わからないことをわからないままやってみること(つぶやき考現学 No.12)
2022/06/15
アタマでわかったことは、
所詮はその場かぎりのもので、
わかったつもりになってるだけかもと
おもっておくぐらいでちょうどいい。
なぜなら、泳ぎ方がわかったからといって
すぐに泳げるようにはならないのと同じで、
アタマでわかることと
そのことができるようになることとは
まったく別次元のことだからだ。
アタマでわかって記憶したところで、
日常の中でそれを使い続けていないと、
うまく使いこなせないし、
結局その人自身のモノにはなっていかない。
たとえアタマでわかっていないことであっても、
日々繰り返してやり続けているだけで、
いつのまにかできるように
なってしまうことがあるからだ。
だから、「覚えよう!」「理解しよう!」と
頑張って努力するよりは、
自分にわかっていないことであっても、
わからないままの状態で、
わからないなりにやってみるほうがいい。
やってもいないうちから
やることの意味ばかりにとらわれてしまうと、
自分がやろうとしていない姿勢を
正当化することだけで終わってしまう。
やっていることの意味や価値は、
やってみた結果として
向こうから訪れてくるもので、
所詮あとづけの理屈でしかないからだ。
とすれば、わかったかわかっていないかよりも、
自分がやろうとしているかどうか、
やり続けようとしているかどうかが
大切だということになる。
自分の身体で繰り返し体験したことは、
アタマで覚えようと努力しなくても、
カラダが覚えていてくれるし、
自ずと忘れられないものに
なっていくのだから。(2015.10.25)
※井上淳之典のつぶやき考現学 No.12