為末大さんのblog記事「自己責任論と社会責任論」を読んで(その2)
2022/01/22
昨日の続きです。
昨日は、為末さんが書かれたblog記事
「あるがままを受け入れることと、現状肯定の違い」
を紹介して、コメントを書きました。
「あるがままを受け入れる」も
「現状肯定」も、
その言葉自体の意味内容に、大差はありません。
結局、どこが違うのかというと、
わたしたちの頭の中の思考回路というか
ものの見方というか、思考の基軸を
個人に置くか、社会に置くかの違いだと。
それで、今日は為末さんのblog記事、
直接、言及したうえで、
そのことが当塾の学習プログラムと
どう繋がっているかについても触れるつもりです。
為末さんもその記事中に
当然、グラデーションになっています。
自己責任の考え方の人も、
社会の責任を認めていますし、
社会責任の考え方の人も
社会の条件が揃えば
自己責任の考えを持っていたりします。
文化圏でも違います。
と書かれているとおりで、
個人の集合体が社会であって、この両者は、
別箇に独立して存在しているわけではなく
グラデーション、つまり連続性のある概念で、
しかも、卵とニワトリの関係というか、
どちらが先がわかっているわけでもありません。
つまり、「個人」と「社会」とを比べたときに、
どちらか一方だけを大切だと考えている人は
現実にはほとんどいなくて、
両方どちらも大切に考えているという話は
あまりにあたりまえすぎて、
言を俟たない訳です。
たとえば、日本国憲法でも、第13条には
すべて国民は、個人として尊重される。
生命、自由及び幸福追求に対する
国民の権利については、
公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、
最大の尊重を必要とする。
と書かれ、個人の尊重は、公共の福祉、
すなわち、社会的に反しない限り、という
条件付きでしか認められていません。
つまり、ふだんは何も問題はなくても、
国が大きな空港を新しく建設するといったような、
この「個人」と「社会」の両者が
拮抗する状況に直面したときにはじめて、
「個人」と「社会」のどちらを
どのぐらい優先して考えようとしているのか、
そのバランスのとり具合であるとか、
どちらに側に思考の基軸を
置いているのかといった微妙な違いが
浮き彫りになってくるようにおもうのです。
そして、この問題を見えにくく複雑にしている
大きな原因のひとつとして、
その微妙な違いを決定づけるモトが、
個人個人が日常的に意識できている領域になく、
人間の心の無自覚な部分というか、
無意識領域にあるからなのではないかと。
たとえば、最近読んだ
梯谷幸司『無意識のすごい見える化』という本には、
そうした無意識領域に刷り込まれたものを
メタ無意識と名づけ、以下のような
12のパターンに分類しています。
①主体性の有無「主体行動型」と「反映分析型」
②行動の動機「目的志向型」と「問題回避型」
③モチベーション源「他者基準」と「自分基準」
④思考の基点の時間軸「過去基準」と「未来基準」
⑤成功の鍵「プロセス型」と「オプション型」
⑥結果と過程の比重
「人間重視型」と「物質タスク重視型」
⑦喜びの基点「目的基準」と「体験基準」
⑧トラブルの対処方法「悲観基準」と「楽観基準」
⑨決断の基準「分離体験型」と「実体験型」
⑩行動を起こす心理ベース「義務」と「欲求」
⑪自己認識「限定的自我」と「絶対的自我」
⑫本気度を示す「結果期待型」と「結果行動型」
梯谷さんの場合、このような個別に異なった、
無意識領域に刷り込まれた様々なパターンによって、
その人の行動が結果として現れてきている
と見ているわけですが、
この12のパターンすべてが対比的に
表現されていることからもわかるように、
その背景には、
「個人」から見るか、「社会」から見るかという
2つの方向性があると見ていいんじゃないかと。
為末さんのblogの内容に戻りますが、
為末さんは、この自己責任論と社会責任論をめぐって
日本人の場合について
ある決められた人生の型があり
それに従っている間に起きた出来事には
社会責任の考えが適用されるという特徴です。
つまり、様々なサポートがありカバーしてもらえる。
一方、その型を外れた途端
急に自己責任の考えが強くなります。
みんなと同じ人生を生きている間は社会責任で、
人と違う人生を生きたら自己責任という分け方です。
と書いている部分をとても興味深く感じたんですが、
とりわけ、
その型が時代の変化により成立しなくなり、
急に国家も社会も、
人それぞれ違う人生を生きてくださいと言い出して
混乱しているのが現在ではないでしょうか。
他方、社会の仕組みもいまだに型を前提としているので、
それを自由型に変更しようとして
各所が頑張っていると私からは見えます。
と書かれている部分など、
まさにその通だとおもいました。
さらに言うと、気をつけなければいけないのは、
この自己責任論と社会責任論を
どういうところに、どういうバランスで
どのぐらい適用させるかは一律でなくて
場面場面によって相当違うということでしょう。
為末さんは続けます。
例えば自己責任論を生活保護などに向けることは
とても危険ですが、
一方で子どもの教育を社会責任で捉えすぎると
自立の機会が失われます。
日本の教育は、基本的に社会責任を前提としていると
私は感じていて、
だからこそ子どもにリスクを取らせたり
その結果責任を取らせるようなことを
させないのだと思います。
とくに、昨年始まったコロナ禍によって、
この傾向は、いちだんと明確に浮き彫りになり、
何のための学校教育なのか、真に問われる事態が
生じているように感じているんですが、
為末さんが
個人に選ばせて責任を取らせないことには
自己責任の練習はできません。
と書かれていることには、わたしも同感です。
よって、寺子屋塾では、
学校教育でも家庭教育でもできないことや
難しいことをやろうとしているということを
「自分で決め、自分で学ぶ」
セルフラーニングのスタイルで
実践しているわけですが、
ずっとこの記事の最初から書き続けてきたとおり、
個人か社会か、というウエイトの置き方については、
0か100かということではないので、
すべてを学習者だけで決めているわけではありません。
あくまで、まわりとの関わりを前提としながら
「自分で決め、自分で学ぶ」わけで、
「個人」と「社会」の比重バランスを
学校教育の場に比べた場合に
個人の側にスライドさせた形で
自己責任をとる練習ができる場づくりを
実践している次第です。
だいぶ長い文章になってきましたので、
この続きはまた明日!