facebookのカバー写真がずっと〝港〟であるわけ
2022/01/11
「井上さんのFacebookのカバー写真って
最初からずっとおんなじで変わらないですよね。
何か訳があるんですか?」
と聞いて下さった方があり、次のように話しました。
名古屋で生まれ育ったわたしは、
中川区の尾頭橋にあった産婦人科病院で産声を上げ、
その頃に自宅は熱田区にあったんですが、
9歳から32歳までの長い時間を港区ですごしました。
妻との縁をとりもって下さった仲人さんは
四日市でピアノ教師をされていて、わたしが
音楽家・高橋悠治さんのコンサートを
津まで聴きに出かけたことがきっかけとなって
その方と23歳のときに出会って以後、
四日市という土地にご縁が次第に深くなっていきます。
結婚してから妻の在所である
四日市に引っ越したんですが、
いま住んでいる自宅も、
四日市港からとっても近い場所にあって、
どうやら〝港〟はわたしにご縁の深い
大事な場所のようなんです。
いまでは、
「ひとつのことを淡々とやり続けるなんて
大の苦手だったんです」って話しても
誰も信じてくれないみたいなんですが、
1993年1月から名乗っている
「あきのすけ」というセカンドネームには
「飽きっぽい」という意味も含めて
名付けたんですね(笑)。
とにかく、いろんなことに興味関心があって
アレコレ次々に首を突っ込んでしまうからか、
気が多くてひとつのことに絞れないというか、
ひとつの集団に完全に所属せず、
いつも境界線上に、
つまり、マージナルな場所にいるからか、
〝マージナル・マン〟と呼ばれたことが
あったくらいなんです。
本人はまったく無自覚で
意図してやってきたわけじゃないんですが、
結果的に複数の集団をつなぎ、
橋渡しをする役割を果たしていたことが
過去にはしばしばありました。
たとえば、いまは教育のフィールドで
仕事をしているわたしですが、
学生時代は音楽家志望で、ピアノとか作曲とか
勉強していた頃があったんです。
なかでも、7年勤めた進学塾を辞めたあと上京して
日本CI協会(マクロビオティックの普及団体)で
仕事をしていた頃、当時は
新宿の東長寺地下講堂にあったホール
P3 art and environmen にて行われた、
アメリカの作曲家ジョン・ケージに因んだ
お手伝いしたことは忘れられません。
4分33秒などの前衛的な作品で
全世界にインパクトを与えたジョン・ケージは晩年に
マクロビオティックの食事法を実践していたようで、
イベントの中でギャラリーのお客さんに
マクロビオティックの食事を提供したいということから
たまたま現代音楽に詳しく
ケージをリスペクトしているわたしに相談が舞い込み、
結果的にですが、現代音楽の演奏家と
マクロビオティックの実践者とを
コーディネートする役割を果たしたことに。
現代音楽も、音楽のジャンルとしてはマイナーですし、
マクロビオティックも、数ある自然食の流派のうちでは
かなりストイックというかマイナーな存在で、
その両方に通じている人となるとかなり限られ、
それがたまたまわたしだった、ということなんですが。
また、寺子屋塾を始めて10年が経過した
2004年頃から
ファシリテーションを学ぶ講座の案内役として
方々から声をかけて戴くようになったんですが、
そこに参加された方が、定番のインタビューゲームの
ペアになったことが縁で交際するようになり、
結婚することになったという嬉しい知らせを
頂いたこともあります。
四日市は、古くから東海道五十三次の宿場町として
発展してきましたが、
明治初期に稲葉三右衛門という人が
私財を投げ売って港を開いたことが
今日の街の発展の礎となったと言われてきました。
つまり港は、海路と陸路をつなげる
交通の要所であるだけでなく、
海と陸の境界上にあるという点において
まさにマージナルな場というか、
異なる文化が出会う情報の要所でもあるんですね。
いま、寺子屋塾にやってきている塾生の人たちは
大人というか社会人の人が8割以上なんですが、
ホントに多種多様で、
普通だったら絶対に出会わないような人たちが、
わたしという人間や、寺子屋塾という場を介して
出会っていく、ということが
日常的に起きているんです。
ただ、わたしが若いときから
そういう場をずっとつくりたかったとか、
人と人を繋げる役割を果たしたいとか、
そんな風におもってたわけではありません。
どちらかと言えば一人でいる方が好きで、
人付き合いもそれほど良い方ではなく、
人前で話すのは大の苦手で、
対話術やコミュニケーション力に
特別長けているわけではない人間だったので。
でも、自分がどんなことに向いていて、
どんなお役立ちができるかは、
実は、わたし自身がよくわかっていなくて、
まわりの人たちが決めて下さるというか、
わたしが決められることではないようです。
つまり、人生には自分が望む望まないに関わらず、
得意とか不得意とかに関わらず、
どうしても避けられないことがあって、
その不可避なことを、どのように引き受け、
どう向き合うかっていうのが、
生きるってことなんじゃないかと。
これは吉本隆明さんも最晩年の2009年頃
中学生たちに話したことをまとめた
『15歳の寺子屋 ひとり』という本のなかで、
おなじようなことを語られています。
家庭でも職場でもなく、だからといって、
同じ趣味をもっているとか、
同質な人ばかりが寄り合うのでなく、
異質な人たちが出会って、しかも
そのままで居られて安心できるような
インフォーマルな場って
いまの社会の中には、
あるようでそんなにないようなんです。
最近では〝学びほぐしのサードプレイス〟って
言い方もしたりしているんですが、
港っていうのは、大小さまざまな船にとって、
疲れを癒したり、燃料を補給したり、
船出を準備したりできる場なんですよね。
内田樹さんが内田樹の研究室というblogで、
「教えるというのは本質的に『おせっかい』で、
無人の道場で『教わりたい』人が
来るのを待っているというのが、
あるいは『教える』ということにおいては
ごく自然なかたちではないのか。」
と書かれていたのを読んで、
ナルホドとおもったことがありました。
あくまでひとつの通過点としての存在にすぎず、
そこにずっと居続けるための場所ではないけれども、
いつどんな人がやってきても大丈夫なように
常に準備しているというか、
いつでも帰って来られるように
待っている場所とも言えるかもしれません。
だから、長い間ずっと無自覚だったんですが、
そんな〝港〟のような場づくりというのが、
どうやら自分のお役目というか
人生コンセプトなんではないかと、
50歳を過ぎた頃ぐらいからは
ようやくこんなふうに自覚するに至ったんですね。
また、カバー写真って、その人の存在を支えている
背骨みたいなものを表しているわけですし、
イメージ・コンセプトにもつながっているんです。
企業などでは、ブランディング戦略って
いわれているものがあって、
たとえば、戦後間もない1948年に創業した
ロッテって有名な製菓会社があるんですが、
〝お口の恋人ロッテ〟ってキャッチフレーズを
創業当初から70年以上使ってきているので、
だれもがみんな知ってますよね。
だから、イメージづくりやコンセプトに
ダイレクトにつながるカバー写真を、
あまり頻繁にコロコロ変えるのは
どうかなっておもうところがあるんです。
もちろん、この先どうなるかわからないんですが、
すくなくとも、いまの仕事を続けている間は、
余程のことがないかぎりは、
この港の日の出の写真で行くつもりでいます。
※2016年1月4日に投稿した記事をベースに
内容を若干アップデートして
毎年お正月明けに投稿している記事なんですが、
今回もだいぶ加筆、修正しました。
また、この記事を読まれたもと塾生のKさんから
コメントを頂いて、それをきっかけに
やりとりしたことがあるんですが、
印象に残る言葉があったので、
覚え書きとしてここにも再録しておきます。
——————
K:港ですか、いいですねー。
A:イメージ・コンセプトって大事なんですね。まあ、わたしが何をやっている人なのかは、まわりになかなか伝わりにくいんですが、そもそもこんな人生を歩むことになろうとは、わたし自身が予想だにしなかったことでもあるので、人に伝わりにくいのは、あたりまえというか、やむを得ないなぁと。(苦笑)
K:確かに伝わりにくいですよね。でも、そこにたどり着きたい船は、きっとたどり着ける港なんだろうとわたしには思えます。ご縁のない人には、井上さんがどんなことをされてる人かわかりにくいでしょうけれど、わかる必要もないのかな、と。井上さんが今の立ち位置に最初から意図してたどり着かれたのではなかったとしても、わたしにはいいポジションにいらっしゃるように見えますが。(笑)
A:昨今ようやくわたし自身もそういう感覚がもてるようになってきていて、とても有り難いことだと思っています。ご縁のない人には、わたしが何をしているかわかる必要もないって言われるのは、その通りかもしれません。お釈迦さまですら「縁無き衆生は度し難し」と言われたらしいですからね。今ある自分は、けっして目指したわけでも意図していたわけでもないので、何者かに連れて来られたというか、導かれた感覚ではありますが、それでも、結果的にこれしかなかったんだろうと思います。イヤならすぐにでも止めているはずですし。
K:そういう軌跡を辿るべく歩かされてる。きっとそういうことなんでしょうね。わたし自身もそうなんだろうなと思います。でもわたしは、井上さんと違って、まだ自分で何をしてるのか全然わかっていませんけど(笑)。
※写真は現在のFacebookカバー写真のひとつ前、
2015年の大晦日までつかっていた
四日市港での初日の出の写真で、
2007.1.1に四日市港ポートビルから撮影。