君子ハ泰ニシテ驕ナラズ、小人ハ驕ニシテ泰ナラズ(「論語499章1日1章読解」より)
2022/05/29
論語は全部で499章あるんですが、
2019年の元旦から2020年5月13日まで
約1年半の間、1日に1章ずつ読んで
その内容をfacebookに投稿することを
日課としていました。
その内容を古典研究関連のカテゴリーで
少しずつ紹介しているんですが、
先週ご紹介した里仁・第四の11番(通し番号77)と
同じスタイルで、君子と小人を対比的に述べている
子路・第十三の26番(通し番号328)です。
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【子路・第十三】328-13-26
[要旨(大意)]
君子と小人の立ち振る舞いが異なることを対比的に述べている章。
[白文]
子曰、君子泰而不驕、小人驕而不泰。
[訓読文]
子曰ク、君子ハ泰ニシテ驕ナラズ、小人ハ驕ニシテ泰ナラズ。
[カナ付き訓読文]
子(し)曰(いわ)ク、君子(くんし)ハ泰(たい)ニシテ驕(きょう)ナラズ、小人(しょうじん)ハ驕(きょう)ニシテ泰(たい)ナラズ。
[ひらがな素読文]
しいわく、くんしはたいにしてきょうならず、しょうじんはきょうにしてたいならず。
[口語訳文1(逐語訳)]
先生が言った。「君子は大らかだが驕らない。凡人は驕るが大らかでない。」
[口語訳文2(意訳)]
君子は、自分に自信がある。だから、ゆったりと落ち着いていて、威張る必要がない。対して小人は、虚勢を張って威張りたがるが、余裕がない。だから、つつけばすぐに飛び上がる。
[口語訳文3(従来訳)]
先師がいわれた。――
「君子は泰然としている。しかし高ぶらない。小人は高ぶる。しかし泰然たるところがない」(下村湖人『現代訳論語』)
[語釈]
泰:ゆったりしている。のびのびしている。落ち着いている。余裕がある。
驕:おごり高ぶる。尊大ぶる。威張る。高慢なようす。
[井上のコメント]
人間の自意識のあり方、内面と外面の違いを、前章と同じく君子と小人として対比的に述べていて、孔子の人間観察の鋭さが感じられますね。こんにちのわたしたちは、道徳というコトバをとてもお説教臭く感じてしまうのですが、それは、後世の儒学者が遺した論語の注釈がお説教臭かっただけなので、そうしたものは、孔子自身の精神波動が生み出したものではなく、孔子が言わんとする本来の道徳のあり方とはまったく別モノなのではないかと。
なぜ、君子は威張らずのびのび自然体でいられるのでしょうか。それは、「威張らないでおこう」「自然体で生きよう」という目標を設定し、それを常に守ろうと心がけているからではありません。「こうすべきだ」「ああすべきだ」と人間の外側に規範を設け、それを守ろう、人の意に沿おうと意識することが、道徳的な生き方ではないのです。いつも自分自身と向き合い、自己覚知、自己理解を心がけていれば、人に対して威張ったり卑下したりする必要などなく、等身大の自分でいられます。人間ですから、時として無理が昂じて葛藤、恐怖が生じることがあっても、それが大きく膨らんで居座るようなことはなく、おのずと自然体になっていき、結果的に道徳的な生き方になってしまうでしょうから。計らいによらず、この〝結果的に〟であることが何より重要だとおもうのです。
良寛和尚の作とされる次のような漢詩があります。
花無心招蝶 花は無心にして蝶を招き
蝶無心尋花 蝶は無心にして花を尋ぬる
花開時蝶来 花が開く時、蝶来り
蝶来時花開 蝶が来る時、花開く
吾亦不知人 吾も亦人を知らず
人亦不知吾 人も亦吾を知らず
不知従帝則 知らずして帝の則に従う
春になって暖かくなればおのずと花は咲き、花が咲けば蝶が飛んできます。花は蝶を呼ぶために自分を美しく見せようとしたり、よい匂いを出そうと考えたりしているわけではありません。また、蝶も花を求めてただ飛んでくるだけで、自然の摂理に従っているのです。
人には心の内側は見えないし、外から見るだけでは何を考えているかはわかりません。でも、他人の心を知ることはできなくても、みな自然の摂理に沿って生きていることには変わりがなく、そうした摂理によって生かされているということさえ弁えていれば、何ら問題ないのではないでしょうか。
九去堂は本章の解説・付記に「顔回や子貢といった、奇蹟のような能力を持った弟子が、なぜ孔子の下を離れなかったのか、その理由の一つが論語の本章にあるように思う。」と書いていて、その通りだなぁとおもいました。