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「〝教えない〟性教育」考(その1)

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「〝教えない〟性教育」考(その1)

「〝教えない〟性教育」考(その1)

2023/11/06

毎月末日には、その月のできごとや

1ヶ月間に投稿した記事内容をふりかえる内容の

記事を書いているんですが、

10/31に投稿した10月度のふり返り記事に、

10/13から公開が始まっている

映画『春画先生』を観たので、

春画の歴史や性教育の問題とも絡めて

映画についてちゃんと書いておきたい気持ちが

あると書きました。

 

ただ、その記事でも触れたとおり、

春画の歴史や性教育の問題となると、

一つひとつ取りあげても

1日分の記事で

とても書き終えられないような大きなテーマなので、

何回かにわたって連投することに

なりそうなんですが、

ゼロから文章を書いていくのは

なかなか骨の折れることですし、

過去に旧ブログ・往来物手習いで投稿した記事が

いくつかあるので、

それらを再度紹介したり

リライトしたりすることから始めて行こうかと。

 

・・・ということで、本日の記事のテーマは、
〝教えない〟性教育です。

 

寺子屋塾が〝教えない教育〟という看板を

掲げていることは、こちらのblogでも

〝教えない教育〟のポイント12

など繰り返し繰り返し書いてきました。

 

まずは、性教育というテーマに対して、

寺子屋塾ではどのようにアプローチしているのか、

その基本スタンスを書くところから

始めていこうとおもいます。


内田樹&三砂ちづる『身体知 カラダをちゃんと使うと幸せがやってくる』を読むと、

むかしはひな祭りの日に、女の子たちを集めて

性教育をしたという話がでてきます。
 

この内田さんと三砂さんの本のことは、

以前、旧ブログのこちらのblog記事でも

その部分を引用して紹介しました。

ただ、わたしはその話を読んだとき

「これってホントかな?」と疑問におもったんです。

 

それで、ネットで検索してみると、

この記事この記事など、

たしかにそのような話がたくさんヒットします。
 

でも、それらの出所はほとんど

三砂さんの話を無批判に

そのまま鵜呑みにして紹介しているだけで、
信頼できる一次情報が見当たらず、

確たる根拠はないようなんですね。


しっかりしたリテラシーに基づいて書かれ

読むに値したのは、
・菱餅が女性器で甘酒が精液を象徴しているというのは疑わしい
という記事ぐらいでした。
 

つまり、この記事の最後に記されているんですが、

ひな祭りが性教育と深い関係にあったのは、
内田さんとの対談で

三砂さんの知り合いとして登場する方が育ったような

限られた地域、あるいは限られた世代の話で、

一般化すべき話ではないという意見に

わたしも賛成なのです。


ところで、以前在籍していた塾生のひとりから、
「近々ひらくフリースクールでは、性の問題・・

とくに昨今のLGBT、性的マイノリティの問題にも

配慮した場にしていきたいと考えているんですが、
参考になるような本はありませんか?」という

相談を受けたことがありました。

「性の問題は、人間にとって無くてはならない

大切なものだ」って考える姿勢は

何ら間違っていないし

たしかに、そのとおりなんです。

でも、その問題だけを取り出して

語ろうとしたときには、
この〝正しさ〟というのがなかなか厄介で、
却ってその姿勢自体が

不自然に映ってしまうことがあります。


三砂さんも、「身体知」の本では、

性の問題を医療保険の知識だけでなく、
生活文化の一環として

一緒に伝えていく姿勢が大事だと話されていて、
ひな祭りのときに性教育をしていたという話も、
そうした文脈のエピソードとして

紹介されているわけですね。

さらには、セクシュアリティの問題というのは、
プライベートな性格ももっているので、
〝大切に扱うこと〟と

〝特別視すること〟とは紙一重のところがあり、
目的として「伝えたい」ことと

結果として「伝わること」の間に、
埋めがたい溝が生じてしまうのでしょう。

内田樹さんは、前に紹介した三砂さんとの対談でも、
「性教育は、家庭や学校ですべきではない」

と語っていますし、
著書『ためらいの倫理学』(角川文庫)に収められた

「性的自由はあり得るか」という小論のなかで

次のように書かれていました。
 

「・・・性というのは、『機能する欠如』なのであるから、そもそもそこには語るに足るようないかなる根拠もない。
だから、性をめぐる言説はすべて、それを隠蔽しようと、開示しようと、称揚しようと、告発しようと、とにかくそれについて語る限り、必ず構造的に『無根拠な価値付け』をしてしまう宿命なのである(それはわたしの書いているこのテキストも例外ではない)。」
(P.182)

 

まあ、「機能する欠如」といった、

内田サン独特の難しい言い回しが使われ

しかも、一刀両断に端的に論じられているので、

とってもわかりにくい文章なんですが、

「機能する欠如」とは、

〝対幻想〟という関係性のあり方を

別の側面から言ったものと捉えていただければと。

 

たとえば、

兄という表現は、弟がいるから成り立つもので、

一人っ子のことを

兄と言ったり弟と言ったりはしませんし、

兄という機能に価値があるとか、

弟である機能に価値があるとか、

ペアになる相手がいること、

あるいは相手がいないこと(欠如)に

価値があるというような言説は、

どんな根拠もないってことなんですが。


つまり、いま書いているこのわたしの文章なども、
こうして書くことによって

「無根拠な価値付け」をしてしまうので、
たぶん、これを読まれる皆さんには、

わたしの意図とは無関係に
さまざまな受けとめ方をされてしまう

宿命にあるわけですね。

また、性教育に限らず、

教育という営みのもつ一般的な傾向としても

言えることなんですが、
指導する側のどこかに、

分かっている人が分からない人を

教え導き啓蒙してあげましょう・・という

上から目線と言うか、上意下達的な姿勢があり、
そうした姿勢が結果的に、

学ぶ側の不必要な抵抗を生んでしまう
大きな一因になっているようにおもいます。

加えて、セクシャルマイノリティの問題は、
マイノリティ側から語られることが圧倒的に多く、
立場上どうしても自らの正しさを主張し、
偏見差別と闘う姿勢にならざるを得ないのでしょう。

いずれにしても、同じ土俵の上で

対話すること自体が

成立していない現状があるわけですから、
まず、こうした風潮を払拭していく姿勢が

重要なのではないかと。


そして、こうした状況をふまえて

考えてみるにつけ、

積極的に教えようとせず、

かといって、知らんぷりをするのでもなく、

問われたときに、適切な情報や知見を提供できるよう

つねに準備と研究を怠らない
〝教えない性教育〟
というのが、
もっとも自然なアプローチなのではないかと

おもえてくるのです。

 

前記したとおり、内田樹さんは、

「性教育は、家庭や学校ですべきではない」と

言われているのですが、

そうなってくると、

このテーマに取り組むのに最も相応しいのは、

社会教育のフィールドとなりますし、
「学校教育でも家庭教育でもできない学び」を

モットーとしている寺子屋塾が、

担当すべき分野なのかもしれません。笑

 

この続きはまた明日に!

 

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