エゴン・シーレ『芸術作品に猥褻なものはひとつとしてない』(今日の名言・その44)
2022/11/14
芸術作品に猥褻なものは
※エゴン・シーレ(1890~1918・オーストリアのトゥルン・アン・デア・ドナウ生まれの画家)のことば |
エゴン・シーレの絵を初めて観たのは、
まだわたしが進学塾で講師をしていた頃のことです。
1992年に名古屋市美術館で行われた展覧会なので、
もう30年前のことになりますね。
シーレは、当時はまだ倫理的にタブー視されていた
死や性などのテーマを強調する過激な作品を
アクの強いタッチで次々と制作しました。
30年前ですから、そのときわたしは32歳で、
28歳で亡くなっているシーレの存在に
強烈なインパクトを受けたことを覚えています。
昨日投稿した記事に、
国家や宗教、貨幣などは、
実在するものではなく幻想、虚構であり、
人間が観念として生み出した
想像上の秩序にすぎないものです。
しかし、その幻想や虚構が存在していると
信じることができ、他者とも共有できることが
人間が他の動物と異なる人間たる所以であって、
そういう見方ができることの根底に、
「あるがままを観る」仏教の考え方が
あるのではないかと考察した話を書きました。
お釈迦さまの説かれた如実知見の〝悟り〟とは、
ひとことで言ってしまえば、
「存在するもの」と「実在するもの」の違いを
ちゃんと見抜く目を持つということになるので。
とすれば、人間の性愛もまた、人間自身が生み出した
観念世界の産物であり、幻想にちがいありません。
でも、わたしたち人間は、AIロボットのように、
知性だけで情報処理をしているわけではないのです。
AIロボットにはない〝心〟というものがあるからこそ、
愚かしい欲望を抱き、不合理な衝動に身をゆだね、
猥褻とされるような行為を楽しいと感じて、
罪を犯してしまったり、
馬鹿げた関係性に身を委ねてしまったりするわけで、
「本当は実在していない」ナンテ
簡単には解き明かすことができないような、
人間にとって根源的幻想というべきものでしょう。
ところで、評論家の小林秀雄さんが
次のようなことを書いています。
美しい「花」がある。
「花」の美しさという様なものはない。
つまり、どういうことかというと、
目の前にある「美しい花」は実在しても、
「花」という実在物に、
人間の心が感じた「美しさ」という観念を
後から意味づけしているにすぎないというわけです。
だから、その「美しさ」というものを
残念ながらAIロボットや人間以外の動物は
感じることができないし、
同じ人間であっても、
その美しさを感じる尺度や度合いは、
おそらく人によってかなり違うことでしょう。
目の前にリアルに実在する「花」と
観念として存在している「美しさ」は別次元のモノで、
「花」から「美しさ」だけを抜き出し
「これが美しさというものですよ」と
目の前の他者に対して見せることはできません。
にもかかわらず、ともするとわたしたちは、
「花の美しさ」と「美しい花」とを同一視し、
人間の観念によって意味づけされたものを、
あたかも事実として、そこに実在しているかのように
いつのまにか錯覚してしまうのです。
まあ、それも人間の人間たる所以であって、
「人間らしさ」とも言うべきものなのでしょうが、
シーレが言うように、「猥褻なもの」というのは、
ほんとうは客観的事実として〝実在〟しません。
ただ、わたしたちがアタマの中の観念の世界で
何モノかに対し、それが猥褻であるというふうに
〝意味づけ〟を行った結果により存在しているだけだ
ということは、忘れないようにしたいものですね。
つまり、猥褻か否かという問題は、
目の前にある対象物自体に内在するのではなく、
あくまで目の前の何モノかに対し、
外側から観察し、意味づけを行い、判断しようとする
人間側の問題なのですから。
あと、シーレのこの言葉に類似する名言として、
以前に早川義夫さんの言葉を取りあげたことがあり、
違う角度からのコメントもいろいろ書いたので、
未読の方はそちらもぜひご覧ください。
【お知らせ】
来年1月から東京の上野公園にある都美術館で
エゴン・シーレの展覧会がありますよ〜
夭折の天才エゴン・シーレの大規模回顧展が開催へ。