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「仏教を学ぶ」とはどういうことか?

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「仏教を学ぶ」とはどういうことか?

「仏教を学ぶ」とはどういうことか?

2022/02/27

仏教をどんなに学んでも、たぶん、

それだけでは悟ることはできないでしょう。
 
そもそもまず、

「なぜ自分は仏教を学ぼうとしているのか?」

という動機そのものや、
その動機を生み出している

「自分」を観ることが
先なのではないかとおもうからです。
 
仏教は、とてもすばらしい教えではありますが
あくまで数多ある「教え」のひとつにすぎません。
 
言い換えれば、「仏教とは何か?」
「何のために仏教はあるのか?」という

問いの本質について、
考えを自ら深めていくことではじめて、
仏教の世界に近づいていけるようにおもうのです。
 
あなたは「どういう状態になったら、
自分は『仏教がわかった』と言っていいのか?」
ということについて考えたことがありますか?
 
つまり、自分が仏教を学んで、
仏教の某かが「わかった」というのなら、
おそらく自分の何かが

変わるのではないかとおもうのです。
 
もし、何も変わっていないというのなら、
そもそもあなたは、
何のために仏教を学んだのでしょうか?

 

いったい仏教の何を学び

何を「わかった」というのでしょうか?
 
何も変わっていないというのに、
はたしてそれで

「仏教を学んだ」「仏教がわかった」と
言っていいのか?ということです。
 
ビフォーアフター・・仏教を学ぶ前と学んだ後で
自分のいったい何が変わるのか・・・
それを考えずして
仏教についての知識や情報を
ただアタマに詰め込むばかりでは、
悟るどころか、

どんどん苦しくなる一方ではないでしょうか?
 
たとえば、「仏教を学ぶということは、

崇高な理想を持つことだ」と考える人が

いるかもしれません。


そして、崇高な理想を持つことは、
人として立派なことだとおもうかもしれません。
 
でも、「崇高な理想のために生きる」というのは、
ひとつ間違うと、その崇高な理想の

奴隷にもなりかねないのではないでしょうか。
 
なぜなら、どんなに崇高な理想をもったとしても、
その理想が自分の中から生まれ出たものでなく、
自分にとって本当に必要なものでないのなら、
却って自分を苦しめてしまうのではないかと

おもうのです。
 
ですから、「なぜ自分は、
お釈迦さまのように、崇高な理想が放っておいても

自ずと生まれてきてしまう人間ではないのか?」
と問うことが先で、
それを邪魔しているものは何か?を

先に問う必要があるんじゃないかとおもうのです。
 
お釈迦さまのような覚者の言うことが
われわれのような凡夫になかなか理解できないのは、
そもそも視座が違うためではないかとおもうのです。
 
つまり、視座を変えることなく、
自分の視座、自分の思考回路でもって
仏教の言葉を理解しようとしたところで、

それはひとつの解釈でしかなく、たぶん
彼らの世界には一歩も近づけないことでしょう。
 
ですから、どうしてお釈迦さまが

その視座に立てたかを問い、
自分自身がその視座に立つことができたなら、
そこではじめて、仏教とは何かを理解する

入口に立てるのではないでしょうか?
 
COMMENT:先日教室で、塾生のひとりと

対話していたときに仏教の話題になり、

そのとき話していた内容や、

後からおもい浮かんだことなどを整理してみました。

 

※釈迦涅槃図はこちらのページより拝借しました

 

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