こころとからだの平和のバトン
2023/02/12
寺子屋塾という屋号で
算数(数学)・国語・英語3教科の
プリント教材「らくだメソッド」を使った
体験学習の教室を始めて今年で29年めを迎えました。
1985年から7年間、進学塾で専任講師として
小中学生を教えた体験が
わたしが教育の仕事に関わった最初でしたから、
そのときから通算すると38年になります。
学習、勉強といえば、ほとんどの方が
頭脳をいかに鍛えるかということを
イメージされることでしょう。
もちろん、学校においても体育や音楽、図画工作、
技術家庭といった科目であれば
体験学習が主で、
理科(生活科)であれば観察や実験、
社会であれば実地見学といった体験プログラムも
時折組まれますが、3教科の場合は、
教科書をつかって座学で学ぶという形が
とられていることが多いので、
おそらく冒頭記した「体験学習」という言葉が
ピンと来ない方がほとんどではないでしょうか。
ところで、人間の頭脳、すなわち「あたま」は、
さまざまな創造を生み出す素晴らしいものですが、
人間はこの「あたま」を持ったが故に
悩み苦しむ存在でもあります。
そうした苦しみを生む原因はさまざまでしょうが、
そのひとつは、「あたま」はすぐに、
「からだ」と「こころ」を支配しよう、
コントロールしようとしてしまう癖を
もっていることにあると言ってよいかもしれません。
つまり、アメーバーのような単細胞生物から
人間へと進化してきたプロセスと順序を考えれば、
まず最初に「からだ」ができ、
そして「こころ」が生まれ、
「あたま」をもつに至ったと想像できます。
このなかで、自然に最も近いところにあるのは
「からだ」であって、
一番後からできた、自然から最も遠い「あたま」が、
それよりも前からあった「からだ」や「こころ」を
支配しようとするのは、
言ってみれば順序が逆なのです。
そのように自然に反したことをすれば、
その結果として苦しみを生じるのは、
当然の成り行きともいえるでしょう。
苦しみといえば、勉強や学習に対して
苦しみを感じる人も少なくないかも知れません。
でも、『論語』冒頭で孔子が「学びて時に之を習う、
亦説ばしからずや(何かを学び、それがあるとき
自分のものになる。喜ばしいことではないか)」
と述べているように、
人間にとって学習や勉強とは本来、
楽しいものなのではないでしょうか。
その証拠に、孔子の時代から2000年以上を過ぎた
こんにちの日本では、小学校中学校9年間の
義務教育が憲法で保障されているのみならず、
高等学校への進学率は97%を超えています。
さらに、大学、大学院などの高等教育、学習塾、
専門学校、趣味の教室に至るまで、
ありとあらゆる目的のために
学ぶ環境が整えられています。
しかし、教育という仕事に関わるなかで
突き当たった大きな壁は、
孔子の時代に比べて非常に恵まれた学習環境が
整えられているにもかかわらず、
わたし自身、学生時代は
勉強するのがそんなに好きではなかったし、
勉強が大好きで、楽しくて楽しくてたまらない!
と感じている子どもと滅多に出会えないのは
なぜなんだろう?という疑問です。
そこで、人はだれもが学びたい、
良くなりたいとおもっているのにもかかわらず、
勉強がキライになったり
苦手になってしまったりするのは、
けっしてその子自身の能力が足らないからでも、
性格の問題でもないのではないかと考えました。
学ぶことが好きになれず、
学ぶことに喜びを感じたりできないのは、
自然に沿った本来の学び方を知らず、
見失ってしまっているだけのこと。
よって、それはその子自身の責任でも、
まして先生や学校の責任でもなく、
学ぶ楽しさを妨げてしまう〝何か〟が
あるからではないかと仮説を立てたのです。
でも、わたしの様に考える人は現実には少ないようで、
なぜこのような考えに至ったのか、
その背景について触れてみようとおもいます。
わたしは、高校2年生のときに肺が
突然パンクしてしまう自然気胸という
厄介な病気に罹り、10代の後半からそうした病気と
長年向き合ってきました。
この病気は生命を脅かす重篤な病気ではないのですが、
なぜ突然肺がパンクするかの原因や
パンクに至る機序に不明な点が多いため、
再発を繰り返す確率が高く
決定的な治療法も見つかっていません。
自然気胸は、パンクした空気の抜け具合にもより
症状はかなり個人差があるのですが、
わたしの場合は、一度肺がパンクしてしまうと
1ヶ月近く安静にしていなければならなかったため、
学校へ行けないだけでなく
日常生活に大きな支障を生じました。
また、当時の主治医からは「将来身体に無理の
かかる仕事には就けないかもしれない」と言い渡され
大きなショックを受けました。
でも、病気になるからには、
必ず何らかの原因があるはずです。
原因を見つけるために、
医療的手段を頼れないのなら、
自分でその原因を見つけてやろう!とおもって、
「なぜこのような病気になったのか?」
という問いと素手で向き合うことに決めました。
人間のからだには、自然治癒力というものが
もともと備わっています。
もちろん、程度にもよりますが、
ちょっとした怪我や風邪であれば、
医師や薬の力を借りずとも、
時間の経過とともに傷口は塞がり、
咳や鼻水といった症状は治まっていくのは
何ら不思議なことではありません。
つまり、医師や薬が傷や風邪を治すのではなく、
からだにもともと備わっている自然治癒力が
傷や風邪を治すわけで、
医師や薬にできることは、
自然治癒力がはたらくように手助けすることだけで、
あくまでそのきっかけづくりにすぎないわけです、
つまり、病気になるのは、もともと備わっている
自然治癒力がはたらくのを妨げている
何かがあるからだという捉え方・・・これが、
わたしにとって自分の病気の原因を考える
ヒントになりました。
それで、発病してから7年を経過した23才の時点で
到達していた自分なりの結論は、
「人間の身体を形作っている一番のオオモトは
食べ物にある。
薬や健康食品、サプリメントなどは
あくまで一過性のものにすぎず、
それらに頼ることには限界があるので、
ふだんの日常の食事を見直し、
あたりまえのものをあたりまえに飲食することが
健康づくりの基本である」ということでした。
さて、わたしの実践の背景を知って頂くために、
過去の体験話を持ち出したのですが、
この体験で得たことを
教育に応用できないかと考えたわけです。
たとえば、この「自然治癒力」という言いまわしを
借用するなら、誰にでももともと備わっている、
学びたい、良くなりたいという力を「自然学習力」と
言えるのではないかと。
そして、この「自然学習力」が発動するためには、
どんな条件を整えることが必要で、
具体的にどんな関わり方をすればいいのかが、
わたしにとって教育を考える上での
重要な課題として見えてきたのでした。
それには、学校でふつう行われている一斉授業や
学習方法とはちょっと異なった発想と
アプローチがおそらく必要でしょう。
もちろん、学校教育も家庭教育も、いずれも
子どもたちにとって大切な
教育の場であることに違いなく、
それらを何ら否定するものではありません。
つまり、今ある学校教育や家庭教育のあり方を
批判することよりも、
教育、学習という営みにおいて、
学校でも家庭でも、実践が難しいこととは何か?と
問う姿勢の方が大事だと考えたわけです。
そして、「あたま」主導でなく
「からだ」「こころ」主導に切り替え、
「あたま」「からだ」「こころ」の乖離をなくす
という視点が、
「自然学習力」が駆動するために必要な
具体的実践のヒントを与えてくれたのです。
※「こころとからだの平和のバトン」というテーマで
書いてみませんかと提案され、
2015年に書いた原稿をもとにリライトしてみました。
※冒頭の画像は泉谷閑示著『「普通がいい」という病』より