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あるがままに生きる

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あるがままに生きる(つぶやき考現学 No.97)

あるがままに生きる(つぶやき考現学 No.97)

2021/09/05

「あるがままに生きる」って

言葉がありますが、

それって、自分の好きなように

気ままに生きるとか

流れのまま身を任せることだって

けっこう多くの人が

誤解してるようにおもうんですね。

 

じゃあ、どういうことが

「あるがままの自分で生きる」ってことなのか、

少し前の自分には、

なかなか人にわかるように話したり

うまく説明したりできなかったんだけど、

最近そのことが真に腑に落ちて

いろんなことと関連づけながら

語れるようになったようにおもうので、

今日はそれについて話してみましょうか。

 

たとえば、わたしたちはよく、

「川が流れている」って言いますが、

考えてみてください。

 

本当に「川」は

流れているのでしょうか?

 

いや、流れているのは「川」でなく

「水」ですよね? 笑

 

でも、川の存在はそのままそこにあって、

流れているのは「水」であるのに、

なぜ、わたしたちは、ふつうに

「川が流れている」って言っていて、

しかもそのことに

あまり異和感がないのか・・・

 

この問いを考えるなかに、

「あるがままに生きる」とは

いったいどういうことかについて

解き明かすヒントがあるようにおもうのです。

 

おなじように、「雨が降っている」

「風が吹いている」という文も、

文の主語が「雨」や「風」でないのに

わたしたちは何の異和感もなく

日常でアタリマエのように使っていますよね。

 

この「雨が降っている」

「風が吹いている」の

文の主語はいったい何でしょうか?

 

すこし考えてみてください。

 

ところで、鎌倉時代に書かれた

平家物語の冒頭に登場する

「諸行無常」という言葉がありますね。

 

この有名な四字熟語は、

ちょうどその頃に仏教が庶民の間で

広まっていった時代を反映して

「仏教的世界観を表している」と

言われることもあります。

 

でも、この「諸行無常」という言葉は、

古代ギリシアの哲人ヘラクレイトスの言った

「万物は流転する」という言葉と

同じような意味あいで

受け取られることが少なくないようです。

 

つまり、すべてのものが

変化するのは止められないので、

流れるままに身を任せるより

仕方が無いんだというような

諦(あきら)めの気持ちが

強く感じられますよね。

 

そうした受け止め方も

もちろん間違いとは言えないのですが、

でも、それだけだと

表面的というか、浅いというか・・

 

じつは、「諦め」の「諦」という漢字には

「本当のことがあきらかになる」

「ものの真実をよく見る」

という意味があるのです。

 

それで、この「本当のこと」って

いったいどういうことなんだろう、

「真実をよく見てみよう」って

考えてみたんですね。

 

この「無常」という言葉について

その意味することを

よくよく考えてみると、

つまり、「常ならないもの」と言えるのは、

その前提として

「常あるもの」があればこそなんです。

 

「川が流れている」というのは、

川という変わらない存在があればこそ、

そこに水が流れることで、

変わっていくようすを見せているわけで。

 

つまり、変化するというのは、

変化しないものがあるから言えることで

変化するもの片方だけでは

存在できないわけだし、

言い換えるなら、

変化するものと変化しないものは

かならずセットで存在していて、

目には見えない、変化しないものこそが

変化するものの母胎でもあるんだと。

 

よって、「あるがまま」とは、

流れるままに身を任せ、

「常ならないもの」である

わたしの側に軸足を置いて

自由気ままに生きればいいってことではなく、

わたしという「常ならないもの」を

存在たらしめている

「常あるもの」を大事にして、

このわたしを生み出したオオモトとして、

つねに意識しようとする姿勢を

言うんじゃないかって気づいたんです。(2019.8.12)

※井上淳之典のつぶやき考現学 No.97

 

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