寺子屋塾

子語魯大師樂曰、樂其可知已(「論語499章1日1章読解」より)

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子語魯大師樂曰、樂其可知已(「論語499章1日1章読解」より)

子語魯大師樂曰、樂其可知已(「論語499章1日1章読解」より)

2023/02/05

昨日は立春で、今日は昨日に引き続いて

昼間はちょっと気温が上がって小春日和でしたね。

 

今日は日曜なので教室はお休みの日でしたが、

昼間、寺子屋塾生のひとり・鈴木恵深さんが

バイオリンとデュエットのコンサートで

ピアノを演奏するので

名古屋の覚王山まででかけて聴いてきました。

 

小さな会場での

1時間ほどのミニコンサートでしたが、

これまで聴いたことが無かった

バッハが18歳のときに加わったワイマール宮廷楽団の

監督をしていた作曲家でバイオリニストだった

ウエストホフの無伴奏バイオリンパルティータイ短調

フォーレのバイオリンソナタ第1番という

意欲的なプログラム構成でとても楽しく聴けました。

 

 

さて、今日はどんな記事を書こうかと考えたとき、

先月まで毎週日曜は古典研究カテゴリーで

記事を書いていたので、まだその癖が抜けず、

論語や易経のことが

すぐ脳裏に浮かんでしまったんですが、

冒頭書いたように、

今日はコンサートで音楽を聴いたこともあって、

孔子が音楽に造詣が深かった話を

まだ書いていなかったことをおもいだしたのです。
 

音楽好きのわたしでしたが、

論語と音楽とを結びつけて考えたことは

ほとんど無かったので、

論語499章を1年半かけて

毎日1章ずつ読んでいたときに、

そのことに気づいたのは、

最もビックリしたことのひとつでした。

 

・・ということで、今日は論語499章読解より、

孔子が音楽について語っている
八佾第三の23番(通し番号63)をご紹介。
 

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【八佾・第三】063-3-23

[要旨(大意)]

孔子が音楽について魯の国の楽団長に語った章。

 

[白文]

子語魯大師樂曰、樂其可知已、始作翕如也、從之純如也、皦如也、繹如也、以成。

 

[訓読文]

子、魯ノ大師ニ樂ヲ語ゲテ曰ク、樂ハ其レ知ル可キナリ、始メ作ス翕如タリ、之ヲ從テバ純如タリ、皦如タリ、繹如タリ、以テ成ル。

 

[カナ付き訓読文]

子(し)、魯(ろ)ノ大師(たいし)ニ楽(がく)ヲ語(つ)ゲテ曰(いわ)ク、楽(がく)ハ其(そ)レ知(し)ル可(べ)キナリ、始(はじ)メ作(おこ)ス翕如(きゅうじょ)タリ、之(これ)ヲ従(はな)テバ純如(じゅんじょ)タリ、皦如(きょうじょ)タリ、繹如(えきじょ)タリ、以(もっ)テ成(な)ル。

 

[ひらがな素読文]

しろのたいしにがくをつげていわく、がくはそれしるべきなり、はじめおこすきゅうじょたり、これをはなてばじゅんじょたり、きょうじょたり、えきじょたり、もってなる。

 

[口語訳文1(逐語訳)]

先生が魯国の楽長にこう言われた。「音楽の要を知ることができます。演奏の始めは盛大に鳴り響き、つぎには和やかに流れ、はっきりと旋律を奏で、ゆっくり余韻を残して完成します。」

 

[口語訳文2(井上の意訳)]

先生(孔子)が、魯の国の楽団長に向かって音楽について語られた。「音楽はわかりやすいものですね(理屈で考えるような難しいものではありません)。まず勢いよく演奏を開始し、(鐘が)盛大に鳴り響きます。その後に(色々な楽器の合奏が)静かに調和を保って流れます。さらにそれぞれの楽器の音が一つひとつはっきりと聞こえ、最後に心地よい余韻を残しながら終わるのですね。」

 

[口語訳文3(従来訳)]

先師が魯の楽長に音楽について語られた。「およそ音楽の世界は一如の世界だ。そこにはいささかの対立もない。まず一人一人の楽手の心と手と楽器が一如になり、楽手と楽手とが一如になり、さらに楽手と聴衆とが一如になって、翕如として一つの機をねらう。これが未発の音楽だ。この翕如たる一如の世界が、機熟しておのずから振動をはじめると、純如として濁りのない音波が人々の耳を打つ。その音はただ一つである。ただ一つではあるが、そのなかには金音もあり、石音もあり、それぞれに独自の音色を保って、決しておたがいに殺しあうことがない。皦如として独自を守りつつ、しかもただ一つの音の流れに没入するのだ。こうして時がたつにつれ、高低、強弱、緩急、さまざまの変化を見せるのであるが、その間、厘毫のすきもなく、繹如としてつづいて行く。そこに時間的な一如の世界があり、永遠と一瞬との一致が見出される。まことの音楽というものは、こうして始まり、こうして終るものだ」(下村湖人『現代訳論語』より)

 

[井上のコメント]

『論語』編者の視点で読むと、八佾第三に収められた各章は、〝礼〟というテーマでまとめられていることがわかります。「礼楽」という言葉が示すとおり、中国には、礼と音楽とは切っても切れない深いつながりがあるという考え方が昔からありました。たとえば、通し番号018や060で、孔子は詩を学ぶことを奨めていましたが、詩や音楽は、社会秩序を保ち、人々の心が安定することとつながっていると考えていたことが想像できます。

さて、この章で孔子が語りかけている「魯ノ大師」は、現代で言えばオーケストラの指揮者といったところでしょうか。孔子は、音楽については門外漢だとおもっていたので、プロの音楽家に向かって「本当の音楽とは何なのか」について語るというのは、「釈迦に説法」となってしまいかねないのではとも最初はおもってしまったのですが、それはわたしが無知だっただけのことで、この章の表現をよく読み込んでいくことで、孔子がイキイキと音楽について語る姿がイメージされてきたのです。つまりこの章は、孔子の発した言葉から、孔子の芸術に対する感受性や造詣の深さを、どこまで微細に感じ取れるかがポイントでしょう。そういう意味で、「翕如、純如、皦如、繹如という4つの形容は、復元することは困難」としながらも、詩の絶句に表れる起承転結なぞらえて解しようとする宮崎安貞の姿勢や、細部にわたって丁寧に表現された下村湖人の意訳は、的を得ているように感じました。

 

※冒頭の写真は春秋戦国時代のものとされる青銅で製造された編鐘(1978年に湖北随県で発掘されたもの)

 

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