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小子、何莫學夫詩(「論語499章1日1章読解」より)

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小子、何莫學夫詩(「論語499章1日1章読解」より)

小子、何莫學夫詩(「論語499章1日1章読解」より)

2022/11/20

日曜は古典研究カテゴリーの記事を書いていて、

易経や仏典、論語などを採りあげています。

 

2019年の元旦から翌年5月13日まで約1年半の間、

全部で499章ある論語を1日に1章ずつ読んで

その内容をfacebookに投稿することを

日課としていたので、

その中からわたしが個人的に大事だとおもう章を

少しずつ紹介してきました。

 

先週、この古典研究カテゴリーでは

『共同幻想論』『サピエンス全史』と仏教のつながり

という記事を書きました。

 

お釈迦さまの説かれた如実知見の〝悟り〟とは、

「存在するもの」と「実在するもの」の違いを

ちゃんと見抜く目を持つということではないかと

わたしなりに解しているんですが、

吉本隆明、ユヴァル・ノア・ハラリ両雄の著書は、

そうした怜悧な視点で貫かれていると

感じたわけです。

 

その流れから、その翌日に書いた

「今日の名言シリーズ」では、

エゴン・シーレの言葉をとりあげ、

「猥褻なもの」とは、

客観的事実として〝実在〟するわけではなく、

ただ、わたしたちがアタマの中の観念の世界で

何モノかに対し、それが猥褻であると

〝意味づけ〟を行った結果により

〝存在〟しているだけだという言葉を採り上げました。

 

ただ、ありがちな誤解なんですが、

『共同幻想論』の中には

「国家は共同の幻想である」という

カール・マルクスの言葉を引用されていても、

吉本さんは国家について、

取るに足らない虚偽、架空という意味の

イリュージョンであると主張したかったわけでは

ないんですね。

 

つまり、国家は実在せず存在しているだけだ

というのは、

「『実在』はいいけど『存在』はダメ」

ということが言いたいわけではなく、

人間はさまざまな観念を

生み出さざるを得ない動物であるけれども

その、アタマの中の存在でしかない観念を

リアルな実在物のように見做してしまうというか、

錯覚してしまうというか、

「存在」と「実在」をごっちゃにしてしまうのは、

何故なのかということを

解き明かそうとされたと言ってよいでしょう。

 

ということで、前置きが長くなってしまいましたが、

「サイエンス」と「アート」の間にも

前述した「実在」と「存在」の関係と

似たところがあるように感じていて、

今日の論語も、「『実在』はいいけど『存在』はダメ」

って話ではなく、

「存在」側というか、「アート」側の話で、

門人たちに詩経を学ぶことを奨めている

陽貨第十七の9番(通し番号443)をご紹介します。

 

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【陽貨・第十七」9番】443-17-9
 
[要旨(大意)]
豊かな人間性を学ぶには、詩経を学ぶのが良いと孔子が述べている章。
 
[白文]
子曰、小子、何莫學夫詩、詩可以興、可以觀、可以羣、可以怨、邇之事父、遠之事君、多識於鳥獣草木之名。
 
[訓読文]
子曰ク、小子、何ゾ夫ノ詩ヲ學ブベキカ、詩ハ以テ興ス可ク、以テ觀ル可ク、以テ羣ス可ク、以テ怨ム可シ、之ヲ邇クシテ父ニ事ヘ、之ヲ遠クシテハ君ニ事フ、多ク鳥獣草木ノ名ヲ識ル。
 
[カナ付き訓読文]
子(し)曰(いわ)ク、小子(しょうし)、何(なん)ゾ夫(か)ノ詩(し)ヲ學(まな)ブベキカ、詩(し)ハ以(もっ)テ興(おこ)ス可(べ)ク、以(もっ)テ觀(み)ル可(べ)ク、以(もっ)テ羣(ぐん)ス可(べ)ク、以(もっ)テ怨(うら)ム可(べ)シ、之(これ)ヲ邇(ちか)クシテ父(ちち)ニ事(つか)ヘ、之(これ)ヲ遠(とお)クシテハ君(きみ)ニ事(つこ)フ、多(おお)ク鳥獣草木(ちょうじゅうそうもく)ノ名(な)ヲ識(し)ル。
 
[ひらがな素読文]
しいわく、しょうし、なんぞかのしをまなぶべきか、しはもっておこすべく、もってみるべく、もってぐんすべく、もってうらむべし、これをちかくしてちちにつかえ、これをとおくしてはきみにつかう、おおくちょうじゅうそうもくのなをしる。
 
[口語訳文1(逐語訳)]
先生が言われた。「お前たちよ、どうしてあの『詩経』を学ばないのだ。詩は心を奮い立たせ、物事を観察することができ、人々と共に友好を深められるし、政治批判も表現することができる。近いところでは父にお仕えし、遠いところでは君にお仕えする、鳥獣草木の名前を覚えることもできるのだ。」
 
[口語訳文2(従来訳)]
先師が門人たちにいわれた。――
「お前たちはどうして詩経を学ぼうとしないのか。詩は人間の精神にいい刺戟を与えてくれる。人間に人生を見る眼を与えてくれる。人とともに生きるこころを培ってくれる。また、怨み心を美しく表現する技術をさえ教えてくれる。詩が真に味わえてこそ、近くは父母に仕え、遠くは君に仕えることもできるのだ。しかも、われわれは、詩をよむことによって、鳥獣草木のような自然界のあらゆるものに親しむことまでできるのではないか」(下村湖人『現代訳論語』)

 

[口語訳文3(井上の意訳)]
諸君よ、なぜ『詩経』の詩からもっと熱心に学ばないのか。詩は、それを学ぶことによって、比喩による感情移入の技術を身につけ、人情の自然に共感を興すことができ、うた世界がまるで違って生き生きと見えるようになる。物事の背景が分かるようになる。同好の士を集めて楽しむことができる。また、それによって誰もが当事者として、政治家に反省を促すような意見を表明することもできる。そのうえ、身近な家庭においては、性情の正を涵養して父親に仕えるにも役立つ。家庭外では、それによって官吏としての政令の通達や、外交使節としての教養が身につくから、主君に仕えることにも役立つ。おまけに鳥やけもの、草木の名前を識ることにも役立つ。
 
[語釈]
小子:諸君。お前たちよ。先生が門人に呼びかける言葉。
詩:ここでは孔子が編纂したとされている『詩経』のこと。
興:気持ちを比喩を用いて表現する。または、感奮興起する。
羣:「群」に同じ。友好を深める、多数の友を得る、同好の士を集める。
怨:「恨み言を表現する」の意だが、ここでは政治批判、風刺などを指し、恨みの心を正しく意見として表現できるようになること。
邇:近い。
事:仕える。
識:知る。
 
[井上のコメント]
本章は『詩経』の言葉に真剣に向き合うことで、どういうメリットや学習効果があるのかについて、孔子が丁寧に述べながら、門人たちにもっと深く『詩経』について学ぶことを勧めています。

 

為政第二の2番(通し番号018)には「子曰ク、詩三百、一言以テ之ヲ蔽フ、曰ク思邪無シ。(詩経には300以上の詩がある。これらを一言であらわすと、心のままの純粋な感情や素直な人間性のあらわれと言ってよいだろう。)」とありました。また、述而第七の17番(通し番号164)には、「子ノ雅言スル所ハ、詩、書、執禮、皆雅言ナリ。(先生がいつも語られることは『詩経』と『書経』でした。礼を実践する人も、みなこれを毎日語られていました。)」とありましたし、泰伯第八の8番(通し番号192)には、「子曰ク、詩ニ興リ、禮ニ立チ、樂ニ成ル。(詩を読んで道を志し、礼を習って社会的に自立し、音楽を聴いて完成させる。)」など、これまで見てきた『論語』の既出章には、詩経から引用した言葉や、詩経に言及する箇所が少なくありません(通し番号15, 42, 48, 60, 187, 192, 199, 258, 307, 374, 389, 432)。

 

偽作が多いとされている陽貨篇ですが、本章には、なぜそれほどまでに孔子が詩・礼・楽を学ぶことを大切にしていたのか、その理由が明確に書かれていて、本章に限っては、孔子の肉声がほぼそのまま書かれているものとみてよいでしょう。


余談ですが、論語のこの章を読んだことで、わたしがリスペクトしている吉本隆明さんが戦後最大の思想家とまで呼ばれるようになったのは、吉本さんが若い頃からずっと詩を書くことを大事にされてきたことと、大きな関係があるんじゃないかと益々おもえてきました。

 

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