寺子屋塾

内田樹『日本辺境論』より(今日の名言・その32)

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内田樹『日本辺境論』より(今日の名言・その32)

内田樹『日本辺境論』より(今日の名言・その32)

2022/08/22

 

 私たちはこれから学ぶことの意味や有用性を、

 学び始める時点では

 言い表すことができない。

 

 それを言い表す語彙や価値観を

 まだ知らない。

 その「まだ知らない」ということが

 それを学ばなければならない当の理由なのです。

 

 そういうふうな順逆の狂った仕方で

 「学び」は構造化されています。 

 

内田樹『日本辺境論』Ⅲ.「機」の思想
 (197ページ)より

 

現在の寺子屋塾は、社会人・成人の塾生が

8割以上を占めているんですが、

そうした大人の塾生も、子どもの塾生も同じ

算数・数学のプリントで学んでいると話すと

「どうして大人が算数・数学をやるんですか?

それをやってどんなメリットがあるんですか?」

ということを多くの方から言われます。

 

それで、今日の名言は、

このようなやりとりに関連する内容で、

そもそも、何かを学ぶということは、

学ぶ前の段階において、

それを学んだらどんなイイコトがあるのか

どんな意味があるのかを言い表すことができないし

それがわからないということが、

まさに学ばなければならない理由なんだという

内田樹さんの言葉を取り上げてみました。

 

さて、2009年11月に出版された『日本辺境論』

著作の多い内田さんの本の中でも

一番よく売れた1冊とのことなので、
お読みになった方もいらっしゃるかもしれません。

 

内田流の日本人論であり、

日本人にとっての「教育」「学習」というテーマに

触れている箇所もとても多く

非常に考えさせられる内容なので、

未読の方はぜひ手に取って読んでみて下さい。

 

「教育」「学習」といったテーマについて

考えようとするとき、

世界中どこで生活しても無関係でいられる人は

ほとんどいないということから、

わたしたちは、つい普遍的な正しいやり方が

どこかにあるんじゃないかと錯覚してしまいがちです。

 

でも、世界にはさまざまな国がありますし、

日本のような小さな国においてでも

地域毎に異なったライフスタイルがあり、

地理的条件や気候風土はとても多様です。

 

わたしが28年前、寺子屋塾を始めたときに

メインテーマとしたことは、まさにこの

普遍性よりも個別性、多様性を大事にする姿勢でした。

 

つまり教育、医療といった問題は、

グローバルで普遍的な正しいやり方を求めるよりは、

その地域毎に異なった生活風土に即した

異なったやり方を考える姿勢を基本にすることが

妥当なのではないかという仮説をもとに、

「日本人の生活風土に即した

教育のあり方を模索し実践すること」であり、

さらに言うなら、一人ひとりの個別性に合った、

多様な関わり、多様な対応のできる

学びの場づくりということだったわけです。

 

本書の主旨は、こうしたわたしの問題意識にも

非常に近いもので、たとえば「はじめに」には

このような文章が書かれています。

 

わたしたちはどういう固有の文化をもち、

どのような思考や行動上の「民族史的奇習」をもち、

それがわたしたちの眼に映じる世界像にどのような

バイアスをかけているか。それを確認する仕事に

「もう、これで十分」ということはありません。

朝起きたら顔を洗って歯を磨くようなものです。

一昨日洗ったからもういいよというわけには

ゆきません。

 

つまり、本書のⅠ章からⅢ章までの論旨を

おおざっぱに要約すると、

日本人とは、常にどこかに「世界の中心」を

必要とする「辺境の民」なのであり、

かつては、非常に効率の良い「学ぶ力」を有していた。

なぜなら、狭隘で資源に乏しいこの極東の島国が

大国強国に伍して生き延びるためには、

「学ぶ力」を最大化する以外なかったからだ、と。

 

内田さんはつぎのように書いています。

 

「学び」を可能にするのは、

この「意味のわからないものの意味」が予見できる力、

有用性がいまだ知れないものの潜在的な有用性が

かすかにでも先駆的に感知できる力である、と。

 

こちらの記事で触れたんですが、この「学ぶ力」とは、

マイケル・ポランニーが〝暗黙知〟と名づけたものに

近いと言ってよいでしょう。

 

だから、「学ぶ力」「学ぶ意欲(インセンティブ)」

というものは、そもそも

「これを勉強すると、こういう<いいこと>がある」

という報酬を予め呈示されて

かたちづくられるものではないんだと。

 

もし、<いいこと>の一覧表を示されなければ

学ぶ気が起こらない、とか

報酬の確証が与えられなければ学ぶ気が起こらない

という子どもがいたら、その子どもにおいては既に

「先駆的に知る力」は衰微してしまっているんだと。

 

いやはや、ほんとうにそうだな〜とおもいます。

 

たとえば、この「先駆的に知る力」について、

わたし自身の体験でおもい出すことがあるんですが、

吉本隆明さんの主要三部作といわれる

『共同幻想論』『心的現象論序説』

『言語にとって美とはなにか』が角川文庫に入ったのが

1982年春のことで、

あのヨシモトの代表作が文庫本になったということで

マスコミでも随分話題となりました。

 

それで、早速手に入れて読んではみたものの、

そこに書かれていた内容は、当時22才のわたしには

チンプンカンプンで全く理解できませんでした。

 

それでも、この本には、

ヨシモト以外誰も到達していないような

ものすごいことが書かれているんだ!

ということだけはわかって、

いつか自分にもこれを読む日がやってくるだろうと、

ずっと古本屋に売られることもなく、

2016年に再読するまでの34年間、

わたしの書棚の中で出番を待っていてくれたわけです。

 

こんな体験から、わたしは、

「『この三部作にはものすごいことが書かれている』と

いうことがわかる力」というものを

いったいどうやって身につけたんだろうと

いうのがとても不思議で、

いまなら、非認知能力といった言葉があるようですが、

テストなどでは計ることのできない、しかも

人間が生きて行く上でも大切な力が育つ学びの場が

どうしたらつくれるのかということもまた、

自らの課題として考えるようになっていったのでした。

 

 

内田さんは次のように続けます。

 

今の子どもたちは、

値札の貼られているものだけを注視し、

値札が貼られてないものは

無視するように教えられています。

その上で、自分の手持ちの「貨幣」で買える

もっとも「価値の高いもの」を探し出すように

命じられているわけで、

もし、幼児期からそのような「賢い買い物」のために

訓練を施されたなら、

前記したような「先駆的に知る力」は

萌芽状態のうちに摘まれてしまうだろうし、

「値札がついてないものは商品ではない」と

教えられた子どもたちが、

今その意味や有用性が表示されていないものの

意味や有用性を「先駆的に知る力」を

発達させられるはずがありませんから、と。

 

私たちの時代に至って、

日本人の「学ぶ力」が劣化し続けているのは

「先駆的に知る力」を開発することの重要性を

私たちが久しく閑却してからである、と。

 

この「先駆的に知る力」をもった国民が

この日本という国を支えてきたのであり、

「学ぶ力」を失った日本人に未来がありません、と。

 

そして、現代日本の国民的危機とは、

煎じつめていうなら、この「学ぶ力」の喪失であり

<辺境の伝統>の喪失なのだ

と内田さんは書いています。

 

この最後の箇所だけ読むと、

ちょっと絶望的な気分になってしまうのですが、

そのことをただ嘆いていても始まりませんし、

最終章で内田さんは、日本語の特殊性に言及しつつ

どこから始めるべきかについて考えるヒントを

「日本人の召命」として示されていますので、

ぜひ読んでみてください。

 

「一人ひとりの個別性や内発的動機付けの重視」

「タイムリーかつ臨機応変、多様な関わり方の創出」

「日本人の生活風土に即した学びの場づくり」を

テーマとしてきた寺子屋塾とは、

こんにち失われつつある日本人の「学ぶ力」を

いかに身につけるかを模索し

実践している場でもあるんだということが見えてきて、

わたし自身は大いに励まされた気がしました。

 


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