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『YMO写真集 OMIYAGE』より坂本さんへのインタビュー(坂本龍一・追悼)

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『YMO写真集 OMIYAGE』より坂本さんへのインタビュー(坂本龍一・追悼)

『YMO写真集 OMIYAGE』より坂本さんへのインタビュー(坂本龍一・追悼)

2023/04/11

坂本龍一さんの追悼記事が続きます。

 

今日は1983年なので、もう40年前になるんですが、

当時31歳だった坂本さんへの

ロングインタビュー記事を

小学館から出ていた

雑誌『GORO』の特別編集として出版された

『YMO写真集 OMIYAGE』より。

 

 

(引用ここから)

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坂本龍一 Personal History

in his own words

 

中学1年のとき、

ベートーベンのピアノ協奏曲に感動!
猛然とクラシックの作曲を始めた

 

――生まれてからいちばん最初の記憶っていうのは?
坂本 隣のウチにあがりこんで、おやつのおいてある戸棚の場所知ってて、どんどん食べちゃったとか……、青木の赤い実がツルッと鼻の穴に入っちゃってとれなくなっちゃって大騒ぎしたとか……、自転車のチェーンに指が入っちゃって、騒いだら余計入っちゃって、病院にかつぎこまれたりとか……、これ、みんな2〜3歳のころの記憶だね。

 

――どんな子だったの。
坂本 ごく普通の子だったよ。 よく遊んで。

 

――音楽に主体的に興味を持ったのはいつごろ?
坂本 中学1年のときだね。小学校のころからピアノを習ってたんだけど、バスケッ卜部に入ったから、指なんか動かなくなる っていうんでピアノやめちゃってたんだ。 で、その反動で急に曲がつくりたくなって……曲をつくった。音楽が少し面白いなと思ったのはそのときが初めてだね。

 

——どんな曲をつくったの?
坂本 ベートーベンのピアノ協奏曲の3番が好きっていう感じ以上に好きになって、そのマネをしたというか……。

 

――エッ? 中1でもうそんな曲をつくっちゃったの。じゃ、いちばん最初に曲をつくったのはいつごろなの?
坂本 幼稚園のころかな。

 

――???
坂本 自由学園系のちょっと特殊な幼稚園でね。 譜面の読み書きとか、絵をかかされたりとかしてたんだ。で、先生がつくれっていうから、つくっただけなんだけどね……。 

 

――どんな曲だったか覚えてる?
坂本 ウサギを飼ってたんだ。そのウサギの目は赤いとか、そんなようなもんだよ。ハハハハ.……。なにしろ幼稚園だからね。詞もつけてね、曲は譜面でかいた。

 

――その曲が強く印象に残ってその後の坂本を決定したとか……?
坂本 全然!! なにしろ幼稚園だからね、何も考えてなかった。で、幼稚園でピアノなんか習ったりしたから、小学校に入って忘れちゃもったいないっていうんで、仲のよい友だちとピアノを習いに行ったワケ。 みんな中学ぐらいになると、受験でやめちゃうんだけど、なぜかぼくだけはやめなかった。 

 

――そのころからかなりうまかったわけなの?
坂本 子どもでも6年ぐらいになるとかなりうまくなるんだけど、ぼくはうまいほうじゃなかった。だって、全然やる気なかったんだもん。でも、ピアノの先生に薦められて、小学校5年のころから、松本民之助という芸大の先生のところに作曲を習いに行かされた。ぼくもやる気なかったし、両親も反対だったんだけど、なぜか行っちゃったんだ。そのときは、別にどうということはなくて、中学1年になって、さっきいったベートーベンのピアノ協奏曲に感動するまでは自分から音楽が面白いなんて思ったことはなかった。

 

――具体的にどこが面白いと思ったの?
坂本 音楽をつくってゆくプロセスが面白かったんだよね。何かをつくり上げて、ヤッタ!という満足感じゃなくてね。まだ子どもだったから、そういう満足感を求めて一所懸命になることなんてできないからね。それからはケッコウ真面目に作曲やった。レッスンに真面目というわけではなく、自分のためによく作曲の勉強をしたということだけど……。

 

――で、その後はどんな曲をつくったんですか?
坂本 ソナタとか変奏曲とか、いわゆるクラシックの形式にのっとったあらゆる曲をつくった。

 

――中学時代で、どのくらい曲をつくったんですか?
坂本 曲をつくるといえば、毎週つくってた。いわゆる作曲を習いにゆくところに行ってたわけだから……。

 

――当時、1日にどのくらい音楽やってたの?
坂本 6時間ぐらいやってたんじゃないかな。

 

――すごいネ。じゃその当時から、音楽的にはかなりすぐれていたわけだ。
坂本 聴音とか、初見とかはかなりできた。高校生も混じってやっていたんだけど、芸大に入れるぐらいの力はあったみたい。でも、曲をつくるというのはそれとは別のことなんで……。

 

――いわゆる曲のアイデア?
坂本 アイデアなんだけど、メロディーをつくるだけじゃなくて、曲の構成力というか、和声の使い方とか、メロディーの展開のさせ方とか……。

 

――じゃ、鼻歌をつくるのはクラシックでは作曲じゃないワケだ。
坂本 鼻歌が程度が低いというワケじゃないけど、それはクラシックでいう作曲じゃない。鼻歌は素人でもつくれるワケだから。 

 

――鼻歌を高度に編曲する能力だね。
坂本 編曲じゃなくて、それが作曲なんだ。その構成力だね。

 

――そうやって一所懸命、クラシックやってて転機みたいなことは起こらなかった?学校の勉強との葛藤とか、ビートルズ聴いてショック受けたとか、学生運動に触れてクラシックなんてくだらんと思ったとか? 
坂本 学校の勉強の葛藤とかはなかったね。 ビートルズもレコードぐらいは買ったし、学生運動もやったけど、作曲は作曲で続けてた。興味の対象は、ベートーベンみたいな古典から、ロマン派、近代音楽、現代音楽、前衛音楽とどんどん変わっていって、それぞれに好きな人ができたけどね。 中学2年のときは、ロマン派をとびこしちゃって、ドビュッシーとかラベルとか、フランスの近代音楽が好きになったりした。

 

 

ゲバ棒は振るは、木は切りたおすは、

石は投げるは、

もう、手がつけられないほど暴力的だった


――音楽をはなれた部分では、坂本サンの中学時代っていうのはどんなでしたか?
坂本 不真面目なこといっぱいやってたね。女の先生を泣かしたり、わざと「出ていけ!」っていわれるようなことしてね、そういわれると、「出ていってやろうじゃネエカ、コノヤロー」みたいなこといってね。それから、女のコのスカートめくったり、中学1年のころだけどね……。
真面目なことでは、よく本を読んだね。 中学3年でデカルトの『情念論』と『方法序説』を読んで、それからサルトルの『存在と無』を読んで、これが全然わからなくて……。高校へ行ってからは社会科学関係の本をよく読んだ。というのはあのころは学生運動の季節だったからね……。

 

――学生運動はかなりやったほうですか?
坂本 もう高校に入ったときは学生運動はやるものだと思っていたね。中学3年ぐらいて、心情的には反日共系だったみたいだよ。高校1年の4月に立川で大闘争があって、10月8日には羽田闘争があった。高校は都立新宿高校なんだけど、あそこは反戦高協という中核派の高校生部隊の拠点校だったから、余計だね。

 

――じゃゲバ棒なんか持って暴れてたほうなんだ。
坂本 ゲバ棒どころじゃなくて、鉄パイプは持つは、木は切るは、石は投げるは……もうかなり暴力的だった。

 

――両親はそのことどう思ってたの? 
坂本 うちは、親の意見をふりかざすほうじゃないから見えにくいんだよね。夜遅くなったり、外泊したりしたけど、本質的には家庭とは抵触しない部分でやってた。 

 

――じゃ、学生運動をしてること知らなかった?
坂本 いや、よく知ってた。学生運動自体はいいことだと思ってたんじゃないかな。 暴力はいけないと思ってたかもしれないけど……。ただ、その後、連合赤軍なんかが取り沙汰されるようになったとき、父に、「もしお前が、人殺しをするようなことがあったら、責任をとるために親としてお前を殺す」といわれたことがある。父は、小さいときから神経質でコワイところがあって、高校生になるくらいまでは、面と向かって顔を見たことがなかったけど、そのときは、ああ、そんなものなのかと思ったね。

 

――今から振り返って、あのころの学生運動全体をどうとらえていますか? 
坂本 いろんな知識をカジって、いろいろ転々として、セクト主義のダメなところを見て、結局セクトではない全共闘みたいなところでやっていたんだけど、実りは少なかったんじゃない?三里塚闘争とか、多少の実りはあったけど……。ただ、個々の生活を振り返って、今も、自分自身の問題として考えている人は多いんじゃないかな。ぼくは今も考えてる。で、いえることは、学生左翼的な反体制の心情っていうのはそれほど重要ではないと思うんだ。重要なのは、吉本隆明流にいえば、共同幻想を見抜く力だと思う。特に権力幻想とか、国家幻想を見抜く力だね。

 

――70年以降の赤軍みたいな活動に対しては?
坂本 24時間赤軍兵士というのはナンセンスだと当時から思っていたね。そのほうがカッコイイけど、24時間生活者であって初めて権力に対峙できるのであって、24時間兵士の活動というのは、結局、革命にいたらない。

 

――芸大に行こうと思ったのは、どんな動機からだったのかな?
坂本 苦労して、受験勉強して大学に行きたいとは思わなかったんだ。 高校1年のとき、池辺晋一郎サンという新宿高校の6年ぐらい先輩の作曲家に曲を見てもらったことがある。そのとき、池辺さんに、「これなら、今、芸大受けても入れるよ」といわれたんだ。そのころから芸大には入れると思っていたから......。

 

――いわゆるポップ・ミュージックの仕事をやるようになったのはいつごろからなの?
坂本 芸大の3年のころからかな。いわゆるトラ(エキストラ)ってあるじゃない。今日、あいてるんだったらピアノ弾いてよ、みたいなこといわれて、いやだったけど、お金になるからやったっていうのが最初だった。

 

――初めてプロと活動したのは?
坂本 友部正人のレコーディングのときにピアノを弾いたのが最初かな。レコードのタイトルはもう忘れたけど……。友部正人とは飲み屋で知り合いになって引き受けた。 そのころ、ぼくは、日本のロックなんて、〝はっぴいえんど〟も何もかもまったく知らなかったんだ。野音 (日比谷野外音楽堂)にロックを見に行ったくらいだったからね。それにベ平連のフォークみたいのが大嫌いで、みんなで「友よ〜、」なんて歌っているのを見ると、ひっぱたいて歩いたもんだ。 左翼ヤクザ的なところがあったからね……。

 

――でも、ビートルズとか、ロックは聴いてたんでしょ?
坂本 中学校のはじめごろ、ビートルズとストーンズ、それにデイブ・クラーク・ファイブとかキンクスとかアニマルズとかよく聴いてたけど、レコードを買ったのはビートルズぐらいかな。1966年ごろからは、いわゆるサイケで、ピンク・フロイドとかクリーム、それに大学に入ってからは、レッド・ツェッペリンとかグランド・ファンク・レールロードなんかを聴いたけど、普通に好きだったという程度だね。ただ、高校が新宿だから、ジャズ喫茶にはよく行った。コルトレーンから入って、高校時代には、友人とフリー・ジャズまがいのセッションをしていたこともあるよ。

 

――ビートルズをピアノで弾いてみたりとか、そういうことはしなかったの? 
坂本 絶対にしなかった。 クラシックやってるのとはまったく関係なく、普通の人がビートルズを好きなように好きだっただけなんだ。

 

――音楽以外ではどんなことに興味があったの?
坂本 映画もよく見たし、女のコにも興味があったし、本もよく読んだ。

 

――たとえば?
坂本 映画は新宿の昭和館でよくヤクザ映画を見たし、とくに映画監督としては、ゴダールに狂ったし、パゾリーニもすごく好きだった。本は高校のころからすごくよく読んだ。吉本隆明、埴谷雄高、ボードレール、ランボーといったフランスの詩。 シュールレアリスム関係では、ジャン・ジュネやバタイユ。社会科学では、マルクス、エンゲルス、フロイト。それに、フッサールの現象学なんかも読んだ。あとは、コンピュータ関係とか、情報科学的なことにも興味があって、それに関連する本をよく読んでいた。

 

――そういう本は今でも読むんですか?
坂本 フランスの詩は読まなくなったけど、ほとんどのものはずっと継続して、読んでる。今でも、吉本を読むよ。

 

 

クセナキスの影響で、コンピュータを使って作曲をした。
無機的な音楽にしか興味がなかった

 

――話は音楽にもどるけど、友部正人の後は何ですか?
坂本 りりィのバンドだったかな。これもバイトでやったんですけど……。

 

――りりィのバンドをバイトだと思ってたんだとすると、そのころは、ゆくゆくは何になろうと思ってたの?
坂本 全然わからないし、考えもしなかった。数学の発見をするかもしれないし、小説を書くかもしれないし、コンピュータを使った作曲家になるかもしれないし、映画作家になるかもしれないし、アラブに石油を掘りに行くかもしれないし、一匹オオカミのテロリストになるかもしれなかった。

 

――じゃあ、いつ、どんなキッカケでポップスを仕事にしようと思ったの? 
坂本 頑張るようだけど、キッカケはないんです。ただ、仕事が増えちゃった。やっぱりいちばんの転機というのはイエロー・マジック・オーケストラに入ったことじゃないかな。ずいぶん最近のことだけど……、どこかへ所属したのはそれが初めてだった……。それまでは、日雇い労務者のスタジオ・ミュージシャンだから所属する必要がなかった。

 

――自分では日雇い労務者とか、バイトとかいっているけど、アレンジャーとしてボサ・ノバ風でロマンチックなストリングスのアレンジ、プレーヤーとしても坂本にしかできないものがあるということで、当時もかなり注目されていたワケだけど……。
坂本 楽しく、バイトをしていたってことかな。本質的に好きではなかったけど、何 も考えないでやっちゃうというのではなく、いちおう、気をつかってやってた。 高校のころから、ボサ・ノバなんかも聴いていたし、後から知ったんだけど、クラウス・オーガマンのアレンジなんかは趣味として好きだった。それに、ロマン派と近代音楽の境目ぐらいのテクニックを加えて……。
趣味と本音ってあるでしょう。どの釣り竿がいい、とかいうのは男子一生の仕事ではないと思っても、どれがいいかなんてことに一所懸命気をつかうでしょう。それと同じだったんだ。でも、趣味にしてもそれだけ首を突っこんでいれば、同じ自分なんだから、少しずつ変わってくる。もともと絶対に守るべきものと、下劣なものというように区別していたワケではないしね。当時は、阿部薫(サックス奏者)なんかと、大フリー・セッションすることのほうが本質的だと思ってた。いずれにせよ、当時はたかが音楽だと思ってたからね。今は、ちょっと違うけど……。

 

――『千のナイフ』が初めてのソロ・アルバムですよね。
坂本 その前に自主制作のがあるにはあっだけど、まあ、あれが初めてです。

 

――『千のナイフ』はYMO結成のコンセプトにも影響を与えたアルバムだと思うけど、つくろうと思ったキッカケは? 
坂本 1978年ごろかな、そのころがいちばんスタジオの仕事が多くてね。バイトはバイ トだと思いながらも、それが仕事になってしまい、バイト以外のことはやっていなかったから、これはいけないと思ってつくった。日雇い労務者というのは使われるだけだから、意思表示したかったんだ。

 

――どういうことをやりたかったんですか?
坂本 デジタルなテクニックで、イマジナブルな、スクエアじゃない音楽をつくりたかった。辺境とか、第三世界とか、都会的でないものに目を向けたかったこともある。 それから音楽に毒を盛りこみたかった。 

 

――コンピュータを使ったのは、あれが日本で初めてですか?
坂本 初めてMCー8を使った。冨田勲サンも使ってるけど、レコード化されたのはこちらのほうが先なんじゃないかな。そのとき、松武秀樹クンとぼくで、その後YMOなんかで使われる、MCー8の使い方のテクニックをつくっていったんです。

 

――初めてMCー8が出たときから、これからの音楽を変えるすごい機械だとか思って注目していたワケですか?
坂本 全然すごいとは思ってないです。学生時代にはもっと違う使い方でコンピュータを使ってたから……。MCー8は曲をつくるためのものじゃなく、演奏するためのものだからね。

 

――コンピュータで曲をつくるっていうことを簡単に説明してくれませんか。 
坂本 高橋悠治とか、クセナキスの影響なんだけどね。確率の関数とか、ポアソン分布とかを使って、音を選び、その単位時間内の変化を微分方程式で与えて……。

 

――???
坂本 まあ、あんまり面白いものはつくれなかったけどね。

 

――じゃ、非常に無機的な音楽をつくってたワケですね。
坂本 無機的な音楽がすごく好きだったし、ぼくには、無機的じゃない音楽をつくるのはすごくむずかしかった。

 

――でも『千のナイフ』では無機的じゃないものをつくろうとしたワケでしょ?
坂本 人を触発することに目が向いてきたんです。それまでは、人を触発するような音楽は嫌いだった。

 

――それが変わったのはナゼ?
坂本 やっぱり時代の変化なんじゃないかな。時代の無機性みたいなものが非常にパワーアップしてきたから、それに対抗するイメージのアナキズムというか、自分の脳のなかに〝毒〟を開発しなきゃならなくなってきた。

 

――話としてはよくわかるんだけど、時代の無機性のパワー・アップに対抗しようという理論が先にあって『千のナイフ』をつくったのか、あるいは逆に何かを感じて『千のナイフ』をつくって、その結果を後で説明するとそうなるのか……どっち? 
坂本 両方だね。ぼくはすごく感じるほうなんだけど、それを理屈で説明できないと気がすまないんだ。理屈好きだから……。脳の左側と右側の両方使っていないとイヤなんです。

 

――〝毒〟を盛りたかったっていうところをもう少し説明してくれない?

坂本 〝毒〟を盛るっていうことは、聴いていて楽しいということなんだけどね。 ぼくは、はっきりいって、ポップスをさげすんでいたわけだ。もっと知的な構築物をつくるのが偉いんだと思っていた。だけど、だんだん、そうじゃなくて、聴いて楽しいことが大切だということがわかってきた。人を触発することには、プラスとマイナスの面がある。でもなおかつ、〝毒〟を盛っても触発したいと思った。

 

——それは自己表現したいということ? 
坂本 自己表現といっても、勝手に個的に表現するのではなく、未知の相手とコミュニケーションすること、相手に伝えるということですけどね。

 

【インタビュアー註】坂本のいう〝毒〟とは、たとえば砂糖のようなものではないだろうか。砂糖は体にとって必要ないものであるばかりか、ときに害を及ぼす。しかし、甘くないケーキはだれの味覚も楽しますことはできない。病院の食事のように知的に構築された音楽では、未知の相手にコミュニケートすることができないのだ。ケーキをつくるのに砂糖を入れることに何の疑いももたず、無自覚的に使っている他のミュージシャンに比べて、坂本は〝毒〟と認識しつつ自覚的にそれを使っている点に注目したい。

 

 

ぼくは今、身軽な〝妖怪〟になりたい。

さいわい身近に〝妖怪〟がいるから

学んでいるところだ

 

――2枚めのソロ・アルバム『B2ーユニット』はどういう作品ですか?
坂本 あれは、非常に個的な作品だと思う。趣味の極みとして、余計なものをギリギリにはぎとってつくった。それから、もうひとつ、無意味の極みなんだよね。

 

――無意味の極み?
坂本 意味するものがまったくない、ナンセンス、機能しないということ。ただし、あれをつくった後で興味の対象が変わった。

 

――どのように?
坂本 音楽をつくるにも、それをプレゼンテーション(提出)するにも、人とのかかわりがなくてはできない。もっと人とのかかわりを意識したいと思うようになった。 次のソロ・アルバムでは、人とかかわることを中心にした共同作業でやりたい。聴衆とかかわるという意味で、プレーヤーとしての活動も大切な柱にしていきたい。

 

――話は前後するけど、ここで、YMOに入ったいきさつというか、そのときの意識みたいなものを聞かせてほしいんだけど
坂本 YMOというバンドからも、メンバーからも束縛はないというのが前提だった。ただし、YMOというのはソロじゃないから、メンバーの責任が半減して、お互いに寄りかかれる。遊びやすいというのが魅力だったね。コンセプトとしては、デジタルなリズムでポップスをつくりたいというこそのポップスの中身は3人のメンバーがすべてイコールではなかったけれど、いっしょに仕事をするなかで、他のメンバーからぼくにない部分を学ぼうと思ってた。向上心というか……。

 

――新しさみたいなことを意識した?
坂本 それはもう、クラフトワーク以上のものをつくろうと思ってた。

 

――最初に会ったときの細野サンと高橋サンの印象はどんなだった。
坂本 細野サンと最初に会ったのは大滝詠一 のレコーディングのときだと思うけど、無口な人だなと思った。ユキヒロは、山下達郎のバンドのピアノとして野音に出たとサディスティックスでやっているのを見た。話さなかったけどね。なんだこれはと思ったよ。 こんなファッショナブルなのがミュージシャンか……。そのころは、フアッションとかそういうものがあるということに気がつかなかったし、そういうのを考えるのは嫌いだった。

 

――今はファッショナブルだけど……。
坂本 知らなかったから面白かったんだね。でも、ファッションといってもそのなかに好き嫌いはあるけどね、趣味の問題として。

 

――最初はYMOに束縛されるのはイヤだったといったけど、今は時間的にもかなり束縛されてるよね。
坂本 なりゆきでズルズルとね。でも、YMOやめてもYMO以上に面白い環境でいられるとは思わないし……。こういう風になったのはありがたいという部分もあるんだよね。例えば、もしぼくがYMOじゃなかったら、こうやってぼくの意見をいうこともできないだろうしね。マイナスばかりではなくプラスも多いんだ。
ワールド・ツアーが終わってから考え方がだいぶ変わった。去年ぐらいまではそのマイナスの要素から逃げてたんだよね。でも、今はマイナスの要素っていうのは自分で処理して減らしてゆかなければならないと思ってる。そのためには、学習して、自分自身をパワーアップさせなければダメなんだ。今、自分が強くなるための技術が必要なんだと思う。

 

――強くなる技術って、たとえば?
坂本 いちばん大きいのは他人とのかかわり合い方だね。対他の面で強くなる。強くなるといっても、自分の意見を押し通すことじゃなくて、やさしいのと譲歩するのが違うように、強引なのと強いのとは違うでしょう。あとは、イエス、ノーをはっきりさせることも大事だね。それから、時間とお金をムダにしないこと。今は、足踏みしていたくないんだ。逃げるというのは足踏み以下だしね。

 

――カタイ話ばかりになったから、最後〝女性〟について聞きたいんだけど……。
坂本 ずいぶん遍歴したけど、もう29歳になるので、相手をひとりにしぼって、ガンバリたいという心境ですね。ずっと、このまま死ぬまで、ひとりでいきたいんだけど、そのためにはすぐに死ななければならなかったりして(笑い)……。

 

――じゃ、その相手について聞きたいんだけど、坂本から見てどんな人なの? 
坂本 狂女、妖怪。ぼくは彼女からいつも妖怪学の勉強をしている。家事とか、育児の合間に時間をつくって、必要なものを読んだり、レコードを聴いたり、曲をつくったり、そういう身軽な生活の仕方にまず学ぶところがある。

 

――それがなんで妖怪なの?
坂本 人間っていうのは自分で〝問題〟を設定して、それにかかずらわっているだけなんだ。〝問題〟というのは、常に自分の中にある。ある問題に悩んだり、つまずいたりしているとき、大事なのは、自分はどうなのかということをきびしくチェックすることだと思うね。で、自分をチェックすると必ず落とし穴が見つかる。でも、その落とし穴にかかずらわっているのもまた落とし穴なんだ。そういうことをくり返すことサイコ(心理)ゲームと呼んでいる。それはよくない頭の使い方だ。落とし穴があろうとなかろうと、全然平気。関係ないわヨ、やることはいくらでもあるわヨっていう態度で、自分に必要なことはどんどんやってしまう。それが〝妖怪〟ということだ。妖怪は常に身軽なんだ。そういう意味で、ぼく自身妖怪になりたいと思っている。

 

――じゃ妖怪っていうのは神話に出てくるトリックスターみたいな存在なんだね。 
坂本 トリック・スターよりはもう少し自律的で存在自体が反権力的なんだ。ただ、ぼくは、自分自身を分析すると、ある問題を設定して、それを学習するという方法で妖怪になりたいと思うタイプなんだ。その意味で、生活の仕方も存在の仕方も根っからの妖怪である彼女に学ぶところが多い。 

 

――フーム。 坂本にあうと〝女性〟論も、かなりの抽象論になっちゃうネ。でも、全体として坂本が、クラシックという構築された世界から、一歩ずつ歩み出してきていることはよくわかりました。
坂本 では、そんなところで.……。

 

『YMO写真集 OMIYAGE』(小学館GORO特別編集)より

 1983年12月15日発行

 

COMMENT:

40年前の記事なんですが、改めて読み直してみると、

7年前まで吉本隆明さんの著作に対し

直接アプローチできずにいたわたしも、結局は

このような坂本さんや渡辺京二さん、内田樹さん、

上野千鶴子さん、高橋源一郎さん、中沢新一さん、

宮台真司さんといった、

吉本さんに大きな影響を受けた人たちから

OUTPUTされたものを通して、

間接的に吉本ワールドに触れていたということや、

わたしが今の寺子屋塾のような場づくりに至る

萌芽が坂本さんが語られる言葉の端々に見て取れて

とても興味深く感じました。

 

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