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君子和而不同、小人同而不和(『論語』子路第十三の23 No.325)

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君子和而不同、小人同而不和(『論語』子路第十三の23 No.325)

君子和而不同、小人同而不和(『論語』子路第十三の23 No.325)

2024/02/25

久しぶりに古典研究カテゴリーの記事で、

論語499章1日1章読解からです。

 

今日は、人との接し方について

君子と小人を対比的に語っている

子路・第十三の23番(通し番号325)を。

 

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【子路・第十三】325-13-23
[要旨(大意)]
君子と小人の人との接し方を対比的に語っている章。
 
[白文]
子曰、君子和而不同、小人同而不和。
 
[訓読文]
子曰ク、君子ハ和シテ同ゼズ、小人ハ同シテ和セズ。
 
[カナ付き訓読文]
子(し)曰(いわ)ク、君子(くんし)ハ和(わ)シテ同ゼズ、小人ハ同シテ和セズ。
 
[ひらがな素読文]
しいわく、くんしはわしてどうぜず、しょうじんはどうしてわせず。
 
[口語訳文1(逐語訳)]
先生(孔子)が言われた。「君子は和み合うが意見が同じでない。凡人は意見は同じだが和まない。」
 
[口語訳文2(井上の意訳)]
君子には主体性が必要です。だから、人と和みはしても、意見の違いはあって当然と考え、いい加減な同調や媚びることはしません。しかし、凡人は主体性がないから、人に媚びたり同調したりするけれども、考え方が違うからと言ってケンカをし、人と心から理解しあうことはありません。
 
[口語訳文3(従来訳)]
先師がいわれた。――
「君子は人と仲よく交わるが、ぐるにはならない。小人はぐるにはなるが、ほんとうに仲よくはならない」(下村湖人『現代訳論語』)
 
[語釈]
和:相手を深く理解して調和する。他人と和合する。
而:逆接の意を示す。
同:自分の見識や判断を放棄して、相手の言葉や態度だけを見て表面的に同調する。付和雷同。
 
[井上のコメント]
論語には、以下のように君子と小人を対比的に語っている章が何度も登場します。

 

【為政・第二】30-2-14
子曰、君子周而不比、小人比而不周。
【里仁・第四】77-4-11
子曰、君子懐德、小人懷土、君子懷刑、小人懐惠。
【里仁・第四】82-4-16
子曰、君子喩於義、小人喩於利。
【雍也・第六】130-6-11
子謂子夏曰、女爲君子儒、無爲小人儒。
【述而・第七】183-7-36
子曰、君子坦蕩蕩、小人長戚戚。
【顔淵・第十二】294-12-16
子曰、君子成人之美、不成人之惡、小人反是。

 

本章は、論語のなかでも特別有名な章ですし、とくに解説が必要なところはないとおもいますが、書かれている中身自体は、為政第二の14番(通し番号30)にほぼ近いものと考えてよいでしょう。『左伝』という書物の昭公二十年の条に、斉(せい)の国の賢臣・晏子(晏嬰、晏平仲)が「和」と「同」の違いについて述べているところがあるので、それを[参考]のところに紹介します。
既出の章のコメントに書いたことの繰り返しになりますが、この君子と小人について、「君子=統治者、小人=被統治者」と解する学者は少なくありません。しかし、孔子自身は、統治者ではなかったわけですし、論語全体のなかには、君子=統治者、小人=被統治者という意味で使われている箇所もあれば、そうではない箇所もあるので、固定した意味を与えて解釈するのでなく、時と場合、人により意味が異なる流動的な言葉として受け取る必要があるようにおもいます。論語の解説本を読むと、「君子=道徳的な人=りっぱな人、小人=不道徳な人=つまらない人」という訳が多く、それもあながち間違いであるとは言えないのですが、孔子は目指すべき目標として「君子」という言葉を使っているのではなく、結果として至った人格に対して「君子」と表現しているのですから、孔子本人の精神波動と、論語を編纂した人々の精神波動を混同しないよう注意したいとおもいました。
なお、君子と小人については小倉紀蔵『新しい論語』P.113~158に1章を設けて詳しく述べた箇所があり、旧来のステレオタイプな理解を退けた新しい見解が述べられているので、ぜひ参照ください。
 

<論語を読み直す>小倉紀蔵氏「論語は誤読を繰り返されてきた」!
 

[参考]
・斉の景公が狩猟から帰り、高台で休んでいると、子猶(斉の臣)が車で駆けつけてきた。公が「ただ拠(子猶の本名)だけが、わたしに和したのだろうか?」と言うと、晏子は「拠は、ただ同じたに過ぎません。どうして和したと言えましょう?」と答えた。公が「和すと同ずるとは異なるのか?」と言うと、晏子は、こう答えた、――「異なります。和は、羹(あつもの)と同じです。水、火、酢、塩辛、塩、梅干しを用いて、魚、肉を煮込み、炎を起すには薪を用い、料理人が、これを和し、これを調え、味わってみて、足らなければ補い、過ぎれば薄めるので、君子がこれを食えば、心が平らかになります。君臣の関係も、またこれと同じように、君がこれで好いとしても、好くないところが有れば、臣はそうでないと進言して、君の言葉を完成し、君がこれは好くないとしても、それが好いのであれば、臣はそれを進言して、君の言葉を完成して、政治を平らかにしますので、民の争う心を無くすることができます。詩経にはこう言っています、「味を和したる羹で、民の心を平らげよ、上下相い和しことばなく、争い事もおさまらん」、と。古の聖王は、五味(辛、酸、鹹、苦、甘)を調え、五声(宮、商、角、徴、羽)を和して、自らの心を平らかにし、政治を完成させました。声(音楽)も、また味と同じことです。一の気、二の体(文舞、武舞)、三の類(風、雅、頌)、四の物(四方の産物で作った楽器)、五の声、六の律(十二律中の陽の声に属する六つの音)、七の音(宮商角徴羽の五声と、変宮、変徴の二音)、八の風(八方の民謡)、九の歌(古の聖王禹の造った九功の歌)が、互いに助けあい、清濁、大小、長短、疾徐、哀楽、剛柔、遅速、高下、出入、周疏が、互いに調えあっているので、君子がこれを聴けば、心が平らかになります。心が平らかになれば、天与の徳と和しますので、詩には「徳の音には瑕がない」というのです。今、拠はそうではありません。君が好いとされれば、拠もまた好いといい、君が好くないと言われれば、拠もまた好くないというからです。もし水で、水を調えたならば、誰にこれが食えるでしょうか?もし琴瑟が、専ら一様で変化がなければ、誰にこれが聴けるでしょうか? 同ずることが、好くないとは、これをいうのです。」と。

 

※公冶長第五の16番(通し番号108)で孔子が晏子(晏平仲、晏嬰)を評しています

 

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