寺子屋塾

論語499章1日1章解読ふりかえり(その1)

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論語499章1日1章解読ふりかえり(その1)

論語499章1日1章解読ふりかえり(その1)

2021/11/17

一昨年の元旦から昨年5/13まで、論語499章を1日1章ずつ解読したことのふりかえりをfacebookには投稿したことがあったんですが、blogに整理してなかったことをおもいだしたので、今日はそれについて書くことにしました。

 

おそらく1回だけでは書き終わらないとおもうので、2〜3回の連続記事になる予定です。

 

昔の寺子屋では子どもたちが論語を音読していたというエピソードがあり、時代劇などにもそんな風景が時折登場したりするので、わたしも〝寺子屋〟という屋号を掲げてきたからには、これまでに論語のことをまったく意識したことがなかったわけではありません。

 

でも、高校時代に漢文の時間で読んだ論語は、押しつけがましい印象がかなり強かったことから、中国の古典のなかでもわたしが継続的に関心をもって触れてきたのは、易経や老子・荘子の思想(タオイズム)で、論語にはほとんど興味を持てずにいました。

 

そんなわたしが論語に関心を向けられるようになったのは、2013年の秋から安冨歩さんの〝魂の脱植民地化〟というテーマと衝撃的な出会いをしたことがきっかけです。

 

安冨さんは孔子を東アジア最大の思想家と位置づけ『生きるための論語』『論語とドラッカー』などの著書を書かれています。

 

また、2017年の春頃、安冨さんとはまったく別のルートから「名古屋で論語を読む勉強会をしませんか」という提案を頂いて、二上貴夫さんのまとめられたテキストを使って論語を読み解く集まりを中村教室で定期的に開催し始めたのは、2017年暮れのことでした。

 

京都や秦野で行われた、二上さんの主宰する論語勉強会に出かけながら、論語に対してどうアプローチするのが適切なのかを模索していたんですが、結局499章ある論語も1日1章ずつ読んでいけば、499日(約1年半)かければ確実に終えられるわけですし、毎日少しずつ淡々と続ける寺子屋方式が一番効果的なんじゃないか・・・と考え始めたのは2018年の春頃のことです。

 

でも、高校時代に漢文は苦手科目だったし、前述したとおりで、論語もこれまで積極的に読んできたわけでなく、そんな事前情報のほとんどないわたしですから、たとえ1日1章ずつという分量であっても、そんなことで論語を読み解くことができるのか、なかなか踏ん切りが付けられず、ようやくそのスタートを切れたのが2019年元旦だったわけです。

 

読解と言いつつ、論語についてはほとんど予備知識がなく、最初はそういう自分でもできることから始めようということで、とりあえず白文、訓読文、読み仮名つき訓読文、ひらがな素読文はすべての章について書くものとし、自分のコメントとして書けることがあれば書くというスタイルでスタートしたんですが、最初はコメントとして書けることはほとんどありませんでした。

 

たとえば、有名な学而第一の冒頭であれば、次のような感じです。

———————————

【学而・第一】001-1-1

[白文]

子曰、學而時習之、不亦説乎、有朋自遠方來、不亦樂乎、人不知而不慍、不亦君子乎。

 

[訓読文](旧字体の漢字はそのまま記述)

子曰ク、學ンデ時ニ之ヲ習フ、亦、説バシカラズヤ。朋遠ク自リ方ニ來タル有リ、亦、樂シカラズヤ、人知ラズシテ慍ラズ、亦、君子ナラズヤ。

 

[カナ付き訓読文](旧字体の漢字は新字体に改める)

子(し)曰(いわ)ク、学(まな)ンデ時(とき)ニ之(これ)ヲ習(なろ)フ、亦(また)説(よろこば)シカラズヤ。朋(とも)遠(とおく)自(よ)リ方(まさ)ニ来タル有(あ)リ、亦(また)、楽(たの)シカラズヤ、人(ひと)知(し)ラズシテ慍(いきどお)ラズ、亦(また)、君子(くんし)ナラズヤ。

 

[ひらがな素読文]

しいわく、まなんでときにこれをならう、またよろこばしからずや。ともとおくよりまさにきたるあり、また、たのしからずや、ひとしらずしていきどおらず、また、くんしならずや。

 

[口語訳文]

先生が言われた。何かを学び、それがある時、自分自身のものになる。よろこばしいことではないか。それはまるで、旧友が、遠方から突然訪ねてきてくれたような、そういう楽しさではないか。その喜びを知らない人を見ても、心を波立たせないでいる。それこそ君子ではないか。

〔引用ここまで〕

———————————

論語について書かれた書物はとても多くあり、499章すべてを注解しているものも少なくありません。ネット上にも沢山情報があります。

 

でも、そうしたものを一つひとつ読んでいくと、それぞれに解釈が異なり、そのうちのどれが正しいのかはわからなくなってきますし、そのようにどれが正しいかを考えたり、自分はどの解釈に近いのかを問おうとする姿勢自体、あまり適切でないようにおもえてきたのです。

 

そもそも前提として、論語とは何かという全体像が全く見えていない自分ですから、499章の内の一つの章に対し、全体像を踏まえて解釈したりコメントしたりすることなど到底できません。

 

孔子は2500年前の中国に生きた人ですし、現代の日本に生きるわたしが、誰かの解釈に別の新たな解釈を付け加えてみたところで、あまり価値があることとは感じられないからです。

 

論語に書かれたコトバを自己流に解釈したり、他人の解釈を批評したりするよりは、わからないことをわかったつもりにならず、今の自分にできることを、わからないなりにできることやっていけばいいということで、原典である孔子本人の精神波動に迫ってゆく姿勢を大事にするという指針、方向性が次第に見えてきたのでした。(続く)

※写真は二上貴夫さんの論語テキスト表紙

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