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易経というモノサシをどう活用できるか(その2)

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易経というモノサシをどう活用できるか(その2)

易経というモノサシをどう活用できるか(その2)

2021/10/28

昨日は、易経というモノサシをどう活用できるかというテーマについて、「何かの現象があるとき、それは単独で成り立っているのではなく、必ずそこに2つの力が働いている」ということを書きました。

 

10/24の記事には、41番目の卦「山沢損」と42番目の卦「風雷益」がセットだという話を書いたんですが、「損した」とおもうような出来事があっても、実は見えないところでは得しているのかもしれないし、何かを得たときには、見えないところで何かを失っている・・・ようするに、目の前に展開している現象だけを追いかけててもダメで、自分の視野の方を拡げることが大事なわけです。

 

さて、今日書くことは、そのことの続きで、昨日書いたことの一応用で、「善悪は、あくまで相対的なものであり、絶対的な良し悪しはない」ということです。

 

相対的というのは・・・たとえば10円は、1円と比較すれば多いけれど、100円と比較すれば少ないわけで、10円だけを見て多いとか少ないとか言ってもはじまらない、といえばわかるでしょうか。

 

薬(くすり)という言葉は、後ろから読めば「リスク」となりますね。笑 つまり、同じものであっても、使い方によって毒にも薬にもなると言っていいでしょう。

 

漢方薬にはたくさん処方がありますが、どの処方が良いとか悪いとかはないですね。あくまで、ある人のあるタイミングにおけるある状態のときにとって、それが合うか合わないか、必要か必要でないか、ということしかないわけですから。

 

まあ、易経を巡って記事を書いているここ数日というもの、表現する角度をちょっと変えているだけで、ずっと同じ内容のことを書いているだけなんですが・・・(^^;)

 

たとえば、当塾におけるらくだメソッドの学習において、指導者のわたしが口癖のように使っている「できないときがチャンス!」という言い回しがあるんですが、実際にはこの言葉の主旨ほど伝わりにくいものはありません。

 

なぜなら、ほとんどの人が「できることが良いことで、できないことは悪いこと」という、良し悪しの価値判断がガッチリ刷り込まれていて、それ以外の世界が存在することが意識できなくなってしまっているからでしょう。

 

算数プリントの学習を通じて、良し悪しの囚われから抜け出すのは容易ではないことなんですが、毎日サイコロを振って易の世界観に触れる習慣を日常に組み入れることも、その一助になるかもと感じたことが、こうして寺子屋塾で易の学習コースを始める理由のひとつです。

 

「自己肯定感を持つことの大切さ」という言葉もよく聞くんですが、現実にはこの真意を理解し、ちゃんと実践できている人にはなかなか出会えません。

 

「否定か肯定か」という善悪二元論から完全に抜け出ていないところで「自己肯定感」を持とうとしても、たいていは無理が生じて苦しくなってきてしまうか、自分に都合のいいときだけの自己正当化や単なる開き直りになってしまいますから。

 

真の自己肯定感のある人は、「どうしようもないクズな自分」も、「めっちゃイケてる自分」も、そのどちらも平等に俯瞰して見ることができ、どちらか一方だけに固執していないから、外的な環境や出来事に左右されないし、どんな状態に陥っても心が揺れないんですね。

 

こんなことを書いているわたしも、かつては落ち込んだり舞い上がったり、メンタル的に浮き沈みの激しい人間だったんですが、あるとき気がついたら、良し悪しの囚われから抜け出て「絶対的な良し悪しはない」という世界観の中にいたんです。

 

らくだのプリントを毎日続けていたこともその一因かもしれないし、たぶん読んだ本から得られたものもあるんでしょうが、ほんとうに気がついたら、自然にそうなっていたという感じで、そのために必死に努力をした憶えもないんですが・・・。

 

それで、読んだ本から得られた情報、知識というところで言うなら、その筆頭が「易経」なのかなと。

ただ易の場合は、単に知識を頭に詰め込むだけの次元ではなくて、易の奥深い世界観が真に実感できるようになってくることで、物事を捉えようとする解像度が上がってくるのかもしれません。

 

具体的に易に出てくる言葉に触れてみましょう。

 

全部で64ある易の卦の29番目は「坎為水」で、易占いの世界では、「坎為水は、水雷屯、水山蹇、沢水困と並ぶ四大難卦のひとつ」と言われたり、「百事凶、厄災あり。水難、病難、色難に注意すべし!」などと書かれていたりすることもあります。

 

でも、坎為水の卦辞原文を読むと、

 

●卦辞原文

習坎。有孚。維心亨。行有尚。 

 

●読み下し文

習坎(しゅうかん)は、孚(まこと)有り。維(こ)れ心(こころ)亨(とお)る。行(ゆ)けば尚(たっと)ぶことあり。

 

●直訳

非常な困難の中にあっても、誠の心を貫きとおせば通じる。進んでいけば尊敬される。

 

とあります。

河村真光『易経読本』の坎為水のページには、とてもわかりやすい説明が書かれていて、「善悪は、あくまで相対的なものであり、絶対的な良し悪しはない」について理解を深めるのに最適な内容と感じたので、以下に原文を引用してご紹介。

 

(引用ここから)

ーーーーーーーーーー
坎為水の坎は、陥没、陥落、つまり落ち込むことである。土偏に欠ける坎という字は、もともと〈穴〉を意味し、そこから落とし穴とか、陥る、なやむ、くるしむとなるが、坎為水はご丁寧にもそれが上下に重なっている。
「習坎は、宇あり」、習坎の習とは重ねることである。坎は水を表し、険難を象徴するが、それにしても険しい難が重なるのは穏やかではない。まさに非常事態であるが、孚あり、ここはひたすら誠実に向き合うしかない。

だがこの坎を表す水は、たしかに氾濫や洪水をもたらし、ときには凶暴性をむき出しにするが反面、生命の源でもある。あらゆる生命は水なしでは存在しない。もともと水の本質は、分け隔てなく虚心に高い処から低い処へ移動し、途中くぼみがあれば満たし、行く先いかなる障害物があっても突き進む。まさに止どまることを知らない。水はその約束から決して外れることがないから、水こそは律儀の象徴でもある。

そうした命の源であり、かつ律儀な水(坎)が、険難、災禍、落とし穴を象徴しているのも皮肉である。だがこの水は湖や沢の停止した水ではない。天から降り、両岸の間を奔り、渓流や瀑布を下る、つまり動きのある水である。

ここで易の作者が言わんとするのは、要するにこの水は、降り注ぐ雨のように、誰の上にも等しく律儀に、しかも確実無比に到来する険難である。たしかに人生にはいろいろな落とし穴があり、これに生涯無縁の者などはいない。

坎為水の卦は、今やそれに落ち込んだところだが、これにいかに対応し抜け出すか、それを説くものでもある。いかなる険難も、藪から棒に到来することは少なく、たいていは自分が引き寄せたものである。しかも原因の多くは無意識のうちに自分がこしらえている。人はそれぞれの器量に応じて有難も作り出す。まずそのことをわきまえる必要がある。

「維(こ)れ心(こころ)亨(とお)る」、いかに険しくとも、乗り切れない険難などはありえない。易は、苦悩や悩みに積極的に取り組む時、人は真の輝きを放ち、また難に練られることにより、人間味に深みを増し幅が広がると考えている。前述の「孚(まこと)あり」と併せて、ここは逃げたりせず誠実に向き合うなら、「維れ心亨る」、維は発語の助字、この〈心〉に格別の意味が込められている。要するに、険難に真っ向から取り組むなら、誠意は必ず天に聞き届けられると。

「行けば尚(たっと)ぶことあり」、降りかかった険難に対しては、決して背中を見せず、また小手先など弄さずに、あくまでも真正面から立ち向かうなら道は開け、何か得ることがある。

これが易の教える、習坎に対処する唯一の方策である。易は坎を通り一遍の災禍とみなしてはならないと教えるのである。

河村真光『易経読本 入門と実践』より

 

 

 

 

 

 

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