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らくだメソッドはなぜ「わかる」より「できる」を重視したのか?(その1)

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らくだメソッドはなぜ「わかる」より「できる」を重視したのか?(その1)

らくだメソッドはなぜ「わかる」より「できる」を重視したのか?(その1)

2023/03/22

昨日のドラマチックな

準決勝サヨナラ勝ちに続いて、

今日のWDC決勝アメリカ戦も

信じられないくらいの展開でした。

 

14年ぶりの快挙ということで

侍ニッポン世界一おめでとう!なんですが、

こちらの記事などを読むと、

あまりに出来過ぎな展開に

「漫画ならボツ」という声も飛び交ったとか。

 

今回、日本が優勝できた要因は

いろいろあったとおもうんですが、

優勝という目標に一丸となって

向かうことのできた〝チーム力〟のたまもの

という点は大きかったんじゃないかと。

 

それで、この〝チーム力〟という言葉から

おもいだしたのは、

このblogではしばしば話題としてとりあげている

TVドラマ『逃げ恥』の大ヒットした要因が

わたしには原作、脚本、キャスト、演出、音楽、

恋ダンスの振付、小道具・・・等々、

製作に関わったメンバー全員の

〝チーム力〟のたまものと感じたことでした。

 

 

人間、ひとりだけでできることなんて、

たとえ、その人がどんなに優れた人であっても

本当に限られたことでしかないので。

 

『逃げ恥』の脚本を書かれた野木亜紀子さんが、

雑誌SWITCHのインタビューで話されていた

「狙ってできることじゃないですよね」って言葉が

とくに印象に残っているんですが、

今日のWDC決勝戦の展開もまさに

狙ってできるようなことではなく、

〝チーム力〟というのは、

ときには、信じられないような奇跡を

起こすことがあるんだなぁと、

改めて実感したものです。

 

 

さて、前置きはこれくらいにして、

本日の本題に。

 

平井雷太さんの著書

『見えない学校 教えない教育』の続きです。

 

3/20の記事で引用した箇所の終わりの方に、

 

「1(  )あたり量」という概念が伝わっていれば、

このような間違え方はしないと思うのですが、

なかなかそうはなりません。

プリントで何度繰り返しても、繰り返すことで

計算が確実にできるようになっていくようには、

「1( )あたり量」は定着しないのです。

しかし、どのように「1( )あたり量」

というものを書いたらいいのか、

わかってしまった子はまず間違えません。

このような体験から、

「わかる」をプリントだけで伝えることに

無理があることも実感したのでした。


そこで授業をせず、教えることをせず、

「プリントだけで学ぶ学び方」は、

「わかる」よりも「できる」を重視した

学習の方法であることに気づいたのでした。

 

この最後にある

「わかる」よりも「できる」を重視した

学習の方法であることに気づいた

というのが、今日〜明日で紹介する箇所の

メインテーマです。

 

(引用ここから)

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ある講演会で、「できる」よりも「わかる」を重視する水道方式という教え方で算数・数学を教えている塾の先生(元公立学校の教師)から、次のように質問されました。


「数字にはそれが生まれた背景があって、どうして数字が生まれたのか、教育とは文化の伝承でしょ。平井さんのやっていることは、どうすれば計算が出来るようになるか、それをしているだけであって、それが教育なんですか?算数を使って、その豊かな世界があることを伝えることはしないんですか?」

 

水道方式では「できる」力が育たない
水道方式では、「抽象的な数を教えるからだめなのであって、数が生まれた歴史から教える必要がある。数を数えられなくても、羊1匹に対して、1個の石を対応させていけば、量をとらえることができる。だから、歌を歌うように1から10までスラスラ言えても、それで数がわかったことにはならない」と、常に量に還元して教える教え方をしていました。「2個のリンゴも2枚の紙も2本の鉛筆もどれも1対1対応しながらタイルに置き換えると、それは□□となって、それを2という数字で表し、それを「に」と読む」と教え、「□□」と「2」と「に」の三者関係を教えることが、「わかる」を重視した水道方式の数字の導入でした。私もかつてこのような形で量を教える塾をしていたのです。しかし、今はしていません。そこでこの方の質問に次のように答えました。

 

「先生が量の世界に感動し、それを子どもたちに伝えたいと思うのは悪いことだとは思いませんから、授業の中でそれをすることには反対はしません。だけど、私も一時それをやっていて、これほどの押しつけはないんじゃないかって思ったんです。仮にどんなに正しい情報であったとしても、情報を提供している側に「こんなことをしていていいのだろうか?」という疑いがないと、一方的に正しさ・正義を押しつけてしまいますから、これはどこかの宗教に似て洗脳になるかもしれないと思ったんです。


数字がどうして生まれたのか、その背景を私が教えなくても、子ども自身が『どうして、数字が生まれたのだろうか?』と、フト疑問に思ったときに、その子が本を読めば、そうした時だからこそその話がスッと入ってくるのであって、そんな用意が子どもの中にできていないときに、いくらまわりの大人がそんな話をしても、上の空になる場合が多いでしょう。そのときだけおもしろそうにその話を子どもが聞いてくれても、それは子どもが大人に付き合ってくれてるだけのような気がしたのです。私だって、遠山啓氏(水道方式の創始者)の本を読んだときには、『私の知らないことがここに書いてある(かけ算の意味等々)、このようなことを教えない学校に問題があったのか』と、そんな現実を知って感動したものでしたが、誰にでもその感動が伝わるかと言えば、そんなことはありません。どの子にもその感動を伝えようなんて思うことは思い上がりで、ある子には余計なお節介になっているのではないかと思うようになりました。


また、わが子に関して言えば、質問されたあなたの塾に私の息子がお世話になっていれば、その話を息子はよろこんで聞いたかもしれません。しかし、その話を父親の私がしたのであれば、それだけでその話が息子に入らないということもありますし、親という立場を利用して息子に強制的に『教える』という行為をしたくなかったのです。


そう思ったから、息子には『教えない』というスタンスを一貫してとりました。大人が子どものためによかれと思ってやっていることがあれば、それは本当に子どものためなのか、もしかすると自分のためではないのかと、常にそのことを疑ってかからなければ、危険な事態(洗脳、教え込み……)が目の前で起きていても見えなくなってしまうんじゃないかと、そう思ったのです。


私も昔は、あなたのように算数のおもしろさを伝えることに生き甲斐を感じてやっていましたから、そのときは『算数そのもの〝を〟学ぶこと』のおもしろさを伝えていたと思うのですが、でも、今は違います。『算数〝で〟学ぶこと』を伝えたいと思っているんです。


教師が自分の感動を伝えても、それだけでは計算が実際にできるようになったり、自己決定力なども育つわけもないのですが、『教えなくても、自分の力だけで学ぶことができる教材』をたんたんとやり続けていると、子どもたちは計算力が確実に身についていくという、極めて具体的なプロセスを経ながら、『自分で学ぶものを自分で決めていく力』が育ったり、『集中力』がついてしまったり、『問題解決能力』が育っていくことが起きたのでした。つまり、『~を学ぶ』ではなく、『~で学ぶ』という発想をしたときに、こんな学習をする前には予想もしなかったことが伝わっていく結果になったのです」。

 

質問された方の塾で生徒たちがどのように育っているのか、私には知る由もなかったので、その場では話さなかったのですが、次のようなことを思っていたのです。私が水道方式の授業をやって、子どもたちが算数・数学をおもしろがっても、それだけでは絶対に「できる」状態にはならないことが私にとっての悩みの種でした。かといって、宿題を無理やりやらせるようなことをすれば学校と同じになってしまうし、そうなると家で宿題をやってこない子たちには塾に残ってやらせるしかありません。ですから、授業を工夫することで「わからせること」はできても、私が子どもたちを「できるようにすること」は本当にむずかしいと実感は募るばかりでした。しかし、いくら授業を楽しんでも、「できる」状態になっていかない子どもたちのことが気になります。そんな子どもたちを見ていると、本当は「できるようになりたい」子どもの期待に沿うようなことができていないのに、私がやりたいことをやって、ただ自分だけが満足しているような気にさえなってきました。


つまり、「計算の意味や数の意味がわかっても、それはできるようになっていくことにつながらない」、「算数をおもしろいと思うようになったからといって、おもしろい内容に習熟して身につけるまでやっていくかどうかは無関係」であることに気づいて、「わかること」を重視した塾をそのまま続けていくことは、私にとっては犯罪的なことをやっているような気さえしてしまい、その塾を続けていくことができなくなってやめてしまったのでした。


ところが、「教育(=教えること)」から足を洗ったつもりでいたのですが、何をするにものんびり、おっとりの長男の様子を見ていて、学校に行くようになっても、学校の授業についていけるようになるとはとうてい思えませんでした。「この子は学校の授業にはついていけないだろう。不登校にだってなるかもしれない」と判断したのが、息子がまだ3歳のときです。そこで、息子のために教材を作ることを思い立ちましたが、以前私が塾でやっていた、「わかること」を重視した教え方をやろうとすれば、どうしても授業が必要なわけで、そんなことをすれば無理やり私の話を聞かせるような形になって、親子関係は最悪になるだろうという危惧がありました。さらに、それをやっても、「できるようになる」保証などまったくありません。そこで私が考えたことは、息子の生活する環境の中に、息子が一人で学んでいける環境(プリント)を用意することならば、私が「教える行為」をしなくてもできるんじゃないかということです。これは私にとっては実験でした。

 

平井雷太『見えない学校 教えない教育』

 3 なぜ、「わかる」より「できる」を重視したのか?より

※この続きは明日に投稿する予定です。

 

 

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