「〝教えない〟性教育」考(その7)
2023/11/12
11/6より教えない性教育をテーマに記事を書き始め、
これで7回目となりました。
(その1)から(その4)までは、
積極的に教えようとせず、
かといって、知らんぷりをするのでもなく、
問われたときに、適切な情報や知見を提供できるよう
つねに準備と研究を怠らないといった
教えない性教育という概念の基本的枠組みを
呈示しました。
そして、前々回(その5)からは、
〝教えない性教育〟を実践しようとする際に
わたしが推薦するに値すると考える
情報素材の紹介に入っています。
今日の記事では、
(その5)(その6)で紹介してきた
橋本治さんの『ぼくらのSEX』まえがきに対して、
わたし自身がどのように感じ、どう受け止めたかなど
詳細なコメントを記すつもりなので、
これまでの投稿に未読記事がある方は
適宜参照された上で
以下の記事を読んで下さると有難いです。
それにしても、性教育の専門家ではない
橋本治さんが書いた本が、
性教育の専門家が書いた本よりも
わかりやすいように感じてしまうって
いったいどういうことなんだろうと
おもいませんか?
橋本治さんのことを全く知らないって方や、
名前は聞いたことあるんだけど、
本は読んだことがないって方は、
旧ブログ〝往来物手習い〟に書いた
次の記事をぜひ参照ください。
彼が2001年に書いた『「わからない」という方法』
を紹介することを主目的に、
わたしが高校生のときに読んだ、
作家としてデビューされた橋本治さんの
最初の小説『桃尻娘』を紹介したりしながら、
わたしがなぜ橋本さんの文章に
関心を持ち続けてきたのかということや、
それが寺子屋塾の実践とどう繋がったのかにも
言及していますので。
つまり、「わからない」からこそ
人間は「わかろう」とするし、
「できない」からこそ人間は「やろう」とする、
というのは、
まさに自然過程に沿っているからで、
それに乗っかるというのが、
セルフラーニングの基本スタンスなんですね。
たとえば、編み物の専門家ではない
橋本さんなんですが、
『男の編み物 橋本治の手トリ足トリ』という
編み物の本を1983年に上梓されています。
この本の中身は次のような感じで、
とってもわかりやすく書かれているんですね〜
この本をみて、手芸関係の本を専門に出している
ある出版社の若社長が、
「この本はウチの出版社で出している
どの本よりもわかりやすい!
どうしてウチではこういう本を作れないのか!」と
若い社員たちを前にして檄を飛ばしたと
いわれているんですが。
でも、それは半ば無理な注文なんですね〜
なぜなら、専門家と呼ばれる人たちの多くは、
「(自分は)わかっている(とおもいこんでいる)」
ので、「わからない」人の気持ちが「わからず」、
「わからない」人が「わかる」ようには
なかなか書けないという構造やジレンマが
自ずと生じてしまいがちなわけで。
つまり、自分が「できない」「わからない」ことを、
否定的に考えたり卑下したりする必要などなく、
そのことをどう使うか、どう活用するか、
自分の姿勢次第で強みにもできるんですね。
最近では〝ネガティブ・ケイパビリティ〟という
カタカナ言葉もあるみたいです。
さて、話が随分脱線してしまったので、
そろそろ元に戻しましょう。
まず、(その5)で引用した部分のなかに、
次のような文章がありました。
「性教育が必要だ」って言われて、
みんながそのことをわかっているけれど、
ちゃんとした性教育というのがあんまりない。
SEXに関して何をどう教えたらいいのかってことを、
教える側があんまりよくわかっていない。
コレは本当にその通りだなぁとおもいます。
そう。
ちゃんとした性教育というのがあんまりない
というよりは、
橋本さんがこの本を書いた当時にはまだ、
「包括的性教育」というような
言葉が存在していなかったし、
何がちゃんとした性教育なのか、
判断するめやすとなるような基準というものが
明確でなかったわけですね。
だから、
人間というものは結構ズサンなもので、
「人間にとって正しいSEXのありかたというものは
どういうものか」なんていうことの答えを、
まだあんまりちゃんと出してはいないし、
そうしたことが実際的に考えられたことなんて、
人類の歴史の中ではまだ一ぺんもないんだって
思ったほうがいい。
であるとか、
「正しいSEXとは
どういうありかたをするものなのか?」なんてことが
ちゃんと実際的に考えられたことなんて、
人類の歴史のなかではまだ一ぺんもないんだって
思ったほうがいい。
ってなるわけですね〜
でも、この考え方が
正しいことなのかどうかはわからない。
正しいかどうかはわからないけれど、
だからこそ、そのように「思ったほうがいい」って
橋本さんは、言ってるわけですね。
このように、この本のまえがき文には、
「思ったほうがいい」って言い回しが
繰り返し出てきます。
また、この橋本さんの言葉は、
(その2)で紹介した、
2022年7月にYahoo!ニュースで発信された記事
みんなで考える性の学び方 の中にあった、
性教協代表幹事・水野哲夫さんの
「大人にこそ性の学びが必要です」って言葉と、
ほぼ同じ意味ではないかと。
それにしても、
この人間っていうものは結構ズサン
って表現が、何ともオモシロイですよね。
でも、そのように思うことを前提にするなら、
そもそも教える人間自身が
人に教えるに足るコンテンツを有していなくて、
まさに「教えない教育」のそのものなわけで、
学ぶ人間からみたときには、
「正しいSEX」というものは、だから、
「自分が自分の中にある性というものを
ちゃんと考えて〝これも正しいSEXだよ〟って
言えるようになることなんだ」って思った方がいい。
ってなるわけです。
つまり、性教育については、
だれも確とした正解をもっていないし、
だれかが正解を教えてくれるわけではないから、
自分の頭でちゃんと考えようねってことだし、
それで、(その6)で要約したパラグラフの
⑻「正しいSEX」というものは、
自分が自分の中にある性というものをちゃんと考えて
〝これも正しいSEXだよ〟って
言えるようになることなんだって思った方がいい。
ってことや、
⑿正しいSEXのあり方とはつまり、
「こうあるべき」が先に存在するのでなく、
「その使い方を自分でちゃんと考えろ」という
方向にしかないはずだ。
であるんだと。
この、正解を自分の外側に求めても、
そもそも、そんな正解は存在しないので、
自分で考えて答を出すしかないって考え方は、
すくなくともわたしにとって
非常に納得のいくスタンスなんですね〜
また、
きみも一緒になって「正しいSEXのため教科書」を
作っていく——それがいまの性教育の方向なんだね。
って書かれているのは、
前記したように、「包括的性教育」って言葉は、
その当時には、まだなかったんだけれど、
望ましい性教育のあり方を示すような
ガイドラインをつくっていこうという動きが
起こってきたのが90年代だったようで、、
つまり、橋本さんが、そうした動きもふまえて
この本を書かれたんだとわかります。
また、この「他者と関わりながら、
自分で、自分のなかにあるものを考える」って、
まさに、寺子屋塾で行っている
セルフラーニングの姿勢そのものなんですよね。
(その2)で紹介した、
2022年7月にYahoo!ニュースで発信された記事には
包括的性教育の具体的な中味として、
「人権や多様性への理解」という要素が
加味されていました。
つまり、一人ひとりが
自分のアタマで考えて答を出そうとすれば、
それらは当然のこととして、
各々に異なった多様なものとなるわけです。
それで、
⒀なぜならSEXへの衝動・願望・欲望というものは、
すべての人間の中にあって、
すべての人間はそれぞれに違っている。
だからこそ、SEXというものは、
人間のいるヴァリエーションの数だけあって、
とっても個人的なものだしバラバラなものだ。
となるわけで、これって金子みすゞさんの
「みんな違って、みんないい」ですね。
そうだからこそ、
⒃人間ならば、こんなふうに心で考え、
頭で判断して、自分というものを受け容れてくれる
自分だけのパートナーを、
絶対に見つけることができる。
もし、見つからないとすれば、考えが足りないだけ。
「自分とはこういうもの、
自分に見合うパートナーとはこういうもの」と
ひとりで勝手に決めつけているから。
ただ、それだけのことだ。
と言い切れるわけですね。
昨日の記事に書いたように、
この本を読んだのは、30年前の1993年6月で、
わたしがまだ独身で33歳のときだったんですが、
こちらのページに示されている目次をみると、
性教育について考えようとしたときに、
踏まえておくべき必要な事柄が
ほぼ洩れなく網羅されていて
それまで恋愛やSEXに関して、
よくわからなかったことや、
もやもやと考えていた諸々のことが
とてもスッキリ整理される感覚があったことを
よく覚えています。
そして、この本を読んだ四ヶ月後に、
わたしはお見合いをして、
そのわずか三ヶ月後の1994年1月には
その女性と結婚していたのでした。
人間ならば、こんなふうに心で考え、
頭で判断して、自分というものを受け容れてくれる
自分だけのパートナーを、
絶対に見つけることができる。
と、本書に書かれていることが現実になったわけです。
とはいえ、だれもがこの本を読んだら
パートナーが見つかるかといえば、
それは「原因と結果の取り違え」であって
残念ながら、そんなことはないんですが・・・
この続きはまた明日に!
※冒頭の写真は文藝別冊の橋本治追悼特集号