章を書き続けるということは、

〝客観的事実〟と〝主観的現実〟を混同せず

①②③のステップを

きちんと振り分ける鍛錬であり、

入力と出力のステップで

ノイズやバイアスを入れず、

先入観、固定観念を発生させない

情報処理をする鍛錬でもあり、ひいては

それが「自分の頭で考える」ことではないかと。

 

(その14)の記事で紹介した

塩坂太郎くんのblog記事の3日後

彼が書いていた次の記事を読んでみて下さい。

「事実」はいつも「一回性」をもつ。

 

このblog記事も、書き始めた時点では

まったく脳裏に浮かんでいなかった言葉が

パソコンのキーボードを叩いているうちに

どんどん沸き上がるように出てくることが

これまでに何度もあり、

今のわたしもそういう感覚になっています。

 

それは、まさに「一回性」の為せるわざであり、

けっして自分一人だけでは起こり得ないことで、

この記事を読んで下さる

読者の皆さんの存在があってこそでしょう。

 

長々とした記事を最後までお読み下さり

ありがとうございました。<(_ _)><(_ _)>

 

 

【関連記事】

OPENな場で書くことはなぜ大切?

字を書くとは身二つになること

ブレヒト『真実を書く際の5つの困難』より(今日の名言・その60)

井上さんが文章を書くときに気をつけていることは?

ネット上(blogやSNSなど)で文章を書く心得

 

改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その1)平井雷太『「〜しなさい」と言わない教育』より①

(その2)平井雷太『「〜しなさい」と言わない教育』より②

(その3)平井雷太『「〜しなさい」と言わない教育』より③

(その4)今和次郎の考現学について

(その5)月刊通信『楽々かわらばん』第18号より

(その6)その4〜5のふりかえり、補足

(その7)塾生Mさん(1996年当時高3女子)の考現学

(その8)『生きるとは、生かされること』の解説・加藤哲夫

(その9)『加藤哲夫のブックニュース』より①

(その10)「自分の頭で考えるために一番大事なことは、自分の頭だけで考えないこと」加藤哲夫

(その11)『加藤哲夫のブックニュース』より②

(その12)本当の自分って何?目隠し構造って何?
(その13)塾生・坂田美佐子さんのblog記事

(その14)その13へのコメント+塾生・塩坂太郞くんのblog記事

(その15)その14へのコメント+塾生・岡本怜奈さんのblog記事

(その16)その15へのコメント

(その17)塾生・廣安裕文くんのblog記事

(その18)その17へのコメント

(その19)松岡正剛事務所ニュースレター〝一到半巡通信〟より平井雷太氏の記事

(その20)ナタリー・ゴールドバーグ『書ける人になる 魂の文章術』の紹介

(その21)その20の補足、日本語文章術を実践する上で推薦する良書3冊の紹介+異世代間の相互理解をすすめるために

(その22)『吉本隆明 自著を語る』から〝自己表出〟と〝指示表出〟について
(その23)ウィトゲンシュタインの言語哲学について

 

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