アタマで覚えようと努力しなくていい(つぶやき考現学 No.30)
2022/08/24
アタマでわかった理解は、
ほとんどがその場限りのものだ。
だから、覚えようと努力してはいけない。
アタマで覚えようとするから忘れてしまう。
たとえアタマでわかっていないことでも、
繰り返し繰り返しやってみることで、
やっていることの価値が
あとからじんわりとわかってきて、
あるとき心の底から納得できる瞬間が
むこうから訪れてくる。
それを〝腑に落ちる〟と言うのだが、
たいていの場合、
アタマでわかったからといって、
すぐにできるようにはならないし、
自分で〝腑に落ちる〟までは、
わからないことをわからないまま、
やっていけばいい。
ひとは、アタマでわかっているか、
わかっていないかを判断し、
わかっていることを重視しがちだが、
じつは、そんなことよりも、
カラダを日々動かし続けているかどうか、
やり続けようとしているかどうか、
どんな姿勢でいるかがずっと大切だからだ。
カラダで繰り返し体験したことは、
アタマで覚えようと努力しなくても、
カラダが覚えていてくれるし、
アタマでの理解を超えて
自ずと忘れられないものになっていく。(2015.9.24)
※井上淳之典のつぶやき考現学 No.30
COMMENT:
7年前の今頃に書いたNo.30は、
「〝わからないことをわからないままやる〟って
どういうことですか?
そんなやり方で身につくんですか?」と
塾生のひとりから問われて話したことを
詞の形で書いてみたものです。
内容としては、つぶやき考現学No.12で
テーマとしていることとも近いんですが、
「学ぶ力」と「暗黙知」の関わりに触れ、
また、昨日8/23の記事では、
身体が記憶していたことは
30年経っていてもおもいだすことができる
という話を書いたばかりという流れもあってか、
今日はこの詞に目が止まりました。
「頭で理解する」ということも
確かに大事なことではあるんですが、
「頭で理解する」ことと「言葉で教える」ことは
対の関係にあるので、
これまで「教える」スタイルの教育を
重視してきた結果として生まれている傾向でも
あるのでしょう。
「身につける」ことと「頭で理解する」こととの
混同も生じているようにも感じているので、
そのあたりはきちんと分けて
捉えるようにしたいものですね。