過(あやま)ちにも仁は立ち現れる(「論語499章1日1章読解」より)
2022/04/17
論語は全部で499章あるんですが、
2019年の元旦から2020年5月13日まで
約1年半の間、1日に1章ずつ読んで
その内容をfacebookに投稿することを
日課としていました。
昨年11月の半ばに
そのことをふりかえって書いた文を
このblog記事から3回にわたって
ご紹介したことがありましたが、
論語499章のなかでも大事だとおもわれる章を
④古典研究関連のカテゴリーで
少しずつ紹介していく予定です。
今日は、過ちへの処し方に仁は立ち現れるとある
里仁・第四の7番(通し番号73)です。
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【里仁・第四】073-4-07
[要旨(大意)]
その人の過ちにも仁は立ち現れると述べた章。
[白文]
子曰、人之過也、各於其黨、觀過斯知仁矣。
[訓読文]
子曰ク、人ノ過ツヤ、各其ノ黨ニ於テス、過チヲ觀テ斯ノ仁ヲ知ル。
[カナ付き訓読文]
子(し)曰(いわ)ク、人(ひと)ノ過(あやま)ツヤ、各(おのおの)其(そ)ノ党(とう)ニ於(おい)テス、過(あやま)チヲ観(み)テ斯(ここ)ノ仁(じん)ヲ知(し)ル。
[ひらがな素読文]
しいわく、ひとのあやまつや、おのおのそのとうにおいてす、あやまちをみてここにじんをしる。
[口語訳文]
先生(孔子)が言われた。「人はその人の段階に応じて過ちを犯すものである。よって、その過ちを観察することは、その人の仁を知ることにつながる。」
[井上のコメント]
この章は、「人は(君子であろうと小人であろうと)
みな過ちを犯すものである」という
孔子の人間観が表れているように感じました。
たとえば君子は、人情に厚いがために、
その愛において過ちを犯し、
また小人は、人情に薄いがために、
残忍非道な過ちを犯すものである、と。
よって、人がどういうところで、どんな過ちを犯すのか、
そして犯した過ちに、その人がどう向き合い
どう対処するかに、仁は立ち現れているものだ、と。
ここでの「仁」とは、人格(徳の段階)、
理念(方向性)、文化水準、人柄、性格といった
人間性全般を指すと考えてよいでしょう。
人生は自分のおもいどおりにはならないものです。
そして、人はそのおもいどおりにならないとき、
そのおもいどおりにならないことに
どのように処するかに、その人の本質が
現れるものだと孔子は言っているんだと解しました。
となると、政治的に考えた場合、
過ちを犯した人を闇雲に処罰するよりは、
犯した過ちに応じた学習を、個別に
行えるようにすることが大事ということになりますね。