學而不思則罔、思而不學則殆(「論語499章1日1章読解」より)
2023/09/04
昨日は久しぶりに論語を取りあげたんですが、
どの章をピックアップするか選定するのに、
久しぶりに499章の読解文を
読みなおしてみて、
重要な章をたくさん紹介していなかったことに
気付きました。
それで、同テーマでの連投記事が増えた5月以後、
とくに古典研究カテゴリの記事は
ほとんど投稿できていませんでしたし、
集中的にしばらく論語を投稿してみるのも
いいかもとおもいはじめています。
今日は、孔子の学問に対する姿勢を述べた
為政第二の15番(通し番号31)をご紹介します。
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【為政・第二】031-2-15
[要旨(大意)]
孔子の学問に対する基本的な考え方を述べているとても重要な章。
[白文]
子曰、學而不思則罔、思而不學則殆。
[訓読文]
子曰ク、學ンデ思ハザレバ則チ罔シ、思フテ學バザレバ則チ殆シ。
[カナ付き訓読文]
子(し)曰(いわ)ク、学(まな)ンデ思(おも)ハザレバ則(すなわ)チ罔(くら)シ、思(おも)フテ學(まな)バザレバ則(すなわ)チ殆(あやう)シ。
[ひらがな素読文]
しいわく、まなんでおもわざればすなわちくらし、おもうてまなばざればすなわちあやうし。
[口語訳文]
先生(孔子)が言われた。「師から学ぶだけで自分で考えないと、〈いのち〉というものは見えてこない。自分で考えるだけで師から学ばなければ、〈いのち〉を過つ危険がある。」
[井上のコメント]
この章は、「師から学ぶだけで自分で考えないと(どんなに知識や技術を得ても)確かなものにならない。自分で考えるだけで師から学ばなければ(独善に陥って)危険である。」という解釈が一般的ですが、論語のなかでもっとも重要な「仁」という概念を、人と人との間に偶発的に立ち現れる〈いのち〉と捉える小倉紀蔵さんの解釈を採りました。(『新しい論語』P.205~206参照)
たとえば、わたしたちは、人に聞けばすぐに解決するようなことを、無知な自分を恥ずかしがって人に聞こうとしないし、本を読めば書いてあることを面倒くさがって知ろうとしないところがあります。また、逆に自分の頭でじっくり考えて答えを出すべきことを、安易に人を頼って聞こうとしてしまうのではないでしょうか。
孔子が考える「学ぶこと」の中心は、周代の政治や礼制、倫理の学習であり、基本的に先人の知恵を学ぶことにあったと言ってよいでしょう。また、孔子が考える「思うこと」の中心は、自分の頭で自ら考えようとする姿勢にありましたが、衛霊公第十五の32章(通し番号411)に「ものを食べず、眠らず、一晩中考え続けたが、得られるものは無かった(→一人で思うだけではダメである。思うことは学ぶことには敵わない)」とあり、孔子は「師や書物など先人による経験的な学習=学ぶこと」と「自分自身の合理的な思索=思うこと」のいずれか一方だけに偏るのではなく、両者の絶妙なバランスのなかにこそ、〈いのち〉が立ち現れると考えたのではないかと。
となれば、学ぶことが優位の人間か、思うこと優位の人間かを自覚していること、そして、人に問うことで解決する課題と、自ら考えるべき課題を弁別する姿勢が何より重要だといえるでしょう。