ゆるい学びの〝場づくり〟ということ
2022/08/04
木曜はマネジメント関連の記事を投稿しています。
いま当塾に在籍している塾生の8割以上が
社会人なんですが、その人たちの多くが
「実際に学習してみると、体験前に
想像していた内容とは全く違うものでした」
「この教室のことを、ここに来ていない人に
説明しようとしてもうまく伝えられないのです」
と話しています。
それで、寺子屋塾がなぜ想定外であり、
言語化が難しいのかについて、
いろいろ考えてみたのですが、
ひとつは、わたし自身の主な役割が、
学びたいという意志さえあれば、
どんな人でも受け入れられるような
「学びの場」をつくることにあって、
しかも、何かを教えるために
目標設定するところからスタートせず、
だからといって何もしていないわけではないという、
「場への関わり方」があるようにおもうのです。
つまり、らくだメソッドやインタビューゲーム、
未来デザイン考程、経営ゲームなど
当塾で提供している学習ツールにおいては、
もちろん共通する基本的な要素も含んではいるものの
いずれも、だれもが100%同じ内容を習得できる
固定コンテンツが用意されているわけではありません。
各自が体験的に学習していくプロセスで、
個別に異なる課題が浮き彫りになってくるので、
一人ひとりが別々のことを学べるような
場をつくっているわけですから、
そうした〝場〟の存在って、
外側からはなかなか見えにくいんですね。
それで、現在は立教大学経営学部教授の中原淳さんが、
東大大学院におられた2012年に書かれた
blog記事をおもいだしたので、
その内容をご紹介しようとおもいたちました。
「仕掛けない仕掛け」「介入しない介入」の話
この記事で中原先生は、「ゆるい学びの場」を
次の4項目で整理されているんですが、
その場をどうファシリテートするかという
教室でのわたしの関わり方が、
まさにここに書かれている内容に
通じているのかもと感じた次第です。
1.決まり切ったコンテンツを学ぶのではなく、
2.参加者が、自然とリラックスした雰囲気の中で
3.自発的に双方向に発言し
4.でも、おのずから、深い理解にそれぞれが
到達できる機会
もちろん、これが寺子屋塾でどこまで実現出来ているか
甚だ心許ないのですが、
この記事を読んでいただくことで、
すこしは寺子屋塾がどんな場であるのか、
どういう在り方を志向しているのかについて、
多少はイメージして頂けるかもとおもいましたので。
以下は記事の後半部分です。
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おそらく、「美味しんぼ」の海原雄山的セリフで言うのだとすると、めざすべきは、こういう状況なのです。
この場は「きっちり」「かっちり」でもなければ、しかし、「だらだら」「ぐずぐず」でもない。みんなが、積極的に場に参加・貢献しつつ、しかも、それでいて、一切の”押しつけられ感”がない。シロウ、まだわからんのか、シロウ。
上記のような状況をつくりだしたいときは、僕個人としては、逆に、「きっちり」「かっちり」やるときよりも、様々に準備を施し、仕掛けて、介入することが必要になると思っています。
直接的ではなく、間接的に、人々の意識・行動・認知をゆるやかに統制づけるような仕掛け、働きかけ、が。
ここにこそ「難しさの根源」があります。「ゆるい場」とは「仕掛けられることによって実現しない場」であり、「介入されることを拒否する場」であるからです。だからこそ、「直接的」に働きかけるのではなく、「間接的」にそれをなさなければならない。
学習者が、自分たちで語りだし、自分たちで意味づけ、自分たちで気づくような場を、直接的ではなく、間接的につくりだす必要があるのです。そして、ここにこそ「学びをつくりだす知性」が問われます。
(ちなみに、場がゆるければ、ゆるいほど、その場のロジスティクスはしっかりとする必要があります。それは最低の条件です)
畢竟、「ゆるさ」の実現とは、「仕掛けない仕掛け」「介入しない介入」なのです。
そこには、かつて、哲学者の鷲田清一さんが表現した「能動的受動」という言葉、あるいは、社会学者のゴフマンが主張した「聴くことの積極性」に通じるものがあるように、僕には感じられます。一見「受動的であるもの」「直接何かをしないと思われるもの」であるほど、「積極的な呈示」によって達成されるという意味です。
「ゆるい場」を実現するという理念の背後には、そんな形容矛盾(オキシモロン)的な世界を引き受ける、ということです。それは「何もしないこと」ではありません。「何もしないということで、何かをする」ことなのです。