正しさをふりまわさないことの大切さ
2022/04/16
わたしが寺子屋塾の教室で心がけていることの1つに、
「相手の問題点を指摘しない」というのがあります。
「評価しない」「相手を変えようとしない」姿勢とも
つながりますが、相手が望んでもいないのに、
一方的に問題点を指摘したところで、
たいてい相手は気分を悪くするだけで、
変わることはまずないからです。
もちろん、相手の人からじかに、
「井上さんが問題だなぁとおもうことを教えて下さい」
と言われた場合は別です。
でもその場合も、あくまでわたしの個人的な見解とし、
それを採用するか否かも
相手次第であることはもちろん、
そして、善し悪しの評価ではないことを
必ず伝えるよう心がけています。
学校には成績通知表というのがあります。
でも、たとえば、
5段階評価で「1」をつけられた子どもが、
発憤して、「次は5を取れるように頑張ろう!」と
おもうでしょうか?
たとえば、
100点満点のテストで、0点を取った子どもが、
発憤して、「次は100点取れるよう頑張ろう!」と
おもうでしょうか?
そうおもう子が全くゼロではないかもしれませんが、
大方の子どもは「自分はできない子なんだ」と
おもいこむか、自信をなくし
やる気を失うのではないでしょうか。
本来、テストというのは、
テストを受ける子どもたちを
評価するためだけにあるのではなく、
そのテストの結果は、そのまま
教えた先生に対する評価でもあるはずなのです。
当たり前のことですが、学校という場が
世界のすべてではありません。
したがって、学校での5段階評価というのは、
あくまでその子のひとつの側面に対しての
一意見にすぎず、何ら絶対的なものではないはずです。
あくまで社会の中にたくさんあるうちの、
ほんのひとつにすぎない、学校という場において、
たまたま一人の先生の見解が、
そうであったというだけのことなのですから、
別の場で、別の人が見たときには、
必ずしも同じ見解になるとは限らないことでしょう。
これと同じで、自分が見える相手の問題点というのは、
自分という一人の人間のモノサシを基準に
「問題だ!」と思っているにすぎないわけです。
ひょっとすると相手の人は、そのことを
問題だとは思っていないのかもしれないし、
まわりの人もそのことをどう考えるのかについて、
本当のところは聞いて確認してみなければ
わからないのではないでしょうか。
したがって、相手の問題点を
あからさまに指摘する、という行為の裏には、
たいてい、相手に対する不満の感情が
根底に隠れていたりします。
つまり、相手を自分のおもい通りに
コントロールしたいだけだったり、
自分のモノサシや自分が正しいと思うことを、
相手に一方的に押しつけているにすぎないことが
ほとんどなのではないでしょうか。
しかも、相手の問題点を指摘することでは、
相手が変わらない、変えようとしないにもかかわらず、
飽きもせず同じコトを
ずっと言い続けられる人がいます。
なぜでしょうか?
もしかすると、相手に良かれとおもって
「本当はこんなことを言いたくないんだけれど、
自分はあえて苦言を呈しているんだ」という
気持ちなのかもしれません。
良かれとおもって・・・つまり「善意」です。
この善意というのがほんとうに厄介なシロモノで、
悪意からではなく、善意であるが故に、
無自覚のうちに、自分の行為を正当化し、
自分もまわりも見えなくなって
暴走してしまう危険を持ち合わせることになるのです。
話はすこし飛躍しますが、
煎じつめて言うと、戦争とは、こうした
「正しさ」と「正しさ」のぶつかりあいによって、
引き起こされるものではないでしょうか。
この「正しさ」とは、それをふりまわそうとすれば
いとも簡単に「暴力」に変わるもので、
その結果は言わずもがなです。
どのような理由があろうとも、
戦争はあってはならないし、
戦争はけっして幸福をもたらしません。
自分にとっては問題に見えてしまうことの中にも、
何らかの理由や意味があるのかも・・・と
立ち止まって考えられる
心の余裕をもっていたいものです。
相手のありのままをそのまま受けとめられれば、
相手に安心が伝わります。
でも、変えようとして近づいてくる人に対しては、
ありのままの自分を見せることはできないし、
不安な気持ちが膨らむばかりでしょう。
「安心」の気持ちをもって受けとめられる人が
まわりにいるときに、人ははじめて
「自分を変えていこう!」という気持ちになれ、
その人が本当に望んでいる
「こうありたい」という姿に、
変わっていくことができるのではないでしょうか。