為末大さんのblog記事「自己責任論と社会責任論」を読んで(その3)
2022/01/23
昨日の続きです。
「自己責任論と社会責任論」をめぐって
いろいろ書いてきました。
日本人の場合、決められた人生の型があり
それに従っている間に起きた出来事には
社会責任の考えが適用されるが、
その型を外れた途端、
急に自己責任の考えが強くなる。
つまり、
みんなと同じ人生を生きている間は社会責任、
人と違う人生を生きたら自己責任、
という分け方が旧来あったが、
その型が時代の変化により成立しなくなって、
急に国家も社会も、
人それぞれ違う人生を生きてくださいと言い出して
混乱している。
他方、社会の仕組みも
いまだにそうした型を前提としているので、
それを自由型に変更しようとして
各所が頑張っている。
結局、2020年から始まった新型コロナの問題が
もっとも象徴的なんですが、
自己責任と社会責任とを
どういうところに、どういうバランスで
どのぐらい適用させるかは一律でなく
場面場面によって相当違い、
時代の変化によって、各所が
臨機応変な対処を迫られ、混乱しているわけです。
寺子屋塾ではらくだメソッドやインタビューゲーム、
未来デザイン考程などの学習ツールを用いて、
新しい時代に対応できる学びの場づくりを
実践しているわけですが、
この問題にアプローチしようとするときに、
手がかりとなる貴重なフレームを提供しているのが
吉本隆明さんの『共同幻想論』であり、
『心的現象論』だという風に捉えている次第です。
ただ、この話を具体的に展開するためには
たくさんのことに言及する必要があり、
今日は大枠のみ提示するにとどめますが
そもそも、「自己責任」か「社会責任」か、
どちらが良いか、どちらが正しいかと
二者択一で考え、分けようとしてしまう姿勢自体に
問題の根っこがあるわけです。
昨日の記事にも書いたとおり、
個人の集合体が社会であって、
この両者は、別箇に独立して存在しているわけではなく
グラデーション、つまり連続性のある概念で、
しかも、卵とニワトリの関係というか、
どちらが先というわけでもありません。
だから、「個人」と「社会」という概念、
言い換えるなら、人間の関係意識というものが
どういうプロセスを経て
どのように生まれたかについて
歴史を踏まえ、考察しようとした書物が
『共同幻想論』であり『心的現象論』なのです。
今日はここまで。